2-4 十月二十三日
二〇〇四年十月二十三日。十八時ごろ。 新潟県中越地方を震源とするマグニチュード6.8の地震が発生。後に『中越地震』と呼ばれる大震災である。
地震雷火事親父――新潟県に住んでいた人達にとっては、こと地震だけは他人事では済ませられないことだ。 井神家とは関係なく、この震災で同じ苦労を経験した方は多い。
私達は火事で家を失っていたところに被災した。泣きっ面に蜂だ。 しかし、あの家に住んでいたらどうなっていたのかわからない。古い家だったし、火事が起きずに住み続けていたら死んでいたかもしれない。ポジティブな兄は手相の〈神秘十字線〉を見つけて自慢げにしていた。「どれだけ不幸でも死なない! 神様が守ってくれてるから」 その手の皺は私にもある。
地震発生当時、私達はやよい荘にいた。 狭いアパートではあるが、生まれたばかりの弟を中心に一家団欒だったのではないだろうか。 私はミニバスの練習もなく赤ちゃん用の積み木を下駄にして〈天狗ごっこ〉をしながらテレビを見ていた。
部屋全体が激しく揺れ、ブレーカーが落ちた。ゴトゴトと不安定なテレビ(当時はブラウン管で岩のようなサイズ)が台から転がり落ち、危うく弟が下敷きになるところだった。 台所にいた兄が「熱ぃ!」と叫ぶ声が聞こえた。夕飯に温めていた味噌汁が跳ねて手にかかったのだそうだ。
玄関のドアは開かなくなっていたので風呂場の窓から出ることになった。お隣との壁が崩れていて、隣室に住んでいた老婆が湯船で放心していた。真ん丸の目で見つめている。
「地震だよ! 逃げないと危ないよ!」
私達の誰かが声をかけたと思う。私は浴槽の窓によじ登るのに必死でよく覚えていない。あの人は助かったのだろうか。
外は避難した人間で溢れていた。 子供というのは状況の大変さを真に理解は出来ない。この段階ではまだ精神的に余裕があった。さっき見た萎びた老婆の体を思い出して笑う余裕があった。 なんだか祭りの夜のような非日常感に気分が浮ついていた。
本震後も後を引くように余震が起きる。その度に人々の神経をすり減らす。また大きい揺れが来るかもしれない。今度こそ家が壊れるかもしれない。避難先の建物だっていつまで持つか……。道路が、橋が、山が、次の地震で崩れるかもしれない。 大人達の不安が子供に伝播する。私は当時からよく絵を描く子供だった。空想癖もあった。地中に棲む龍が怒ってるんだと妄想していた。
田舎には避難できる施設は少なく、ダメ元で車を走らせるのはガソリンが勿体無い。そもそも目的地があったとしても、道路がひび割れているので移動できる保証もない。私達は親父の車で車中泊を強いられた。当然眠りは浅い。トイレが無いため車内のゴミ箱を使用した。緊急事態だから誰も不満は言えなかった。
被災によって生活は一変した。あまりに色々ありすぎて記憶が朧げだが、せっかくなので被災体験談を思い出してみることにする。
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やよい荘に住み続けることはできないので、私たちは建設途中の家で生活することになった。仮設住宅という選択肢もあったが、おそらくはそこよりもマシだろうというのが親父の判断だ。 まだ外壁も屋根もない状態だが、地下部分だけは完成していて、雨風を凌げるスペースは充分にある。
地下、とはいってもこの家は坂に面した土地であるため、横側は地下部分が露出してコンクリートの基礎がそのまま壁になっている。トラクターなど農作機械を保管するため中は広く、なんなら子供用の砂場とバスケットボール用のハーフコートもあった。
風呂トイレは流石にない。……確か大工が家を建てるために設置している仮設トイレを使わせてもらったと思う。
全面コンクリート造の地下は寒く、やよい荘から回収した毛布や救援物資のアルミシート、段ボールを駆使して居住スペースを確保した。それと薬缶を置くことができるストーブで暖をとった。半ホームレス生活だがこれでもマシな生活だろう。当時はもっと酷い冬を過ごした被災者もいるはずだ。当時は碌に情報収集もできない時代だったので、後でニュースを見たり、悍ましい体験談を読んだ時はゾッとした。
断水状態でお風呂に入れなかったが、親父の知り合いの家は水道が生きていたので、他言無用(他の人に話すと押しかけてくるから)でシャワーを浴びることができた。何度も借りるのは申し訳ないと、私達一家は一度だけ世話になった。
