第25話・第2節「港町グレイスと“囁かれし者”」
港町グレイスは、表の顔と裏の顔を持つ都市だった。
昼間は交易船と商人が往来し、市場には乾いた魚と香辛料の匂いが漂う。雑多な人種が行き交う様子は一見すると活気に満ちているが、その実、町の裏通りへ足を踏み入れれば、そこには静謐と緊張の空気が張りつめていた。
「まるで別の都市みたいだな」
ジェイドが吐き捨てるように言った。ルークスたちは、港町の表通りを避けるようにして、裏手の石畳の道を進んでいた。建物の影には目深にフードを被った者たちが潜み、擦れた声で何かを囁いている。
「この街の“本当の住人”は、日中には姿を見せない。夜になってからが、本番だ」
セリナが低く答えた。彼女はかつて、諜報任務の中でこの街を訪れたことがあるという。
「“囁かれし者”って奴に接触できそうなのか?」
「可能性はある。だが、こちらの信用を試してくるはず。情報屋とはそういうものよ」
“囁かれし者”――この街の裏社会を束ねる情報の中枢とも噂される人物だ。姿も性別も不明。だが確かに、王都の“裏”に通じる道を握っているという。
夕暮れが町を染め始めた頃、四人は指定された裏酒場『双月亭』へと足を踏み入れた。
店内は異様な静けさに包まれていた。客はまばらで、誰もが己の杯にだけ関心を持ち、他人を一切見ようとしない。
ルークスたちは無言で席につく。やがて、奥のカーテンの向こうから、軽やかな足音が聞こえてきた。
現れたのは、黒衣の女性だった。年齢は二十代前半ほど。美しい金髪を高く結い、紫の瞳がルークスたちを一瞥する。
「あなたたちが、“記録核”に触れた者たちね」
その一言で、緊張が走った。ルークスは微かに眉を寄せる。
「……どこで、それを?」
「私は“聞く者”。この町で起きた小さな揺らぎも、風のささやきも、全て耳に届くの。だからこそ、皆から“囁かれし者”と呼ばれているわ」
ミュリナが驚きの表情を浮かべる。
「女性だったの……?」
「性別なんて記号のようなものよ。でも、あなたたちの眼差しには本物がある。だからこそ会う価値があった」
彼女――“囁かれし者”は、静かに腰を下ろし、ルークスに向き直る。
「あなたたちが知りたいのは、“裏の王都”のこと。そして、“裏切り者たち”の動きね?」
「……ああ。魔王軍とは別の、人間側の闇。その実態を」
ルークスが真っ直ぐな眼差しで返すと、彼女はゆっくりと頷いた。
「王都はいま、外見だけを整えた“光の都市”として保たれている。しかし実態は、腐敗した貴族たちが裏から全てを支配している。聖堂も教会も、すでに“信仰”ではなく“支配”の道具として機能しているわ」
「つまり……魔王軍との対立だけでは済まされないということか」
ジェイドが低くつぶやく。
「そう。もっと厄介なのは、その貴族たちの中に、“魔王軍と通じている者”すらいるという事実。人間でありながら、魔族の力と取引をしているのよ」
空気が重くなる。ミュリナは拳をぎゅっと握った。
「そんな……そんなことが許されるの……?」
「許されるわけがない。でも、事実としてそれは存在している。……そしてもう一つ、あなたたちに伝えなければならない情報がある」
“囁かれし者”は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、ルークスの顔が――精密に描かれていた。
「これは……俺……?」
「王都の“裏組織”が、あなたを“危険人物”として追っている。記録核の封印解除、幻像の魔王との接触、それら全てが、彼らの思惑に反したから」
「つまり……既に俺たちは、表の敵だけでなく、裏の人間にも狙われているというわけか」
「その通り。でも、選択肢はあるわ。あなたたちはまだ、“誰に属するか”を決めていない。私があなたたちを“導く”こともできる」
ルークスはその言葉を黙って受け止め、視線をミュリナに向ける。彼女の瞳には揺るぎがなかった。
「私たちは、もう逃げない。真実を見たからには、選ぶしかない。どんな闇であろうと、正しいものを信じて進む。それが……私たちの旅の意味だもの」
“囁かれし者”は、かすかに微笑んだ。
「そう。その覚悟があれば、道は開ける。……さあ、王都の“裏門”への案内を始めましょう」