表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

幼き執事見習い、こころに灯火を得る

 何もかもが上手くゆくなんてことはあり得ない。

 そう分かってはいても、いざ自分の身にふりかかると、耐え難い苦痛を感じるのが人間である。

 

 ——ユリウスがお嬢様に名を尋ねられた日から数週間が経った。

 季節は晩春を過ぎ初夏へと差しかかり、庭の薔薇が早咲きの蕾を開き始める頃だった。

 陽射しの柔らかな午後、令嬢は緩やかに腰掛けていた。




「……ねえ、そこの……黒髪の、そこの人」




 陽射しと同じくらい柔らかな声が、室内に響いた。

 ユリウスは一拍、呼吸が止まった。


 扉近く、廊下の入口から数歩入ったところ。

 壁際に控えていた彼は、その呼びかけに、ほんの一瞬だけ硬直した。


「ええと……前回の晩餐会の来客のリストって、どこだったかしら?顔と名前が一致しない人が何人かいたのよ。」


 人間が「顔と名前を一致させて覚えていられる人数」は平均して五千人、多くて一万人と言われている。

 中でも親しい間柄は百人から二五〇人の間、平均しておよそ一五〇人程度しか記憶できないと言われている。


 これは、「ユリウス」がその一五〇人の中に入れなかっただけのことである。


 貴族令嬢の脳の記憶領域とは、たった一度聞いただけの従者の名前を覚えていられるほど、余裕のあるものではない。

 多くの客人を相手に、成人後を見据えた日々を過ごす彼女にとって、その記憶枠は満ちに満ちているのが常であった。


 まして、いくら貴族がこれに特化した一族とはいえ、彼女はまだ十歳。

 聡明で大人びていても、その脳を含む肉体はまだ十歳なのだ。

 ——仕方のないことだった。


 ユリウスは胸の中の灯火がふうっと吹き消された心地がした。

 しかしそれが顔に出ることはなかった。

 元々無かった灯火が、たまたま運よく点けられ、また風に消えただけだ。

 元に戻っただけのことに、動揺する必要はない。


 彼はすぐに静かに頭を下げ、書類棚からリストの写しを差し出すべく、動き出した。

 まるで何もなかったように。


 そうでなければならなかった。

 お嬢様の忠僕であろうとする者が、よもや己の存在を忘れてくれるなと主張するなど、あってはならない。


 そもそも、あの日ただ一度、名を呼んでいただけたことを奇跡と思うべきなのだ。

 この奇跡だけで、分に過ぎる……と、ユリウスが一歩振り返った時。


 お嬢様の輝く光を湛えた目が、ジッとユリウスを見上げていた。

 ユリウスが来客リストを探している間に、お嬢様はユリウスのすぐそばまで来ていた。


「貴方……晩餐会にいた、気がするわ」


 ユリウスの心臓が跳ねた。


「えっと……そう、晩餐会の後で……私、名前を訊ねたわ。何だったかしら。Jから始まる名前じゃなかった?」


 ユリウスが口を開こうとすると、令嬢は「ちょっと待って」と、白魚のような指を小さく掲げて制止した。

 彼女の眉はわずかに寄せられたままだ。

 しかし、その双眸はまっすぐにユリウスの目を見つめていた。


 そして、たっぷり呼吸ふたつ分の時間を置いてから、——ふわりと、その表情がほどけた。


「ユリウス!……そうよね?」


 花のほころぶような微笑みと共に、その名を呼ばれた瞬間、ユリウスの全身が熱く燃えるような感覚がした。


「……はい。ユリウスと申します。お嬢様の御記憶のとおりでございます」


 言い終わるなり、ユリウスは深く頭を下げた。

 腰から体を折りたたむように、丁寧に、完璧に。

 ——お嬢様の視線から逃れ、礼の形に逃げ込むように、頭を下げた。


 目の奥が、どうしようもなく熱かった。

 表情の管理はできても、胸の奥から溢れる熱が目元へ表れるのは、どうにも抑えがたかった。


 名を呼ばれた。一度は忘れられたはずの名を。

 彼女はたった一人で、自力で記憶を掘り起こした。

 あの夜、あの扉の前で響いた、たった一度きりのはずの奇跡が、また自分を見つめていた。


 彼女は、ただの「黒髪の召使」ではなく、確かに「ユリウス」と認識してくれた。


(覚えていてくださった……)


 貴重な記憶のひと枠を、自分に割いてくれていた。

 その事実だけで、胸に光が差し込んだようだった。咽びたくなるほどの熱が、静かに、けれど確かに、彼の中に染みこんでゆく。


 だが、そんな心を、ユリウスはけしてお嬢様の見える場所に出すことはなかった。

 指一つ動かさず、声一つ乱さず、ただ仕える者のかたちを守りきる。


 主が我が名を忘れていても、覚えていても、変わらぬ忠義を。

 それがユリウスが教え込まれた忠義の姿勢だった。


「そう。合っていたのね。すっきりしたわ」


 令嬢はそれだけを言うと、すぐに視線を手元のリストへと逸らした。

 椅子へと戻りながら発せられた言葉は、まるで謎解きの一問目に正解しただけのような、ごく軽い口調だった。

 事実、彼女はこれから晩餐会の来客の顔と名前を照らし合わせるのだ。

 その手慣らしが「ユリウス」だっただけだろう。


 けれどユリウスには、それだけで充分だった。

 彼は音もなく下がり、扉近くの定位置についた。


 次に名を呼ばれる時まで、……あるいは二度と呼ばれずとも。

 この二度灯された奇跡は、自分だけのもの。

 命をかけて守るに値する、至宝。


 そう思うほどに、()()()が光に、熱に満ちていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