第2話・第2節「銀の目の少女」
風が、森を優しく撫でる。
ルークスは差し出したままの手を引っ込めず、ただじっと少女を見つめていた。
強く掴むつもりなどない。ただ、差し出すことが、今の彼にできるすべてだった。
やがて、少女がゆっくりと頭を上げた。
その瞳は、まだ怯えと痛みを宿していたが、拒絶の色は薄れていた。
「……立てるか?」
言葉は返ってこない。けれど、少女はかすかに首を振った。
よく見れば、足首が赤く腫れている。おそらく、逃走中に何かにぶつけたのだろう。
ルークスは無言のまま立ち上がり、ゆっくりと背を向けた。
「……背負う。痛いと思うが、我慢してくれ」
拒まれる覚悟だった。だが、少女は動かなかった。
数秒の沈黙の後、重たい身体がそっと彼の背に寄り添った。
軽い。体重など、ほとんど感じなかった。
だが、その微かな震えが、どれほどの恐怖と痛みに晒されてきたのかを物語っていた。
森の道を戻る。
来たときよりも、ルークスの足取りは慎重だった。
背後で、少女の浅い呼吸が揺れている。
何かを話そうにも、言葉が出ないのか、それとも声を忘れてしまったのか。
しばらくして、少女がかすかに口を動かした。
声にならない、喉を掠れるような小さな吐息。
それでも、ルークスの耳は確かに捉えた。
「……ミュ……リ……」
「……名前、か?」
少女はわずかに頷いた。
それだけで十分だった。
「わかった。ミュリナ……」
その名を呼ぶと、少女の背が一瞬びくりと震えた。
けれど次の瞬間、彼女の頬がそっとルークスの背に触れた。
──ようやく、他人に身を預けられたのだ。
それは、彼女が長い間、手放していた信頼の最初の一片だった。
やがて、廃墟が見えてきた。
瓦礫と苔の間をくぐり、ルークスは少女を丁寧に床に横たえた。
「……ここなら、誰にも見つからない。しばらくは、安全だ」
少女──ミュリナは、彼の顔をじっと見つめていた。
瞳にはまだ警戒があったが、その奥にあるものは少し違っていた。
ルークスは荷物を広げ、保存食と水筒、そして携帯用の治療具を取り出した。
「怪我を診る。……少し痛いかもしれない」
彼女は何も言わなかったが、そっと足を差し出した。
腫れた足首には、打撲の痕と、古い傷跡が残っていた。
布を湿らせ、傷を拭き取る。薬草の粉を混ぜた軟膏を塗り、包帯で固定する。
その間、ミュリナは一言も発さなかったが、肩の力は明らかに抜けていった。
「……済んだ。あとは、少し休め」
ルークスは火打石で小さな炎を灯し、その前に腰を下ろした。
火の揺らぎに、ミュリナの瞳がわずかに安堵を浮かべる。
「お前が誰かは、今は聞かない。話したくなったら、でいい」
その言葉に、少女はかすかに目を伏せ、頷いた。
声が出せないのか、それとも恐怖で言葉を選べないのか──それすらも、今は問い詰める必要はなかった。
ルークスは剣を抱えたまま、火の前で目を閉じた。
森の気配は静かだった。
だがその奥に、未だ知らぬ何かが蠢いていることを、彼は感じていた。