地下生活は慣れてみると意外と悪くなかった。 子供というのは経済的な不安を持っていないので、一生このままとは考えていない。特に私達は良くも悪くもこんな生活に慣れていたので、学校が休みなのも嬉しかったし、近所同士の助け合いの暖かさが普段では味わえない体験だった。
全員が平等に不幸だった。 だから公平に思えたし、「なんで私だけ」という不満がなかった。
どれほどの日数が経過したか、小学校のグラウンドに自衛隊がやってきて、被災者のためのお風呂を設置してくれた。
大きな黒いテントが二つか四つ。おそらく男湯と女湯で、被災者の人数を捌くために四つあったように思う(ちゃんと見ていないので曖昧だ)。
靴を脱いで簀の子を敷いた床を進む。 テント内にはまず脱衣所があって、奥へ行けばビニールプールの巨大板みたいなお風呂が設置されていた。鉄パイプの骨組みに防水のシートを張り、そこに沸かした湯を張っている構造だ。すごく無骨で、仮設という言葉がピッタリな風呂である。
子供には熱い湯だった。だが、冬が迫る厳しい寒さには、とてもありがたい湯だった。無駄遣いしないように、次の人のために大事に使わせてもらった。 内部に充満する湯けむりがテントの隙間から差し込む光に照らされて光芒を作っていた。私はそれをじっと眺めて体を温めた。薄暗い闇では男の裸が微かに見えて、久しぶりの風呂に垢を落としていた。
地下暮らしでは、毎日地上階の忙しそうな音が聞こえてきた。 建築が急ピッチで進められているのだ。 屋根ができて、床が張られて、トイレが設置された時は嬉しかった。とんでもなく臭い仮設トイレとおさらばできる。
やがて家も形になると、私達は地上へ上がった。状況が特殊だったので荷物をダンボールにまとめるような引越し作業もなく、ぬるっと移動した。経過を見守っていたので新築への驚きもない。
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弟〈カズ(仮名)〉が生まれてから一年後。またもや下の弟ができた。 兄弟が増えているので整理する。全員仮名である。
長姉 シエ 私より10歳上だったはず。生まれも育ちもフィリピン。長兄 アル 多分8歳上か。同じくフィリピン組。 この二人は母の初婚相手の子供で、いわゆる第一世代だ。 第二世代は北海道の小樽市生まれ。
次男 兄 私より2つ上。日本では実質長男的ポジション。三男 莞爾 私である。 次が新潟の第三世代だ。
四男 カズ五男 ヨウ次女 アイ(!) ネタバレだが妹が産まれる予定だ。
新しい家での生活。 家族が増えていくにつれて父親は養子の私達に対する関心が薄れていった。 一人の親として持ち合わせる愛情のリソースが五等分された+もう小学生になったんだから手を離したっていいだろう――そんな親の事情を加味すれば関心が薄れたというのは私の誤解という可能性もある。が、親父も一人の人間だ。養子より実子の方が可愛いかろう。私が感じたものは誤解ではないはずだ。
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いつからそうなったのかはわからない。 いつの間にか私と兄は、下の子の面倒をみるのが当たり前になっていた。
赤子というものは目を離せば何をするかわからない。その上簡単に死んでしまうデリケートな存在だ。一人育てるだけでも体力と精神を削られる。家族や親戚、友人の助力がなければ育児ノイローゼになるという親も少なくない。
妹も産まれてくれば三人分の負担がのしかかった。頼れる人もいない環境で私と兄は奮闘した。 夜泣きをあやし、おむつを替え、粉ミルクを与えた。
リビングに並ぶベビーベッドから赤子の面倒をみるのは私達は背が低い。なので全員床に寝かせ、雑魚寝状態で対応した。 逃げる(育児放棄)という選択肢はなかった。 純粋な道徳観念を持って、『下の子は大事にするもの』、『上の子が面倒をみるのが当たり前』だとばかり信じていた。だからこの家の養子である私達はベビーシッターの役割を背負ったのだ。
あっちがオムツ替えならこちらはミルク……一人がぐずれば三人一斉に泣き出す。昼夜問わずテレビは常にアンパンマンのビデオがリピートされ、私は小学生でありながら育児ノイローゼに陥った。おそらく兄もそうだ。
