第37話・第1節「北より来たる禍風」
王都がまだ薄闇に包まれていた早朝、ルークスたちは既に王都北門を越えていた。空には灰色の雲が垂れ込め、風が肌を切るほど冷たくなっている。
「……空気が違う」
ミュリナがマントの裾を握りながら、周囲の気配をうかがう。
木々のざわめき、獣の足音、人のいないはずの森に漂う“生気”――それは、ただの自然ではない。誰か、あるいは“何か”が意図をもってこの地を監視しているかのようだった。
「ここから北へ三日。旧バルズ砦が境界線だ」
ジェイドが地図を指さしながら言う。
「“魔王の影”を炙り出すには、まずあそこを押さえる必要がある。噂ではすでに“新たな軍旗”が掲げられているという。元・魔王軍の残党が結集している可能性が高い」
「奴らが再び“魔王”という象徴を掲げるなら、こちらは“真実”を掲げねばならない」
ルークスの声は、冷たくも澄んでいた。
その眼差しには、もはや迷いも怒りもない。ただ、道を照らす“光”としての確信があった。
馬車の車輪がぬかるんだ道を進む音が響く中、一行は王都を後にした。彼らの目指す“旧戦乱領”は、王国にとって未だ“不干渉領域”として放置されていた場所だ。
かつての大戦で魔王軍が最後の防衛線として築いた要塞群。
その一部は廃墟と化し、一部は“不可侵”として封鎖されていた。
「問題は、敵が“軍”として再興しているか、それとも“信仰”として魔王を掲げているかだな」
ジェイドの言葉に、セリナが小さく頷いた。
「後者なら、民衆が“敵”になる可能性がある……」
それは最悪の展開だ。武力を行使すれば、民心は反発する。
しかし、何もしなければ、偽りの教えが再び人々を支配することになる。
「どちらでもない、“第三の存在”って可能性もあるわ」
ミュリナがぽつりと言った。
「かつての魔王軍にいた“黒冠のエレシア”……あの人は、ただの軍師じゃなかった。むしろ、魔王より“理想”に近い人物だったって噂もある」
「理想……?」
ルークスが振り返る。
「“選別のない社会”を掲げ、魔族も人間も隔たりなく暮らせる世界を理論立てて提唱していたらしいの。でも、魔王はそれを拒み、エレシアは追放された。その後の消息は、誰も知らない」
ルークスはその名を反芻する。
“黒冠のエレシア”。もし彼女が生きていて、かつての理念を今なお信じているならば――対話の余地すらあるかもしれない。
だが。
「その“理想”が、現実と折り合わず“狂気”に変質していたら?」
ジェイドが静かに言った。
「希望は、時に絶望より危険だ。人々は、綺麗な言葉にこそ騙されやすい」
その時だった。
先行していた偵察組の兵士が、息を切らして戻ってきた。
「報告! 北西の丘陵地帯に“黒の軍旗”を確認! 無紋章、三本の槍に黒い王冠を掲げています!」
「エレシア……!」
一同が顔を見合わせたその瞬間、空気が震えた。
遠雷のような轟音。そして、視界の奥、霧の中に黒く染まった塔の影が見える。
――それは、バルズ砦だった。
だが、かつての砦とは違う。
城壁には禍々しい紋様が刻まれ、頂には“幻影の冠”が浮かんでいた。
「始まったか……」
ルークスは呟き、剣に手をかけた。
風が、北から吹きつける。
それは、古き戦火の匂いを運ぶ風だった。