第8話・第2節「最下層の街と灰の子どもたち」
ベルゼンの南端――そこは“街”と呼ぶにはあまりにも無秩序だった。
舗装されていない泥の道。崩れかけた石造の建物。
下水の匂いが漂い、路地の奥からは、咳き込む老人の声と、飢えた猫の鳴き声が混ざっていた。
ルークスとミュリナが足を踏み入れたその区域は、行政地図には存在しない“空白地帯”だった。
「……まるで廃墟ですね……」
ミュリナの声には、驚きと戸惑いが混ざっていた。
ここが同じ都市に属する場所だとは、到底信じがたい。
「違う。これは廃墟じゃない。人が“生きようとしている”場所だ」
ルークスの目は冷静だった。
小屋の影から顔をのぞかせる子どもたちの瞳が、それを何より証明していた。
痩せ細り、服はぼろぼろ。
だが、その目だけは生きていた。怯え、疑い、そして微かな希望が、そこにはあった。
「……あれが、“盗賊”?」
ミュリナの問いは、皮肉ではなかった。
純粋な疑問。依頼票に書かれていた“盗賊掃討”という言葉が、目の前の現実とまるで一致しなかった。
「いや、違う」
ルークスは即答した。
「街が定義する“盗賊”は、ここにいる者たちそのものではない。……だが、“掃討”の名のもとに、この区域はまとめて消される」
その言葉に、ミュリナの瞳が大きく揺れた。
やがて、広場の一角にある崩れかけの倉庫に辿り着く。
中にいたのは、10代半ばの少年を中心にした小さな集団だった。
彼らは身構え、棒切れや石を構えたが、ルークスが武器を抜かないことを確認すると、徐々に警戒を緩めた。
「……お前ら、何しに来た。ギルドのやつか?」
少年の問いに、ルークスは率直に答えた。
「ああ。だが、“敵を倒す”ために来たんじゃない。“事実を確かめる”ために来た」
「……変なやつだな。普通は、何も見ずに斬ってくんだ」
「それが普通でいいのか?」
少年は答えなかった。
だが、ミュリナが静かに前へ出た。
「私も……かつて、“見られずに”判断されたことがあるから。だから……私は、あなたたちを見たい」
少女の真っ直ぐな声に、少年の表情がわずかに緩む。
「……変なやつが二人だ」
その瞬間、地響きのような足音が広場に響いた。
甲冑の軋む音。隊列の歩調。
明らかに“訓練された動き”を持つ兵たちが、区画の奥へと踏み込んでくる。
──王国兵の討伐部隊だった。
「区域制圧開始。対象は周辺民全域。反抗の兆候が見られ次第、即時排除せよ」
指揮官の声が響く。
明確な敵意と殺意を孕んだ指示だった。
ルークスは即座にミュリナを背後へ下げた。
「“盗賊”の確認は? 調査は済んでいるのか」
問いかけに、兵士は冷たく答える。
「必要ない。“この区域の住人”がすでに“非市民”と認定されている」
その一言が、すべてだった。
法も理由も、正義さえ存在しない。
あるのは、上から与えられた“命令”という名の殺意だけ。
「やめろ」
ルークスの声が低く響く。
「この区域に“盗賊”はいない。少なくとも、殺される理由のある者はいない」
指揮官が剣を抜く。
「ギルドの介入は認められていない。“放浪者風情”が正義を語るか」
その言葉と同時に、兵が一人、子どもに向かって剣を振り上げた。
──その瞬間、ルークスの身体が風のように動いた。
抜き打ちの一閃。
兵の剣が弾き飛ばされ、空中で真っ二つに折れる。
地面に落ちた破片が、乾いた音を立てて跳ねた。
「……正義を語る資格がない者が剣を持つなら、俺が代わりに語ろう」
兵たちがたじろいだ。
その男の目に、殺意はなかった。
だが、“退く気のない覚悟”だけが、そこに宿っていた。