幼き執事見習い、こころに灯火を得る
何もかもが上手くゆくなんてことはあり得ない。
そう分かってはいても、いざ自分の身にふりかかると、耐え難い苦痛を感じるのが人間である。
——ユリウスがお嬢様に名を尋ねられた日から数週間が経った。
季節は晩春を過ぎ初夏へと差しかかり、庭の薔薇が早咲きの蕾を開き始める頃だった。
陽射しの柔らかな午後、令嬢は緩やかに腰掛けていた。
「……ねえ、そこの……黒髪の、そこの人」
陽射しと同じくらい柔らかな声が、室内に響いた。
ユリウスは一拍、呼吸が止まった。
扉近く、廊下の入口から数歩入ったところ。
壁際に控えていた彼は、その呼びかけに、ほんの一瞬だけ硬直した。
「ええと……前回の晩餐会の来客のリストって、どこだったかしら?顔と名前が一致しない人が何人かいたのよ。」
人間が「顔と名前を一致させて覚えていられる人数」は平均して五千人、多くて一万人と言われている。
中でも親しい間柄は百人から二五〇人の間、平均しておよそ一五〇人程度しか記憶できないと言われている。
これは、「ユリウス」がその一五〇人の中に入れなかっただけのことである。
貴族令嬢の脳の記憶領域とは、たった一度聞いただけの従者の名前を覚えていられるほど、余裕のあるものではない。
多くの客人を相手に、成人後を見据えた日々を過ごす彼女にとって、その記憶枠は満ちに満ちているのが常であった。
まして、いくら貴族がこれに特化した一族とはいえ、彼女はまだ十歳。
聡明で大人びていても、その脳を含む肉体はまだ十歳なのだ。
——仕方のないことだった。
ユリウスは胸の中の灯火がふうっと吹き消された心地がした。
しかしそれが顔に出ることはなかった。
元々無かった灯火が、たまたま運よく点けられ、また風に消えただけだ。
元に戻っただけのことに、動揺する必要はない。
彼はすぐに静かに頭を下げ、書類棚からリストの写しを差し出すべく、動き出した。
まるで何もなかったように。
そうでなければならなかった。
お嬢様の忠僕であろうとする者が、よもや己の存在を忘れてくれるなと主張するなど、あってはならない。
そもそも、あの日ただ一度、名を呼んでいただけたことを奇跡と思うべきなのだ。
この奇跡だけで、分に過ぎる……と、ユリウスが一歩振り返った時。
お嬢様の輝く光を湛えた目が、ジッとユリウスを見上げていた。
ユリウスが来客リストを探している間に、お嬢様はユリウスのすぐそばまで来ていた。
「貴方……晩餐会にいた、気がするわ」
ユリウスの心臓が跳ねた。
「えっと……そう、晩餐会の後で……私、名前を訊ねたわ。何だったかしら。Jから始まる名前じゃなかった?」
ユリウスが口を開こうとすると、令嬢は「ちょっと待って」と、白魚のような指を小さく掲げて制止した。
彼女の眉はわずかに寄せられたままだ。
しかし、その双眸はまっすぐにユリウスの目を見つめていた。
そして、たっぷり呼吸ふたつ分の時間を置いてから、——ふわりと、その表情がほどけた。
「ユリウス!……そうよね?」
花のほころぶような微笑みと共に、その名を呼ばれた瞬間、ユリウスの全身が熱く燃えるような感覚がした。
「……はい。ユリウスと申します。お嬢様の御記憶のとおりでございます」
言い終わるなり、ユリウスは深く頭を下げた。
腰から体を折りたたむように、丁寧に、完璧に。
——お嬢様の視線から逃れ、礼の形に逃げ込むように、頭を下げた。
目の奥が、どうしようもなく熱かった。
表情の管理はできても、胸の奥から溢れる熱が目元へ表れるのは、どうにも抑えがたかった。
名を呼ばれた。一度は忘れられたはずの名を。
彼女はたった一人で、自力で記憶を掘り起こした。
あの夜、あの扉の前で響いた、たった一度きりのはずの奇跡が、また自分を見つめていた。
彼女は、ただの「黒髪の召使」ではなく、確かに「ユリウス」と認識してくれた。
(覚えていてくださった……)
貴重な記憶のひと枠を、自分に割いてくれていた。
その事実だけで、胸に光が差し込んだようだった。咽びたくなるほどの熱が、静かに、けれど確かに、彼の中に染みこんでゆく。
だが、そんな心を、ユリウスはけしてお嬢様の見える場所に出すことはなかった。
指一つ動かさず、声一つ乱さず、ただ仕える者のかたちを守りきる。
主が我が名を忘れていても、覚えていても、変わらぬ忠義を。
それがユリウスが教え込まれた忠義の姿勢だった。
「そう。合っていたのね。すっきりしたわ」
令嬢はそれだけを言うと、すぐに視線を手元のリストへと逸らした。
椅子へと戻りながら発せられた言葉は、まるで謎解きの一問目に正解しただけのような、ごく軽い口調だった。
事実、彼女はこれから晩餐会の来客の顔と名前を照らし合わせるのだ。
その手慣らしが「ユリウス」だっただけだろう。
けれどユリウスには、それだけで充分だった。
彼は音もなく下がり、扉近くの定位置についた。
次に名を呼ばれる時まで、……あるいは二度と呼ばれずとも。
この二度灯された奇跡は、自分だけのもの。
命をかけて守るに値する、至宝。
そう思うほどに、こころが光に、熱に満ちていた。