第8話・第3節「正義の名の下に、刃を抜く」
ルークスが剣を振り払った直後、兵士たちの緊張が一気に高まった。
誰もが思ったはずだ──今の一撃は“殺していない”。だが、その正確さと速さが、逆に恐ろしかった。
「この者、ただの放浪者では……」
背後の兵がつぶやいたその一言が、空気を決定的に変えた。
指揮官格の男が怒りに満ちた声を上げる。
「威圧行為と妨害行為を確認。即刻、排除対象とみなす!」
その瞬間、五人の兵士が一斉に前へ出た。
ルークスは深く息を吐き、剣を構えることなく、前へ一歩進む。
「戦う気なら、それでもいい。だがその前に問う」
彼の声は静かだった。だがその一言一言が、兵士たちの意識に“刃”のように突き刺さる。
「この区域に住む者を、“非市民”と決めたのは誰だ? その判断基準は? 証明は? ──命を奪う根拠はあるのか?」
兵士たちが答えられないまま、隊長が剣を抜いて前に出る。
「王国法典・第十四項。『秩序を乱す者は裁定なしに排除してよい』。この地において、我々は“秩序”だ!」
「その秩序が“誰のために”あるのか、考えたことはあるか?」
言い終えるより早く、ルークスの足元から風が跳ねた。
彼の姿がぶれる。剣閃が閃光のように走り、敵の前衛三名が“動けなく”なる。
──肉を切らず、意識だけを刈り取った。
肩を撃ち抜かれたような衝撃に、兵士たちは次々と倒れ、呻き声を上げる。
「殺すつもりはない。だが、止めなければこちらも選べない」
指揮官の顔が蒼白になる。
「貴様……何者だ……!」
「名はルークス。放浪者。だが、“誰かを殺して黙っているほど従順じゃない”」
隊長が歯を食いしばり、剣を振り上げた。
だが、それが振り下ろされる前に、別の声が響いた。
「もうよい。その剣を納めよ」
場の全員が振り返る。
路地の奥、黒いローブを纏った一人の女が立っていた。
年齢は二十代半ば、肩までの黒髪、冷静な灰色の瞳。手には王国紋章の封書を下げている。
「王都・中央監査局所属。特使イゼリナ・エルヴァン。……この区域における不適正鎮圧行動については、後日報告の上で処分を下す」
指揮官が驚愕に言葉を失う。
「な、監査局……? なぜこの場に……」
「我々は常に“都市の境界”を見ている。市民か非市民か──それを決める“境界線”が、誰の手で歪められているのかを」
イゼリナと名乗った女はルークスを見つめた。
その視線は評価でも拒絶でもない。まるで“記録”するかのように、彼を見ていた。
「あなたは……“選ばれる側”ではなく、“選び返す者”なのですね」
ルークスは無言で剣を収めた。
イゼリナは兵士たちに目配せし、隊長以下を連れてその場を後にした。
周囲に残されたのは、沈黙と、呆然とする住民たちだけ。
ルークスが振り返ると、ミュリナがそっと立っていた。
「……私、怖かった。でも、あなたが“言葉で”止めようとしてくれたの、すごく嬉しかった」
ルークスは小さく頷く。
「剣で止めるのは簡単だ。だが、意味を変えるのは、剣じゃできない」
ミュリナはわずかに微笑む。
「……じゃあ、私も言葉を持てるようになりたい。あなたのそばで、ちゃんと」
ふたりの影が、夕暮れのスラムに溶け込んでいく。
この都市で、初めて“声を上げた者”として。
静かな“正義”が、その場に確かに残った。