第7話・第3節「穢された街と静かな怒り」
ギルドを後にしたふたりは、夕暮れに染まる街を歩いていた。
雑踏の熱気は昼よりも少し静まり、行き交う人々の声も穏やかになっている。だがその分、周囲の視線がよりはっきりと感じられた。
通りの片隅にある宿屋――
目立たず、裏通りに面した古い木造の建物。最低限の清潔さと鍵のかかる部屋がある、それだけが選定理由だった。
宿の受付は手慣れた様子でふたりを迎えたが、ミュリナの耳に目を留めた途端、僅かに声色が変わった。
「……ひと晩銀貨二枚。飯は出ないが、井戸水は使える。……“余計な騒ぎ”は起こさないでくれよ」
ルークスは何も言わず、無言で金を置いた。
あえて反応せずに受け流す。その選択が、彼にとっての“怒りの処理”だった。
部屋に入ると、ミュリナはそっと腰を下ろした。
外では気丈に振る舞っていたが、その指先はかすかに震えていた。
ルークスは鞄を置き、黙って火皿に火を灯した。
オイルの匂いが微かに立ち上り、橙色の光が木壁に柔らかく揺れる。
「……今日は、きつかったな」
彼が先に口を開いた。
ミュリナは唇を噛み、わずかに俯いた。
「……私、やっぱり、迷惑じゃないですか?」
その問いは、ずっと胸の奥に溜めていたものだったのだろう。
彼女は、ギルドで向けられた視線も、受付での曖昧な態度も、全てわかっていた。
そして、ルークスにまでそれが及ぶことに、負い目を感じていた。
「ミュリナ」
その名を、ルークスはゆっくりと呼んだ。
「“存在が迷惑”なんて言葉、世界で一番くだらない。お前がここにいる意味は、お前が決めるんだ。他人が決めることじゃない」
ミュリナの目に、涙がにじんだ。
けれど、流れはしなかった。
彼女は、堪えることを覚えたのではない。ただ、泣くよりも“信じたかった”のだ。
「ありがとう……ルークスさん」
それだけを絞り出すように言って、彼女は火を見つめた。
焚き火ではなく、宿の小さな火皿の灯り。けれど、それでも十分に温かかった。
しばらくして、ルークスが小さく息を吐いた。
「この国の構造、予想以上に歪んでる」
「……構造?」
「そう。街の人間は、差別や区別を“正しいこと”として受け入れてる。違う種族は“値段”で見られ、声を上げることすら咎められる」
彼の言葉は淡々としていた。だが、その底に沈む感情は、澄んだ怒りだった。
「この街の正義は、“安全な場所にいる者が決めている”。その正義の外にいるお前や、かつての俺のような人間は、最初から“居ないもの”として扱われる」
ミュリナが静かに頷く。
「私……あの森で一人だった時、そんな世界に戻るくらいなら死んだほうがいいと思ってた。でも……」
彼女はそっと、ルークスの背に視線を向けた。
「今は、怖くない。怒ってくれる人が、そばにいるから」
ルークスは目を細めた。
「……守ってやるよ。そんなの、当たり前だ」
ミュリナの頬がほんのりと赤く染まり、彼女は照れ隠しのように火皿の芯を指で整えた。
「……明日、どうしますか?」
「ギルドの依頼を一つ受ける。名目は“情報収集のため”。けど、目的は別だ」
ルークスの声が、わずかに低くなる。
「この街が何を見て、誰を見ていないのか。確かめる」
ミュリナは、その言葉に力強く頷いた。
ふたりの影が、火皿の光の中で重なった。
外の世界にはまだ多くの敵意と壁がある。
けれど、ふたりはもう“隠れること”を選ばない。
──静かな怒りを胸に、次の一歩を踏み出そうとしていた。