第10話・第2節「連れ去りと、咆哮のはじまり」
午後の空に、鐘の音が響いた。
それは祭の準備を知らせる鐘であり、同時に“整列”と“服従”を促す、都市の号令でもあった。
ルークスはギルドの裏路地にいた。
日用品の補充と情報確認のため、少しだけ宿から離れていた。
「戻るのに十五分か……まあ、何事もなければ」
その言葉が、皮肉になるまで、あと五分もかからなかった。
宿へ戻ったルークスの目に飛び込んできたのは、
乱れた玄関、落ちたカップ、そして──誰もいない部屋だった。
「……ミュリナ?」
声は出た。だが返答はない。
ルークスの視線が、机の上の紙片に吸い寄せられる。
それは、切り取られたギルド掲示板の一部。
“所有証明未登録の亜種存在は、緊急査問対象とする”
“反応なき場合、移送または処理も選択肢とする”
──署名なし。印もなし。だが、文言だけで十分だった。
(連れて行かれた……“儀式の素材”として)
ルークスの拳が、静かに震えた。
怒りではない。焦りでもない。
それは、自らの“見積もりの甘さ”への、冷たい自己批判だった。
「……選んだんだ。『守る』と」
瞬間、彼は動いた。
ギルド支部に戻ると、受付の職員が何かを言いかけたが、ルークスは一言で制した。
「ミュリナが“消えた”。私兵の仕業か?」
職員は顔色を変えた。だが口を閉ざす。
「“何も知らない”で通すつもりか。ギルドごと“関与”を問うことになるが、それでもいいか?」
ルークスの声は静かだった。
だが、その静けさが“脅し以上の確実性”を伴っていた。
職員が震える手で一枚の紙を差し出した。
そこには、仮の私邸として王都使節が滞在している場所──貴族街第一区の屋敷番号が記されていた。
「誰にも言ってません……お願いです。私には家族が……」
ルークスは何も答えず、紙を握りしめて踵を返す。
夕暮れの街を駆ける。
目指すは、王都貴族派が滞在する“屋敷”──ミュリナがいるとされる場所。
屋敷の前に着いたとき、空は赤く染まっていた。
塀は高く、門番は二名。簡易な監視魔術も設置されている。
(正面突破は愚策。だが、時間をかけて回り道をする余裕もない)
そのとき、屋敷の裏手の木立に、一瞬の“魔力の揺らぎ”を感じた。
隠し通路。
王都貴族が“表向きの整合性”を保つために必ず設ける逃走経路。
「──借りるぞ」
木の枝を折る音すら殺し、ルークスは闇に溶け込む。
その瞳には、“交渉”も“慈悲”もなかった。
あるのはただ、“取り戻す”という一点。
咆哮はまだ始まっていない。
だが、それを知る者たちは、すでに胸騒ぎを感じていた。