母は家にいなかった。朝も夜も仕事に出ていて疲れ果てていたと思う。なぜ帰ってこないのか、どこにいるのか分からなかった(後で知ったが出産後の疲労から骨粗鬆症に罹っていた)。 親父はどこで何をしているのかわからない。リビングが子供だらけの保育所となってからは毎晩酒を飲みに出かけていたのかもしれない。自分の子供だというのに、世話をしている姿を私はみたことがない。
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この家にはストレスがあった。そして金もあった。 ここから先は恥ずかしい過去を語らなくちゃいけない。 時効だろうと考え、私は打ち明けようと思う。
あれは小学生のいつの頃か、私は親父の仕事部屋に侵入して小銭を抜き取るようになった。
親父は客間の隣にある一室を仕事部屋としており、そこの戸棚にどっしり大きな金庫を置いていた。自分の稼ぎを管理して、コインケースに几帳面に小銭を分別して分けていた。おそらく札束もあっただろうが私には見つけられなかった。金庫内に収められたさらに小さな金庫に厳重にしまっていたのだろう。もとより大金すぎて私の手は伸びなかったと思う。
当時の私が狙っていたのは五〇〇円硬貨だった。金色で、小銭の中で一番大きくて、子供心には紙幣よりも魅力的に映った。
震災を経てからずっと心が疲れていた。 学校が始まっても、下の子の世話ばかりで外に遊びに出ることもできなかった。 だから嫌がらせがしたかったのだ。親父の金を減らして帳簿と計算が合わなくなれば困るだろう。大人は金が大事だし、子供の私からすれば立派な復讐だった。
……しかし、意外なことに親父は金が減っていることに気付いた素振りがない。推察するに帳簿に残しているのは札束の大きな金額だけで、小銭はいちいち管理していないらしかった。 あるいは、金額が合わないのも取られているのも把握していて無視していたか。
私は味を占めて、ストレスが溜まった時には五〇〇円をくすねて発散するようになった。
とはいえ使い道はない。外に出ないのだから当然である。私はこの五〇〇円玉たちを「へそくり」と称し、いつかのお年玉のように家中の置物の下に忍ばせて遊んでいた。火事になっても残るという妙な信頼があった。 散財するという発想がないのだからまだ可愛いものである。
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そんな私を襲うのは子育てだけではない。小学生の本分――つまり勉強もストレスの原因だった。
思えば幼稚園の頃から教育者との折り合いは悪かったように思う。私は私なりの考えがあって行動するのだが、この思いが先生には伝わらず、誤解されることがままあった。
実例で言うと、幼稚園児の頃に行われる運動会の練習のとき、私の足の速さは並だった。もっと早く走りたい。そう考え、頭に浮かんだのはテレビで見た黒人の陸上選手の姿だ。手足が長く、一歩ごとの歩幅が大きい。子供ながらの観察眼と記憶力で、私は次のリレーの練習で黒人選手の真似をしてみた。我ながら上手く走れたのではないかと思っていたが、先生には「ふざけないで」と怒られた。ふざけてないのに。
小学の下級生の時も、先生は「アルファベット言える人ー?」とクラスに尋ねた。私からしてみれば簡単なことだったので挙手したが無視された。もう一人手を上げていた育ちの良さそうな女の子を指名し、女の子はアルファベットの歌を歌って褒められていた。クラスメイトも「すごい」「さすが」と尊敬している。私はショックだった。
そもそも教員は、宿題をやらない私=馬鹿と評価していたと思う。 私だって下の子の世話がなければ宿題をやる時間があっただろう。恵まれた家庭環境ならモチベーションも違っただろう。 そうすれば、少しはまともな生徒になれたはずだ……なんて言いたいが、言い訳は通用しない。 都合の悪いことに、兄は学校の宿題も下の子の世話も全部上手くこなしていた。
兄が優秀であるせいで、私ができていないことは全て怠慢であるという評価で落ち着いている。母も親父も「宿題」「勉強」「手伝い」の一辺倒で、私は立つ瀬がなかった。
『ダメな弟』というレッテルが貼られ、私はそれに相応しい人になった。この頃から、あまり笑わない人間になったと思う。 悲劇はまだ続く。




