第7話・第1節「門前の街」
森を抜け、三つ目の丘を越えたとき、世界は一変した。
視界の先に、城壁が現れたのだ。
石造りの壁は高さ十メートルを優に超え、その表面は幾度となく修復された跡が残る。
鋭利な塔と弓の狭間が並び、風に翻る青と金の旗が、ここが紛れもない“王国の都市”であることを示していた。
「……ベルゼン」
ルークスはその名を口にする。
境界碑に刻まれていた記録にあった、ヒュベルノ王国の“門前都市”。
都市国家としては中規模だが、周辺の交易や監視、軍備の要として機能しているらしい。
つまり、外から来た者にとっては、“世界との最初の接点”となる場所だった。
ミュリナが、彼の隣で小さく息を呑む。
都市というものを目にするのは、彼女にとって初めてだった。
「……高い。あんな壁が……」
「都市は外敵と盗賊から自分を守るため、まず壁を築く。中身はあとからだ。皮肉な話だが、どこの国でも似たようなものだ」
ルークスの言葉に、ミュリナはわずかに頷いた。
そして、一歩ずつ慎重に城門へと向かって歩き出す。
門の前には兵士が二人、長槍を構えて立っていた。
その隣には、通行希望者を記録する帳面係と思しき男がいる。
ルークスは歩みを止め、手を上げて挨拶の意思を示した。
「放浪者のルークスと、その同行者だ。通行の申請をしたい」
帳面係の男が顔を上げる。
次いで、彼の視線がミュリナへと向けられた瞬間、空気がわずかに緊張を孕んだ。
「その耳……」
口に出すのをためらうような間が、何より雄弁だった。
ミュリナは瞬間的にうつむき、背に隠れるように立ち位置を変える。
ルークスは一歩、彼女の前に出た。
「俺の護衛兼同行者だ。森で合流した。犯罪歴もない」
「……身元を証明できる文書は?」
「ない。だが、俺たちはここまで森を抜けてきた。生きてることが何よりの証明だろう」
帳面係は眉をひそめたが、最終的に通行記録に書き込んだ。
「まあいい。初回通行の滞在証は三日間。身分登録か保証人が得られれば延長可能だ。宿泊地と目的は?」
「情報収集と、市場調査。宿は未定だが、日暮れ前には決める」
兵士が門を軽く開く。
「入れ。……だが、あまり目立たないようにな」
ミュリナへの視線は、まだ“客”に対するものではなかった。
商品でもなく、労働力でもなく──“管理対象”を見る目だ。
門をくぐると、風が変わった。
乾いた石の香り、獣の匂い、熱を帯びた人の声。
雑踏、呼び声、馬車の軋む音──それは、確かに“都市の鼓動”だった。
「……すごい……」
ミュリナが、思わず声を漏らした。
彼女の目に映るのは、世界だった。
果物を売る露店。道端で大道芸をする男。
鉄を打つ鍛冶場。香辛料の香りが漂う料理屋。
だが同時に、彼女の目には見えていた。
──自分に向けられる視線の意味。
ハーフエルフ。
珍しいからでも、美しいからでもない。
“商品として価値がある”という下卑た価値観を含んだ視線。
「……行こう」
ルークスが低く言った。
彼はすでに“都市”というものの構造を理解していた。
壁があっても、規律があっても、人の本質は変わらない。
この都市が“善良”な場所かどうかは、彼自身の目で見て、選ばねばならない。
ふたりは喧騒の中を、ひときわ静かに歩き出した。
足元には石畳の道。頭上には高い空。そして、目の前には、無数の選択肢が広がっていた。