幼き公爵令嬢、胸の奥に棘を抱く
客人たちは皆、すでに馬車に乗り込み、屋敷の正門から去っていった。
ある者は礼を欠くほどに親しげに、ある者は過剰にへりくだりながら、別れの言葉を交わした。
そうした騒がしさもすっかり消え、邸内にやや静寂が戻ってきた頃だった。
公爵令嬢は全ての客人を見送った後、一人で庭園に残っていた。
午後の光も弱まり、西の空が残照に赤く染まり出す中、公爵令嬢はひとり嘆息していた。
風に溶かし込むように、長く、細い吐息を吐き、目を閉じた。
そのまぶたの奥では、本日のちょっとした事件が再生されていた。
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事件が起きたのは、緊張もほどけ、茶会も大いに盛り上がってきた頃だった。
「──私のパートナーは本当に素晴らしい方でしたわ。不慣れな私を、本当にお優しくリードしてくださって……!」
イザベル・マーガレット・モラン嬢が熱弁を振るう様子。
それは丁度、モラン子爵令嬢が自分のダンスの相手がいかに素晴らしい貴公子であったかを熱弁していた時に起きたのだった。
彼女は、貴公子の背の高さを示そうと扇子を高く振り上げた。
その扇子の先が、ちょうど侍女が運んできたティーポットの持ち手に引っかかったのだ。
熱い紅茶が入っているティーポットの、持ち手に。
紅茶を淹れる湯の適温は、95度以上。
沸騰した湯で淹れるものだ。
ポットもカップも温めて、とにかく温度管理を大事にする。
そして、それを冷めないうちに提供する。
主賓たるモラン子爵令嬢の対面の席には、主催たる公爵令嬢が座していた。
公爵令嬢の視界には、湯気の立ち昇る、灼熱の紅が、スロウモーションのように──
──その瞬間、視界が、白く遮られた。
咄嗟に現れたのは、白手袋だった。
熱湯は一滴たりとも、公爵令嬢には届かなかった。
「……お嬢様、お怪我はありませんか」
ユリウスの声音には動揺がなかった。
いつも通りの、事務的にただ確認するだけの声だった。
「——ええ」
令嬢は咄嗟に悲鳴を上げることも、避けることも、腕で庇うこともできずに、ただわずかに目を見開いていた。
ユリウスが身を引くのと同時に、令嬢は声を出した。
「皆様、お怪我はございませんか。……モラン様、我が家の侍女の不手際をお詫び申し上げます。……お召し物も、ご無事ですか?」
ひとつ呼吸をした。
それから、怯えている客人たちを見渡しながら、何ごともなかったようにスッと立ち上がる。
「さて。ずっと座っていてお疲れではありませんか?今は庭園の芍薬が見頃ですの。よろしければ、ご覧になりませんか?」
そう言いながら後ろ手に、侍女に指先で片付けを指示する。
その陰でユリウスは、何気ない動きでピッと手を軽く振って水気を払い、火傷した手のひらの様子を見せないようにしながら、新しい白手袋を懐から取り出して交換する。
そして、そのままお嬢様の背後に控える定位置に戻った。
ユリウスは火傷を冷やすより、お嬢様に付き従うことを優先した。
お嬢様と同じように、何事もなかったように振る舞うため、だけではない。
自分が御側を離れている間に、今のようなもしもがないとは限らないからだ。
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──そして今、夕暮れの庭。
当たり前のように背後に控えているユリウスに、令嬢は振り返りもせず声をかける。
「——手は」
「問題ありません」
「すぐに手当を」
「……お気遣いいただき、ありがとうございます」
言葉のやりとりは、それだけだった。
令嬢は胸の奥に、言いようのない、奇妙な感覚を抱いた。
(……間に合わないと思ったのに)
あの瞬間、ユリウスが眼前に飛び出していたことが、まるで現実離れしていて、信じがたかった。
何故あのタイミングで。どうしてあんなに速く。
それを思うと、不思議と、胸の奥がむず痒い。
言葉にならない感情が、胸の奥にごく小さく、棘になって刺さっていた。
(彼は、私を見ていた。守ろうとして、実際に守ってくれた)
ちら、と背後のユリウスを見遣る。
すぐに手当を、と言ったのに、ユリウスはまだそこに控えている。
令嬢はもう一度だけため息をついて、水場へと歩を進めた。