第1話・第1節「目覚め」
湿った大地の感触が、背中越しにじわりと伝わってくる。
重たいまぶたを押し上げると、目の前に広がっていたのは、崩れかけた石造りの天井だった。
木漏れ日が差し込むその隙間から、細く風が入り込み、蔦の揺れる音がかすかに耳を撫でる。
「……ここは……」
東雲悠人は、呻くようにそう呟いた。喉が焼けるほど乾き、頭は鈍く痛む。
だが何より、自分が“ここにいる”という感覚そのものが、まるで現実味を欠いていた。
たしかに、自分は死んだはずだった。
終電を逃し、朝まで会社に残っていた。仮眠すらとれず、連日の残業で思考も朦朧としていた。
立ち上がろうとしたその瞬間、視界がぐらりと揺れ、足元が崩れる感覚と共に、世界が暗転した。
あれが、最期だった。そう思っていた。
なのに、今、自分は見知らぬ石の上に横たわっている。肌寒い空気。異様に澄んだ空。どこにもビルの喧騒はなく、人工的な音もない。
「夢……じゃ、ないよな」
手を握り、開く。感触ははっきりしている。
身を起こすと、黒く滑らかな長衣が体にまとわりついていた。素材は不明だが、軽くて動きやすい。
腰には、見慣れぬ剣が一本吊るされている。
「……なんだよ、これ」
黒銀の鍔を持ち、ゆっくりと鞘から抜いてみる。
滑らかな刀身が空気を裂くと同時に、脳内に声が響いた。
──《漆黒剣ルメル》:所有者専用、対魔獣特化、自動修復、念動操作補助。
「……は?」
あまりに自然な情報の流入に、思わず剣を手放しそうになる。
だが、不思議と混乱はなかった。むしろ、どこか納得すらしていた。
「そうか……異世界、ってやつか」
呆れにも似た納得感。
死後に神様に会って異世界転生──などという都合のいい展開こそなかったが、明らかにこれは自分がいた世界ではない。
そもそも、あの最期を迎えた時点で、元の世界に帰る道はもうなかったのだ。
「……だったら、まあ……」
腰の剣を再び鞘に納める。
その重みが、意外なほどしっくりとくる。まるで最初からこの体の一部だったように。
辺りを見渡す。どうやらここは、かつて神殿だったらしい建造物の一角のようだ。
壁には崩れた祭壇の跡、床には半壊した魔法陣。魔力のような粒子が、陽光の中を舞っていた。
「この場所……もう誰も使ってないんだな」
かすかに残る気配は、長い年月を経た静寂の中に溶けている。
悠人は、背負っていた小さなバッグを下ろす。中には、簡易食料、水筒、火打石、折りたたみ式のナイフなど──最低限の生活道具が収められていた。
「誰が用意したのかは知らないが……ありがたく使わせてもらうさ」
小さく笑う。
口元が自然に動いたのは、どれだけぶりのことだっただろう。
そう──この世界には、上司も、納期も、理不尽な命令もない。
あるのはただ、自分と、与えられた力と、そして──自由だけだった。