第32話・第1節「神なき王都の夜明け」
王都ユゼルヘイム。
その中心部、真聖堂の尖塔は――夜明けと同時に、音もなく崩れ落ちた。
光翼をまとった聖女が祈りを捧げ、民を導いたはずの聖域。
だが今、その象徴は、瓦礫と煙に塗れた廃墟となっていた。
「……終わったのか?」
ルークスの声は、かすかに震えていた。
勝ったという実感ではない。
ただ、一つの“時代”が崩れ落ちたことへの深い実感。
瓦礫の中から、ミュリナが姿を現す。
その顔は血と埃に汚れていたが、目はまっすぐにルークスを見つめていた。
「ユリエルは……最後まで、人として逝った」
その言葉に、ルークスは目を伏せた。
「神になりたかった女が、人間に戻って死んだ。皮肉な結末だな」
ミュリナは小さく首を振る。
「違うよ。あの人は、“人間であること”を取り戻したかったんだと思う。最後の祈り、私、感じたから」
誰もいない広場に、風が吹き抜けた。
教会関係者の多くは、すでに逃げ出したか拘束された。
王都の聖騎士団も、ユリエルの神性解放の失敗とともに指揮系統を失い、混乱の最中にある。
ジェイドとセリナは、南門近くの封鎖線の解除に奔走していた。
「これで、真実を語る場ができるわけだが……問題は、誰に語るかだな」
囁かれし者が静かに呟く。
聖典の写本を手にした彼女は、既に数人の地方貴族へ密使を飛ばしていた。
「王家も教会も信用できない今、必要なのは“第三の公正なる声”」
「だがそれが、すぐには現れないことも……知ってる」
ルークスは、崩れた聖堂の尖塔を見上げた。
そこにはもう、神の象徴も、威光もなかった。
「……俺たちは、神を殺したんだな」
彼の呟きに、ミュリナはそっと肩を寄せる。
「違うよ。私たちは“偽りの神を打ち倒した”だけ。今からが、本当の意味で“人が信じるもの”を作る戦い」
その言葉に、ルークスはようやく、小さく笑った。
――夜明けの光が、瓦礫の中に差し込んだ。
灰色にくすんだ王都に、まばゆいほどの金光が射した。
その光に、民のひとりが気づく。
そして、もうひとり。次第に集まり始めた人々が、崩れた聖堂の前に膝をつき、沈黙の祈りを捧げた。
それは、恐怖による信仰ではなかった。
怒りでも、強制でもない。
ただそこに、“想い”があった。
「信仰って……こういうものだったんだね」
ミュリナの頬を、一筋の涙が伝った。
「この光景を、ユリエルも見てほしかった」
ルークスは無言でうなずき、地面にそっと腰を下ろした。
疲労は限界だった。だが、ようやく――心の底から呼吸ができた。
「……セリナたちは?」
「南門の封鎖は解いた。王都の外との接続は回復しつつある。北の砦から援軍を要請していた地方領主たちも、今日中に到着する見込みだ」
囁かれし者の報告に、ルークスは目を細めた。
「なら、もう一度ここを建て直す準備が必要だな。誰の祈りも、誰かの血で汚さないように」
「それが、君の“新しい使命”?」
「さあな。俺には、まだ“神”というものがよくわからない。ただ、偽りの神を掲げて人を縛るやり方が間違ってたことだけは……もう充分すぎるほど、わかった」
そして再び、王都の空を見上げた。
空は、青かった。
曇りも煙も去り、光の道がまっすぐに伸びていた。
その先に、どんな未来があるかはまだ誰にもわからない。
だが、ルークスはその空を見て、ようやく一歩を踏み出した。
「……行こう。俺たちには、まだやるべきことがある」
ミュリナもうなずき、彼の隣を歩き出した。
――それは“神なき時代”の始まり。
だが同時に、人の祈りが“本物”になるための、最初の夜明けだった。