第37話・第3節「砦に灯る火と、決意の夜明け」
バルズ砦の中庭には、長らく火がともることはなかった。
それはこの地が、“敗北と忘却の象徴”であったからだ。だが今夜、砦中央に置かれた火鉢に、真紅の炎が燃え上がっていた。
「……あったかいね」
ミュリナが薪を追加しながら、小さく呟く。
その炎の前に、ルークス、セリナ、ジェイド、そしてエレシアが座っていた。
砦の兵士たちは距離を取りつつも、ちらちらと視線を送り、明らかに彼らの言動に耳を澄ませている。
「……あの文書、全部読み切ったのか?」
ジェイドが低く問う。ルークスは頷きながら、膝に開いた文書を撫でる。
「“聖印”は神の遺産なんかじゃない。あれは魔導技術の結晶だ。
人の魔力適性を測定し、選別し、階級を“固定”するための装置だ」
「支配のために作られたもの、か……」
セリナは火を見つめながら呟いた。
「皮肉ね。聖なる印が、実は“差別と抑圧”の象徴だったなんて。……私、昔はそれを誇りに思ってたのに」
彼女の横顔に、かつて聖騎士だった名残がにじむ。
「でも今は、違う」
ミュリナが静かに言った。
「あなたたちがいてくれるから、私はもう、あの頃の自分には戻らない。戻りたくない」
ルークスはミュリナの言葉を受け止めるように、火を見つめた。
「選ばれた者の血。貴族の家系。印の階級。……全部が“幻想”だった。
じゃあ俺たちは、何をもって正義を語るんだろうな」
ルークスの問いに、しばし沈黙が流れる。
やがて、エレシアが口を開いた。
「かつて私は、理想を信じて戦った。魔王の参謀として、そして人と魔族の“橋渡し”になるつもりだった」
「でも、誰にも理解されなかった?」
「いいえ。理解はされたの。ただ、“許されなかった”のよ。
理想は、人々の“現実の恐怖”に負けたの。教会の言葉は分かりやすくて、安心を与えた。『聖印を持たぬ者は異端』というその一文は、思考を停止させるには十分だったわ」
ルークスは立ち上がり、火の周りを歩いた。
「……この砦を、俺たちの拠点にする」
一同の視線が彼に集まる。
「ここを“情報の発信地”にするんだ。
偽りの教義、聖印の真実、聖女の教え――俺たちの目で見て、手で触れた真実を、言葉にして、届ける」
「じゃあ、“宣戦布告”だね」
セリナの口元がわずかに笑みを浮かべる。
「“信仰の支配者”に対して、“自由を取り戻す者”が名乗りを上げる――いい響きじゃない?」
ミュリナはルークスの横に立ち、小さく手を握った。
「私も、伝えるよ。本当の教えを。かつて私が信じ、救われた“本当の意味”を」
「おいおい、俺はどうすればいい?」
ジェイドが苦笑しながら腕を組む。
「“殴る役”が必要だろ? 綺麗事だけじゃ道は拓けねえ。なら俺は、手を汚す側でいい」
「頼もしいな、俺たちの“武闘派代表”」
ルークスが微笑み、拳をジェイドとぶつけた。
炎の揺らぎが、彼らの影を中庭いっぱいに広げていく。
その影の中心に、確かな“意志”が生まれつつあった。
「……夜が明ける」
誰かがぽつりと呟く。
そして確かに、東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
王都から遠く離れたこの砦に、希望の火が灯った夜。
それは、やがて世界を変える焰となる――そんな予感が、確かにあった。