第6話・第1節「決断と準備」
朝の森は、澄んでいた。
昨夜の雨が葉に滴を残し、空気は湿りながらも凛としている。
焚き火の煙がまっすぐ上へと昇っていた。
それは、今日の風が穏やかであることを意味していた。
──そして、ルークスにとって“動くには最適な日”であるという、静かなサインでもあった。
「……今日、出るの?」
湯を注いだ木の椀を両手で抱えながら、ミュリナが問いかけた。
その声音には、不安と決意が混ざっていた。
ルークスは焚き火を見つめたまま、静かにうなずいた。
「森の外には、“世界”がある。それを確認した以上、ここに閉じこもる理由はなくなった」
数日前に見つけた石碑。王国の名。偵察中の兵士たち。
それらは全て、この森がもはや“安全圏ではない”ことを意味していた。
「……私も、一緒に行きます」
ミュリナの返答は早かった。
数日前なら、彼女はためらっていたはずだ。
けれど今、彼女の瞳は揺れていなかった。
「私は……あなたと、共に歩きたいです。もう、ただ隠れて暮らすだけの生き方には、戻れません」
ルークスは目を細め、微かに頷いた。
「わかった。なら、“旅支度”だ」
彼は立ち上がり、荷物の整理を始めた。
荷はできるだけ軽く。
だが、食料、水、薬草、最低限の生活道具は必須。
魔物との接触を想定し、剣の手入れも怠らない。
ミュリナはその傍で、手際よく薬草を分別し、数種類の保存食を布に包んでいった。
「……この根は、疲労回復に効きます。でも、味はちょっと苦いかも……」
そう言いながら微笑む姿は、かつての“怯えた少女”の影を微塵も残していなかった。
ルークスは荷の脇から、小さな包みを取り出す。
「これを預けておく」
それは、小さな短剣だった。
黒い鞘に銀の飾りが控えめに施された、手のひらに収まる程度のもの。
「これは……?」
「お守りだ。戦うためのものじゃない。だが、“自分の意思で立つ”ための道具としては、意味がある」
ミュリナは一瞬ためらったが、やがて両手でそれを受け取った。
「……ありがとうございます。大切にします」
ルークスは頷き、鞄の紐を結び直した。
その音が、出発の合図のように森に響いた。
「目的地は、森の南東。王国の境界にあった石碑の先だ。人の痕跡があった以上、あそこから“道”が続いている可能性が高い」
「はい」
ミュリナは、荷を背負いながら、深呼吸を一つした。
それは、過去を振り切るような呼吸だった。
「ルークスさん。……もし、あの先でまた“奴隷”として見られても……私はもう、逃げません」
その言葉に、ルークスの歩みがふと止まる。
「俺も同じだ。……もう、誰にも従わない。誰かに決められる人生は、もういらない」
彼の声は低く、けれどどこまでもまっすぐだった。
ふたりは廃墟を背にし、森の奥へと歩き出した。
“始まりの場所”に残るのは、静かな灰と、消えかけた焚き火の匂いだけ。
その代わりに、ふたりの背中には確かな意志と、まだ見ぬ世界への“希望”が灯っていた。