第1話・第3節「名を捨て、名を得る」
森を抜け、再び廃墟へと戻ったルークスは、崩れた石壁にもたれかかるように腰を下ろした。
太陽はすでに森の向こうへと傾きかけており、陽光が廃墟の中に柔らかな橙を落としている。
疲労は確かにあった。
魔獣と戦った興奮と、それを圧倒的な力で葬った事実。
そして、それを冷静に受け止めてしまう自分自身への戸惑い。
「……人間、ってこんなもんだったか?」
呟いても、答えるものはいない。
森はただ静かに揺れ、遠くで小鳥の声がかすかに響く。
目を閉じると、あの“元の世界”がほんの少しだけ脳裏に浮かんだ。
喧騒に満ちたオフィス。蛍光灯の白い光。モニターの前に並ぶ疲れ切った顔。
すべてが、灰色の風景だった。
ブラック企業。八年間、朝も夜も関係なく働き詰めだった。
評価もされず、責任ばかりが増え、休日も削られ、やがて心と体が音を立てて崩れていった。
──死んで当然だった。
あの夜、駅の階段を踏み外し、意識を失う寸前に見た光景。
それすらも、今では曖昧だ。
そして気づけば、ここにいた。
「生き返らせる気はなかった……ってわけか」
ふと、あの声を思い出す。
明確な姿はなかった。ただ、どこか申し訳なさそうに囁いた声。
『手違いで魂を回収してしまった』
『せめて、新しい世界では自由に生きてほしい』
――自由。
その言葉の意味が、ようやく少しずつ胸に染みてきた。
この世界には、命令する上司もいない。納期もない。朝礼も、理不尽な叱責も、忖度もない。
目の前にあるのは、森。石。風。そして、自分だけだ。
「……自由、ね」
言葉にすると、少しだけこそばゆい。
けれど、それを否定する気持ちは不思議と浮かんでこなかった。
今までの自分は、誰かにとって都合のいい“機能”だった。
でも今、自分の意思で動き、自分の命を守るために剣を握った。
この異世界で、自分はようやく“個”として存在できるのかもしれない。
「だったら──」
立ち上がり、空を見上げた。
森の隙間から見える空は、青く、どこまでも高い。
その空を、名もなき男がじっと見つめる。
「……ルークス」
声に出す。
その響きは、どこか遠くから届いたような、不思議な温度を持っていた。
そうだ。
あの神がそう呼んだ気がする。新しい名。新しい自分。
東雲悠人は、過去の名だ。
あの世界に縛られ、あの世界で死んだ自分に、もう未練はない。
これからは、自分のために、自分の足で立つ。
「……ルークス。悪くない」
その名は、まだ誰にも呼ばれていない。
けれど、いつかきっと──誰かがその名を呼ぶ日が来る。
そう思えたから、彼はもう振り返らなかった。
背負った黒剣の感触を確かめるように、ゆっくりと森の方角へと歩き出す。
今日から始まる、誰にも縛られない“自分の人生”。
それは、孤独かもしれない。
でも、少なくとも偽りのない、まっすぐな道だった。