第26話・第2節「裏都“黒殻街”と偽りの聖印」
王都の裏門を抜けた先に広がっていたのは、もはや“都市”とは呼べない場所だった。
狭く入り組んだ石畳の路地。雨漏りを起こした屋根の上でカラスが啼き、下水の臭気と香草の匂いが入り混じる空気が肌にまとわりつく。そこに暮らす人々の瞳には、希望も誇りもなく、ただ一日を生き抜くための冷めた光が宿っていた。
「……ここが“黒殻街”」
囁かれし者の口から語られたその地名は、まるで呪詛のようだった。
「ここは王都の裏の裏。貴族たちが見て見ぬふりをする“不要な人間”を集めた場所。異種族、逃亡奴隷、犯罪歴を持つ者、そして……信仰を捨てた者たちが押し込まれてきた」
「信仰を……捨てた?」
ミュリナが驚きの声を上げると、囁かれし者は目線だけを彼女に向けて続ける。
「教会は“異端”を恐れる。たとえそれが力の目覚めであっても、神託以外の力を得た者は粛清の対象。君のような“自己覚醒型の聖印保持者”は、むしろ真っ先に標的になる」
「聖印……?」
ルークスが口を挟んだ。
「それは、教会が人間に与える“加護”の証だ。力を授かると、身体のどこかに文様が刻まれる。それを“聖印”と呼ぶ。ただし……」
囁かれし者は歩みを止め、石壁に貼られた血塗れの紙を指差す。
そこにはこう書かれていた。
> 『聖印なき者に天罰を。異端を見つけた者は速やかに報告せよ』
「……ただし、それが“教会から与えられたものでない”場合は、“偽印”と呼ばれて処刑される。神意に背く者として、容赦なく」
言葉の重さに、ミュリナが唇を噛む。
「私の印は……教会から与えられたものじゃない。だけど……それでも、私の力は人を癒せる」
「それこそが教会にとって“都合が悪い真実”なのよ」
囁かれし者の声には怒気が含まれていた。冷たい街並みに、微かな熱が生まれる。
その時、路地の奥から子どもの悲鳴が響いた。
「誰か! たすけて……っ!」
ルークスが即座に反応し、声の方へ駆け出す。後を追うように仲間たちも走り、わずかに開けた広場に辿り着いた。
そこでは、聖印騎士団と呼ばれる教会直属の私兵部隊が、泣き叫ぶ少年を壁に押さえつけていた。
「印がないな。報告の通り“偽り者”か。潔く斬首だな」
騎士の一人が剣を抜いた。その刃は冷たく光り、少年の首へと迫る。
だが、その瞬間――
「やめろ」
その一言で、空気が凍った。声の主はルークス。言葉と同時に、彼の周囲の魔力が波紋のように広がる。
「……なんだ、お前は」
「この子に罪はない。ただの子どもだろう」
「黙れ。教会の定めた“印の律”に背く者は、人であっても異端だ。救済の対象ではない」
ルークスの目が細まる。敵の論理は、あまりに一方的だった。
「お前らの“救済”とやらは、首を落とすことなのか?」
騎士の顔が歪む。
「異端者が正義を語るな!」
そして、斬撃が放たれる――
だが、その刃が届くより早く、ルークスの剣が光を裂いた。
「“光風閃”!」
稲妻のような斬撃が、騎士の剣を弾き飛ばす。ルークスは一瞬で間合いを詰め、少年を抱えて後退した。
その隙に、ジェイドとセリナが前に出る。ミュリナも少年に手を添え、治癒魔法を流し込む。
「だ、大丈夫だから……怖くないからね」
ミュリナの手が白い光を帯び、少年の擦り傷がみるみるうちに消えていく。
その光を見て、騎士たちが色めき立った。
「……癒しの魔法!? 印が、ない……だと?」
「異端だ! あの女、魔族の使いか!」
「下がって。私が出るわ」
囁かれし者が前へ出た。その姿に、騎士たちは一瞬たじろぐ。
「……あんた、誰だ」
「裏都の“影”。“囁かれし者”よ。あなたたちが背負う紋章の“本当の意味”、わかってないのね?」
彼女の声が鋭くなる。
「その印は、“神の加護”じゃない。“貴族たちの支配の証”よ。あんたたちは奴らの手足でしかない!」
言葉に圧された騎士たちが、しばし沈黙する。だが、その直後、上官らしき男が歯を食いしばった。
「撤退する。我々の任ではない。だが……“報告”はさせてもらうぞ、異端ども」
騎士たちは少年を残し、黒殻街の奥へと消えていった。
重い沈黙が広がる。だが、ミュリナの声がその静寂を破った。
「……ねえ、私、この街で……もう少し、人を助けていい?」
ルークスは少しだけ目を細めて、静かに頷いた。
「そのために、来たんだろ」