幼き執事見習い、初めて名を呼ばれる
それから1年ほどが経ち、ユリウスは十五歳になった。
初めは十数名ほど居た同期の少年たちも、半年で屋敷を去った者、一年で去った者があり、今や半分まで数を減らしていた。
公爵家本邸に「行儀見習い」が召し上げられるのは数年に一度なため、まだ後輩はいない。
もっとも、後輩ができたところでユリウスにとっては何も変わらない。
後輩指導という新たな業務が増えたところで、何も変わらない。
ユリウスにとって大事なのは「自分がお嬢様にお仕えすること」だけだった。
この頃のユリウスは急激に背が伸び、行儀見習いのお仕着せを二度も作り直したほどだった。
そして背が伸びたことで、ユリウスには新たな仕事が与えられるようになった。
見栄えの良い手足の長さになったので、飾られるようになったのだ。
客人を迎えての食事会などで壁際の飾りとして立つだけの仕事や、ドアマンやベルボーイのように扉の開閉および簡易な案内役を務めるようになった。
それは、完全に裏方仕事だけだったこれまでとは違い、お嬢様を視界に入れる機会が増えるということだった。
ユリウスにとっては、この上ない僥倖だった。
また、ユリウスは「お嬢様にお仕えする」ということに関して、ずば抜けた才を発揮した。
昼の茶会に華を添えるために立っているだけの時間でも、お嬢様がほんの少し眉を寄せれば、すぐに紅茶を新しく熱いものと取り替えられるよう、常に気を配っていた。
誰よりもお嬢様を思い、観察し、先んじて行動したため、当然の結果ではある。
——ユリウスが表に出る仕事を任せられるようになってから、数ヶ月後のことだった。
晩餐会を終え客人を見送った後の、ゆるゆると片付けが始まる、その直前頃。
公爵令嬢だけが広間に残っていた。
令嬢は招待客を見送る両親を、窓際の席から眺めていた。
ユリウスは、令嬢が広間を退出する際の扉の開閉をするためだけに、その場に残っていた。
ユリウスは壁に溶け込むように気配を消しながら、令嬢が席を立つ気配を伺っていた。
しかし、その公爵令嬢が動かしたのは身体ではなく、声だった。
「……貴方の名前、なんだったかしら」
窓辺から振り返りもせず、令嬢はふとしたように問いかけた。
ユリウスは心臓がドキリと鳴った。目を伏せ、控えめに答える。
「……お嬢様がお覚えになる必要はございません」
「あるわ。最近、貴方が一番便利だもの。呼べないと不便よ」
事務的な声だった。
けれどその言葉で、ユリウスの胸に初めて、ひとかけらの熱が灯った。
お嬢様は見ていてくださったのだ、と堪えようもない嬉しさだった。
「……ユリウスと申します」
「ユリウス」
即座に声に出された。
お嬢様がこの名を呼んでくださった。
望外の喜びに、ユリウスは目を伏せた。
未熟な我が身に余る光栄だった。
「ふうん。古風ね」
それだけを言って、彼女はすっと立ち上がった。
ユリウスは反射的に動いた。ドアノブを回し、重厚な扉を音もなく開ける。
ガチャリ、などという耳障りな音をお嬢様の耳に入れさせるわけにはいかない。
令嬢は微笑むでもなく、ただ通りすがりに一瞬だけユリウスを見上げた。
そのまま、するりとユリウスの前を通り過ぎて、何も言わずに広間を出てゆく。
残されたユリウスは、開いた扉の前で、しばらくその場を動けなかった。
胸が早鐘を打ち、呼吸が苦しかったからだ。
まるで、お嬢様と目があった瞬間に、人生で最初の呼吸を始めたかのようだった。
全身に血が巡り、手足の先まで熱かった。
なのに頭の中は、もやが晴れたようにすっきりとして、深い呼吸で取り込んだ酸素が脳に染み渡っていく。
他人事のようだった自分の肉体が、ようやく自分のものに——「ユリウス」のものになった感覚だった。