光の消えた先に
早朝の静寂を破るように、古びたアパートの階段を上る足音が響いていた。二人の男は足元を確かめるように慎重に歩を進め、二階の202号室の前で立ち止まる。一人が無言でチャイムを押した。
数秒の沈黙の後、ドアがわずかに開いた。眠そうな顔の男が顔をのぞかせる。
「……何の用だ?」
刑事の一人が懐からバッジを取り出し、淡々とした口調で告げる。
「警察だ。お前を殺人の容疑で逮捕する」
男は一瞬驚いたように見えたが、すぐにニヤリと笑った。慌てる様子はまるでない。
「そうか」
それだけ言うと、男はドアを大きく開け、二人を部屋へと招き入れた。
室内は狭く、殺風景だった。生活感のない灰色の空間に、唯一の異物のように、下駄箱の上に無造作に置かれたサバイバルナイフが目に入る。刃の鈍い光が、そこにある異様さを静かに告げていた。
男はナイフには目もくれず、のんびりとキッチンへ向かう。
「悪いけど、朝メシ食ってからでいいか?」
その言葉に、刑事たちは顔を見合わせた。
「ふざけてんのか?」
短く問いかける刑事に、男は軽く肩をすくめる。冷蔵庫の扉を開け、中から大きな肉の塊を取り出した。
「せっかくのいい肉なんだ。腐らせるには惜しいだろ?」
包丁を手に取ると、男は見事な手際で肉をスライスし、熱したフライパンに並べた。ジューッという音が部屋に広がり、脂が弾ける。肉が焼ける香ばしい匂いが充満し、刑事の一人の喉がわずかに鳴った。
男がそれを聞き逃さず、振り返る。
「刑事さんたちも食うか?」
戸惑いながらも、刑事は応えなかった。だが、それを肯定と受け取ったのか、男はすでに追加の肉をフライパンに放り込んでいた。
数分後、三人は沈黙の中で肉を頬張った。熱い脂が舌を焼き、血の滴るような赤身の味が口の中に広がる。
食事を終えた男は、満足げに息をつき、指についた肉汁を舐め取った。
「さて、行くか」
刑事たちは無言のまま、彼の両手を後ろ手に縛る。
部屋を出ると、廊下に肉の香りがまだ漂っていた。
そして三人は、満たされた胃を抱えて、静かにパトカーへ乗り込んだ。
取調室の空気は冷たく、静寂が支配していた。
狭い部屋の中央に置かれたテーブルを挟み、男と刑事が向かい合っている。
男は手錠をかけられたまま、それをまるで気にしていない様子だった。背もたれに寄りかかり、退屈そうに天井を見つめている。
刑事が沈黙を破った。
「……なぜ殺した?」
男はゆっくりと視線を刑事に向ける。そして、口元に微かな笑みを浮かべながら問い返した。
「刑事さんはさ、人を殺すのに何が必要だと思う?」
刑事は一瞬考え、冷静に答えた。
「動機、状況、そして凶器だ」
だが、男は首を横に振る。
「違うね」
「じゃあ、お前の答えは?」
男は少し間を置いてから、低く囁くように言った。
「私は、殺意だと思ってる。それも――部屋に入ってきた蚊を殺すくらい、些細な殺意だ」
刑事の眉がわずかに動く。
「よくドラマなんかでさ、『殺すつもりはなかった』なんてセリフがあるだろ?」
男は軽く笑う。
「でもね、人を殺すのって意外と大変なんだよ。それこそ、本当に“殺す気”がないとさ」
その言葉を噛みしめるように、男は手錠のかかった両手をゆっくりと組んだ。
刑事は静かに机に肘をつき、男をじっと見据える。
「お前の考えは分かった……だが、なぜ被害者たちが殺されなければならなかった?」
部屋の温度が、さらに数度下がったような気がした。
男の犯した殺人の被害者は、確認されているだけでも十人を超えている。
年齢も性別も職業もバラバラ。
男との明確な接点すら見つかっていない。
ただ、彼らは皆、何の前触れもなく、ある日突然命を奪われた。
男は刑事の問いに、ゆっくりと目を細める。
取調室の蛍光灯が、無機質な光を落としている。
男は手錠のかかった手を組み、静かに目を閉じた。まるで何かを思い出すように。
やがて、ゆっくりと語り始めた。
「地下鉄のホームで、電車を待っていたんだ。そのとき、ふと“光って見える”女子高生が目に入った。なんとなく気になって近づいたんだけど……ちょうど電車がホームに入ってきた瞬間、彼女は柵を乗り越えた。自殺しようとしていたんだよ」
男は目を開け、薄く笑った。
「思わず手を掴んで引っ張ったよ。そしたら、すごい目で睨まれた。『なんで止めたの?』って、そんな顔だったな」
刑事は無言で男を見つめていた。
「そのまま駅を出て、近くのカフェに入った。彼女の話を聞いているうちに、ふと、こう思ったんだ――“勿体ない”ってね。で、つい言っちゃったんだよ、『どうせ死ぬなら、俺に殺させてくれ』って」
静寂が取調室を包む。
「彼女は驚いた顔をしてた。でも、逃げるわけでもなかった。その日は連絡先を交換して別れたんだけど……後日、本当に頼まれたんだよ。『殺してほしい』って」
男は淡々と語る。まるで、天気の話でもしているかのように。
「それからかな……街の中で“光っている”人間を時々見かけるようになったのは」
刑事は、無意識に手を握りしめた。
「刑事さん、日本で自殺者が年間何人いるか知ってる?」
男の問いに、刑事はしばらく黙った後、絞り出すように答えた。
「……毎年、二万人を超える」
男は満足そうに頷く。
