第4話・第1節「ミュリナの正体と追手の影」
焚き火の残り香が、朝の冷えた空気にふわりと混じっていた。
森の中にある廃墟は、依然として静かだった。だが、その静けさの裏には、見えない緊張が漂っている。
ミュリナの目覚めは早かった。
ルークスが湯を沸かすために火を起こすと、その小さな気配に反応するように、彼女はまぶたを開いた。
「おはよう」
そう声をかけると、ミュリナはこくりと小さく頷いた。
彼女の顔色は、昨日よりも幾分ましだった。頬の赤みも戻りつつあり、傷口の腫れも引いている。だが、それ以上に――
彼女の目に宿る“光”が変わっていた。
まだ怯えの影は残っている。けれど、その奥に、わずかな“自我”が戻り始めていた。
食事を共にし、会話を交わし、眠る場所があった──その当たり前すら与えられていなかった彼女にとって、それは奇跡のような変化だったのだろう。
「調子はどうだ?」
問うと、ミュリナは少しだけ考えるようにしてから、かすかに微笑んだ。
「……あたたかい、です」
その言葉に、ルークスの口元もわずかに緩んだ。
「そうか。なら、よかった」
焚き火の炎が、二人の間をゆっくりと照らす。
やがて、ミュリナは自分の脚に視線を落としながら、ぽつりとつぶやいた。
「……わたし……捕まってたんです。奴隷商の“護送団”に……」
ルークスは顔を上げた。
彼女が、自らその話を始めるとは思っていなかった。
「森に迷い込んだのは……逃げたからです。鎖を断ち切って……でも、森は……思ったより深くて」
語る声は震えていたが、それでも止まらなかった。
どこか、それを“告白”することで、自分がようやく“存在していい”と思えるようになったかのように。
「わたし、母がエルフで……父は人間でした。ハーフエルフ、って、……あの世界では、価値があるって……」
言い終わる前に、ルークスは理解した。
魔力の扱いに長け、寿命も人間より長く、そして“見た目が美しい”――
ハーフエルフという存在は、貴族や商人にとって“金になる”のだ。
「……ひどい話だ」
そう言った彼の声は、低く、しかしどこか熱を帯びていた。
ミュリナは俯いたまま、ぽつりと続ける。
「見つかったら、また……連れ戻されるんです。きっと、ひどい……罰が……」
その瞬間だった。
──“カツン”。
小さな音が、廃墟の外で響いた。
乾いた、硬い何かを踏みしめる音。
不自然なほどに整った間隔で、連続して近づいてくる。
ルークスは即座に剣へ手を伸ばし、ミュリナを背後へ隠した。
「来たか……」
彼女の肩がびくりと震える。
口を覆い、小さく息を止めるミュリナの顔は真っ青だった。
その恐怖の色だけで、十分だった。
彼女にとって“外”が、どれほどの脅威か。言葉など必要ない。
ルークスは静かに立ち上がり、足音の方向を見据える。
「……ミュリナ。奥の部屋へ。音を立てずに、身を伏せろ」
ミュリナはためらったが、ルークスの瞳を見て、すぐに頷いた。
その背中が瓦礫の向こうに消えた瞬間、足音が廃墟の前で止まった。
「……中に誰かいるのは分かってるぞ」
濁声が響いた。
低く、乾いた、命令口調。数人の気配。馬の匂い。革と鉄のきしむ音。
「その娘、俺たちの“荷物”だ。返してもらおうか」
ルークスは、ため息混じりに呟いた。
「“荷物”ねぇ……。言葉を選ばない連中だな」
剣を抜いた。
刃が月光に照らされ、白銀に輝く。
「悪いが。ここに“荷物”はない」
その瞬間、廃墟の空気が変わった。
誰かの命令で動かされる人生から、
誰かを守るために剣を抜く生き方へ――
最強の放浪者の眼差しが、確かに戦場を見据えた。