第3話・第2節「火と食卓の記憶」
ミュリナが言葉を発したその日、廃墟の一角にわずかな“温度”が戻ってきた。
ありがとう。
それは、傷ついた少女が自分の意志で世界に向けて発した、最初の“音”だった。
ルークスは焚き火を囲むようにして小さな鍋を置き、携帯用の調理器具を丁寧に並べていく。
湯を沸かし、保存していた乾燥肉を細かく刻む。森で拾った根菜に似た植物をナイフで切り、鍋へ放り込んだ。
ミュリナはその一部始終を黙って見ていた。
彼の動きには無駄がなかった。けれど、どこかぎこちない。慣れているようでいて、食事の支度という行為に、ぎこちなさが滲んでいる。
「……こういうの、実は初めてなんだ」
ルークスが小さく笑う。
「料理っていうほどのもんでもないけどさ……誰かのために、って考えて作るのは初めてだ」
ミュリナが、はっとしたように目を見開いた。
そのまま、ゆっくりと視線を鍋に戻す。
静かだった。
鍋の中からは、野菜が柔らかくなる音と、乾燥肉から染み出した脂が表面を揺らす音が聞こえる。
ルークスは香草を数枚ちぎり、仕上げに加えた。
ふんわりと、香ばしく温かな香りが広がる。
「……できた」
彼は、木皿にスープを注ぎ、自分用とミュリナ用に二つ並べる。
少女は、少し戸惑いながらも、両手で皿を受け取った。
その手が、とても丁寧で、慎重だった。
食器を割らないようにと怯えているかのように、指先にまで力が入っている。
「……ゆっくりでいい。味の保証はできないけど、毒じゃないさ」
冗談めかした言葉に、ミュリナは小さく肩を揺らした。
笑ったのかもしれない。いや、笑おうとしたのかもしれない。
その一瞬が、ルークスには何より嬉しかった。
ミュリナは、そっとスプーンを口に運んだ。
小さく息を吸い、慎重に、そっと。
──ごくん。
喉が動いた。
そして彼女の瞳が、ふるふると揺れた。
「……おいしい」
その言葉は、とてもか細く、とても尊い響きを持っていた。
誰かのために作った初めての食事が、たった一言で報われたような気がした。
「そうか……よかった」
ルークスは頬を掻くようにして、少し視線を逸らす。
照れていた。それに自分でも気づいていて、どうしようもなかった。
「昔は、味なんてどうでもよかった。カップ麺とエナジードリンクで、一日が終わってた」
ぽつり、とこぼすように呟く。
「職場じゃ“休憩中に飯なんて贅沢だ”って空気が当たり前でさ。腹を満たすのが目的で、食うこと自体に意味なんて感じてなかった」
ミュリナがスープをゆっくりと口に運びながら、その話を聞いていた。
「でも今は……なんでだろうな。お前が、うまいって言ってくれて、初めて“食べる”って行為に意味がある気がした」
スプーンを止めたミュリナが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳に、言葉にはならない想いが込められていた。
自分も、そうだった──と。
食事は与えられるもので、喜んではならず、残せば叩かれ、味など感じる余地もなかった。
「……ルークス、さんは……」
言葉が続く。けれど、ミュリナはそこで止まった。
その声は小さく、喉が震えていた。
だが、ルークスは否定しない。遮らない。ただ、そっと返す。
「呼び捨てでいい。俺に“さん付け”なんて似合わないからな」
ミュリナが小さく、ほんの小さく、笑った。
笑ったのだ。
声も音もなかった。だが、確かにその頬が柔らかく緩み、光が揺れた。
──この世界で、誰かと火を囲み、言葉を交わし、食事をする。
それはルークスにとって、何よりも“生きている”という実感だった。