第38話・第2節「告発の準備とそれぞれの想い」
バルズ砦の夜は冷え込んでいた。だが、ルークスたちの胸に宿る炎は、そんな寒さをものともしなかった。
作戦会議のあと、ミュリナとセリナは教義文書を手に、砦の一角に設けられた小さな部屋に集まっていた。そこには、かつて教会で学んだ学者や元修道士たちも招かれていた。
「この文書……確かに教会のものとは文体が異なりますね。だが、明らかに“聖印”の由来について書かれている」
「“聖なる選別”ではなく、“すべての命に祝福を”と……」
一人の老修道士が、書簡を読み上げながら、震える声で呟いた。
「長年、我々は信じ込まされていたのか……いや、考えることを止めていたのかもしれん」
ミュリナは、静かに文書の束を整える。
「お願いします。この真実を、あなたたちの言葉で、民に伝えてほしいのです。私の声では届かない場所にも……きっと、あなたたちの経験なら届くはずです」
彼女の瞳には真摯な光が宿っていた。もはやかつての“逃亡奴隷”ではない。今ここにいるのは、“教え”の真理を背負った一人の使徒だった。
セリナがその横で、短く礼を取った。
「我々は、あなたたちを危険に巻き込もうとしている。それでもなお、正義と真実のために手を貸してくれるなら……その決意に、私たちも応えます」
老修道士は頷いた。
「聖堂で神を信じ、命を削った者として……最後に、己の信仰に誇りを取り戻させてくれ」
その言葉に、部屋の空気がわずかに揺れた。
一方、砦の屋上ではルークスとエレシアが星空を見上げていた。
「……“暴露”という行為は、ただの情報の提示ではない。“信じてきた世界”そのものへの問いかけだ」
ルークスが呟くように言った。
「人は、自分の信じてきたものが嘘だったと知ったとき、絶望に沈むか、それとも……何かを掴みなおすのか」
「どちらにせよ、“信じさせた側”が逃げ切っていい理由にはならないわ」
エレシアの声は鋭いが、どこか優しさを含んでいた。
「あなたが示すのは、ただの真実じゃない。“どう向き合えばいいのか”の道筋でもある。だから、誰かを導ける」
「導ける……か。そんな器じゃないさ」
「でも、誰もがそう言って誰かに背中を押される。……私も、そうだったから」
そのとき、階下からジェイドの笑い声が響いてきた。
「おいおい、ルークス! 準備はいいか? 俺の部隊、荷馬車三台分の聖具を準備できたぞ。中には、あんたが探してた“金文字の典礼書”もあった!」
「さすがだな、ジェイド」
「へへ、使い道は知らんがな。お前が必要ってんなら、どんな神具だって持ってきてやるよ」
「そのうち“神そのもの”を担いで来そうだな、お前は」
エレシアが肩を揺らして笑った。
その笑い声は、張り詰めた空気をわずかに和らげた。
ほんの短い間だけ、彼らは戦いを忘れ、“人間”である時間を取り戻すことができた。
だが、夜は明ける。
その朝、ミュリナの手によって、古の聖典と改ざん前の教義文書が百を超える写本となって砦の各所へ届けられた。それは“真の教え”として、バルズ砦から外へ、王都の信徒たちへ、静かに流れ出していく――まるで、澄んだ水が乾いた大地に染み渡るように。
ルークスは砦の前庭で、馬を調えながら小さく呟いた。
「いよいよだな。“神を欺いた神殿”を、神に還すときが来た」
その手には、始源の聖典と共に、一振りの剣が握られていた。
それは、かつて彼が人の手で鍛えた剣。だが今、その刃は“信仰”という名の盾すら貫く意志を宿していた。