第3話・第1節「森の廃墟に灯る火と二つの息吹」
朝。森の木々の隙間から洩れる薄明かりが、崩れかけた廃墟の床を静かに照らしていた。
かすかに光る粒子──魔力を含んだ朝霧が、ゆっくりと差し込んだ陽光に照らされて舞っている。
ルークスは火の番をしながら、眠る少女の横顔を見ていた。
昨夜、あれから一言も発せずに力尽きたミュリナは、今は落ち着いた寝息を立てている。
薄い布を肩にかけてやると、彼女の白い髪がふわりと広がった。
その中に小さな耳──人間よりも尖った、エルフの特徴を見つけて、ルークスは目を細める。
「ハーフ……か」
長い耳ではない。だが、人間のそれとも違う。
ミュリナの容姿、そして鎖の痕。状況を考えれば、彼女が“奴隷”として扱われていた可能性は高い。
「逃げてきたんだな。こんな森の中まで」
囁くように呟いても、返事はない。
ただ少女の眉が、夢の中でかすかに寄せられた。
その表情を見て、ルークスの胸に、説明のつかない感情が広がっていく。
懐かしさのような、胸の奥が締めつけられるような、そんな感覚。
火に小枝を足し、煮沸した水を湯飲みに移す。
その音に、ミュリナがそっと瞼を開けた。
翠の瞳が、揺れる光の向こうから彼を見つめている。
「おはよう。……眠れたか?」
ミュリナは答えない。けれど、わずかにまばたきした。
それが返事なのだと、ルークスは理解した。
彼女は喋れないのではない。喋る“勇気”がまだ戻っていないだけだ。
声を出すという行為すら、きっとこの少女には“恐怖”なのだ。
「無理に話さなくていい。しばらくは、ここで休むといい」
ルークスは湯飲みを彼女の前に置いた。
ミュリナは視線だけを動かして湯を見つめ、やがて、おそるおそる手を伸ばす。
両手で包み込むようにして、慎重に口元へ運ぶ。
その小さな仕草に、ルークスは妙な安堵を覚えた。
“人間らしい反応”──それだけで安心できるなんて、自分でも不思議だった。
「俺も、昔はずっと“誰かの顔色”ばかり見てたよ」
ぽつり、と漏れるように言葉が出た。
それが彼女に向けて語られたものか、自分自身への回想かは分からない。
「言葉を発しても、すぐに否定された。少しでも動かなければ無能扱い。感情なんて見せたら“甘えてる”って怒鳴られた。……地獄だったな」
火の揺らぎが、彼の横顔を照らす。
ミュリナは湯飲みを抱いたまま、じっとその光景を見つめていた。
「だから、逃げたのかもしれない。あの世界から。……自分でも、よく覚えてないんだけどさ。死んで、ここに来たとき、不思議と怖くなかった」
言葉は、静かに森に溶けていく。
そして、数秒の沈黙ののち──
「……あの、」
かすれた、小さな声が落ちた。
ルークスが顔を向けると、ミュリナが湯飲みを握ったまま、震える唇をそっと動かした。
「……ありがとう……ござ……います」
涙が滲んでいた。
震える声だった。けれど、それは彼女がこの世界で初めて“意志”で発した言葉だった。
ルークスは、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに微笑み、火にもう一枝を足した。