幼き執事見習い、まことの高貴と出会う
お嬢様に私が初めてお会いした日のことを思うと、今でも頭の芯に、雷にうたれたが如き衝撃が残っているのを、はっきりと感じます。
——「感情の記録」より抜粋——
ユリウスにとって、全ての始まりの年。
彼が初めて公爵家本邸に上がったのは、十四歳の時だった。
ある伯爵家にて「従僕見習い」として働いていたユリウスは、その容姿と文武の才と忠誠心の高さから、本家である公爵家へ「行儀見習い」として送られたのだ。
ユリウスは将来的に執事なり秘書なりの「高位の側仕え」へと育てられるため、公爵家へ送られた少年たちのうちの一人だった。
——春の日の午後。
伯爵邸とは文字通り格の違う、公爵邸。
その本館、第四応接室の壁際に並んで立つ十数名の少年たち。
緊張と期待に胸を膨らませて私語の絶えない少年たちの中で、ユリウスは浅く遅い呼吸で、ただ黙していた。
行儀見習いに着せるお仕着せでさえ、品のある上等なつくりと丁寧な仕立て。
床に敷かれた絨毯には、汚れ一つなく、砂の一粒さえも許されないように見える。
低い卓もソファも、家具は全てが光るほどに磨き上げられている。
邸内で最も格の低い第四応接室ですら、伯爵邸とは比べ物にならない。
ユリウスは横目で窓の位置を確認した。
ここまでに歩いた中で、屋敷の全体図と構造を推測する。おそらく本館は行政や社交を行う公的空間が主になっている。
そして、これからの日々で目指すべき理想の姿と、今の自分に求められるであろう仕事を頭の中でザッと計算した。
理想は「完全」、自分には「成長」が求められている。
私的空間ではなく本館の応接室に通されたからには、「行儀見習い」や「従僕見習い」ではなく、「執事見習い」と言って差し支えない仕事が求められている。
おそらく一度目のミスは許されるだろう。
しかし二度目はない。
同じミスを繰り返す者に、この邸内で居場所はない。
妥協は許されない。
この空間の完璧に整えられた様が、そう言っている。
——軽やかなノックの音が響いて、少年たちが私語をやめた。
ユリウスは片手をそっと胸に当て、腰を曲げて頭を垂れた。
扉がゆっくりと開く。
赤く丸い靴の爪先、白靴下。
幾重にも重なるレースのスカートは、暖かな白を基調に、金糸の刺繍が控えめに入れられている。
まだ視線は上げずに、ただ待つ。
執事にエスコートされて、少女がソファに座ったのを、足元の様子で確認した。
爪先はほんの少ししか床についていないにも関わらず、ピタリと揃えられている。
ふわりと広がるスカートは、軽くまとめられている。
どの動作も決して無駄な力が入っていない。
「顔をあげなさい。お前たちがこれから仕える主にご挨拶を申し上げなさい」
執事の言葉を受け、ユリウスはゆっくり顔を上げた。
衝撃だった。ユリウスの頭の先から背骨を通り、四肢の先まで全身に、電撃が奔った。
まだたった9つと聞いている。
幼い少女が、誰よりも静かに、しかし貴族らしい優雅さと威厳を備えていた。
少年たちを歓迎して、誰もが微笑みを浮かべているこの屋敷で、彼女だけが目に憂いをたたえていた。
それは、ただ子供が不機嫌に拗ねているのとはまるで違う。
孤高の在り方だった。
下男が何人増えようと、彼女にはどうでも良い。
彼女の目には下賤の者など一切うつっていなかった。
将来、女主人として家政をおさめる立場としてこの場に居るにも関わらず、彼女は少年たちに一切の興味を示していない。
ただ「挨拶をされる」という、立場上の役割を果たすためだけに、彼女はそこに居た。
どこの領地の何という者から推薦されたか、などという形式ばかりの挨拶を、彼女は一つも覚えはしないだろう。
この「見習い」たちの中で、誰が最後まで残ろうと残るまいと、どうでも良い。
諦念とも違う、無関心だった。
彼女は少年たちの方を見てはいる。
しかし誰とも目を合わせてはいない。
それでも誰をも見下してはいない。
彼女はただ、憂いているだけだった。
誰かに頼らねば生きていけない儚さなのに、それでもなお何者にも救いを求めない、孤高の少女だった。
これこそが高貴。
この人こそが高貴。
俗物が宮廷を我が物顔で闊歩するようになったこの時代で、——最後の、高貴。
ユリウスは、この人にこそ生涯を捧げてお仕えするのだ、と悟った。