「そう。つまり、日に何十人も死んでる。俺が見た“光る人間”は、自殺を考えている人間だったんだ。そして、光が強いほど実行が近い。だから俺は、そういう人間に話しかけるようになった。“どうせ死ぬなら、俺に殺させてくれ”ってな」
刑事の眉がわずかに動いた。
「……ふざけているのか?」
男は静かに首を振る。
「真面目に答えているつもりだよ」
しばらくの沈黙の後、男は続けた。
「話を聞いてるうちに、光が消える人もいた。そういう奴には『気が変わったら声をかけて』って連絡先を渡した。けど、光が消えない人間もいる。その中で、“殺されてもいい”と言った人間だけを殺した」
男は軽く笑うと、手錠をかけられたまま、テーブルの上に手を置いた。
「話しかけた人の様子は、動画に撮ってる。あとで確認するといい」
刑事の表情が険しくなる。
男は、少し身を乗り出して囁いた。
「さて――私の罪はなんだ?」
静寂が取調室を包み込む。
「もともと死ぬ人間を殺しただけだ。自殺ほう助か? それとも、ただの殺人か?」
男の目は、穏やかに刑事を見つめていた。
「ただ彼らは、私の殺意によって殺された。それは、紛れもない事実だ」
取調室の扉が乱暴に開かれた。
慌てた様子で駆け込んできた刑事の手には、一台のスマートフォンが握られている。
「この動画の娘はどうした?」
男は、わずかに目を細めた。
「ああ、彼女か……地下鉄で自殺しようとしてた子だ」
刑事は顔をこわばらせたまま、一歩詰め寄る。
「どうしたんだ、殺しそうなほどの……」
言いかけて、男の口元がゆっくりと笑みを描く。
「……なるほど、君がお兄さんか」
その瞬間、若い刑事の怒りが爆発する。
「お前!」
怒声とともに、男の胸ぐらを掴む。拳が振り上げられた。
「話は聞いてるよ、優等生なお兄さん」
男は淡々と告げる。
取り調べをしていた刑事が慌てて止めに入る。
「おい、やめろ!落ち着け!」
それでも若い刑事の手は震えていた。
男はかすかに肩をすくめると、静かに言った。
「申し訳ない。彼女からもし会ったら伝えるように言われてたんだ」
「……あいつが?」
男は、手錠をかけられたまま腕を組み、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「両親が居なくなってから育ててくれたことは感謝してる。でも、自分の価値観を押し付けてくるところが大嫌いだった。そして、それを伝えられない自分のことも大嫌い……だから――『ごめん』だそうだ」
若い刑事の肩が震え、こらえきれずに泣き崩れた。同僚に引きずられるように取調室を後にする。
扉が閉まると、男はぽつりと呟いた。
「……彼になら殺されてもいいな。その理由もある」
刑事は、深いため息をつきながら呆れたように答えた。
「そんなことはさせない。アイツの未来まで殺す気か?」
男はゆるく首を振った。
「そんなつもりはないよ。えっと……どこまで話したかな?」
取り調べは再開されたが、男はまるで他人事のように淡々と答え、自分の命さえ無価値であるかのように振る舞った。
しばらくして、男がぽつりと尋ねる。
「私は、死刑になるのかな?」
刑事は短く答えた。
「刑事の仕事は捕まえるまでだ」
「それもそうか」
男は軽く笑うと、思いついたように言った。
「そうだ、メモ用紙をもらえる?」
刑事は面倒そうにメモ帳を破り、ペンと一緒に渡す。
男は何かを書き込むと、二つ折りにしてそれをテーブルの上に置いた。
「さっきの刑事さんを呼んでもらえる?」
刑事は訝しげに睨む。
「何をする気だ?」
男は笑みを浮かべる。
「秘密」
数分後、若い刑事が取調室に戻ってきた。
目は赤く腫れ上がっていたが、鋭い眼光は男を射抜くようだった。
「何の用だ」
男は軽く微笑む。
「君とは少し話してみたかったんだ」
「俺はお前に話すことなんて――」
「そう言わずにさ。なんせ君は、俺にとって“初めての人のお兄さん”だから」
若い刑事の表情が凍る。
「……まさか、お前!」
男は楽しげに肩をすくめた。
「なに? 変な想像でもしちゃった?」
「本当に殺してやろうか!」
激昂した若い刑事を、同僚が必死で押さえ込む。
「おい!そんなことのためにコイツを呼んだのか?」
男は小さく笑い、メモを差し出した。
「これを君にあげよう」
「……なんの真似だ?」
「今後君と会うことがあるかは分からないから、渡せるうちに渡しておこうと思ってね」
男は少し表情を和らげる。
「それを見るかどうかは君に任せるし、その後どういった行動を取るかも君次第だ」
若い刑事は疑いの目を向けながらも、メモを受け取った。
「どういうことだ?」
男は、どこか遠くを見るように言った。
「彼女は生きてるよ。光が消えてからは依頼は来てないから、多分ね」
若い刑事の瞳が揺れる。
「そのメモには、彼女が今住んでいる住所が書いてある。一応、最低限生活ができる程度には整えたし、バイトも始めたって連絡も来てた。ただ……君と再会して、その後どうなるかは、俺には分からない。だから――よく考えて行動することだ」
若い刑事は、メモを見つめたまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと懐に仕舞い、絞り出すように言った。
「……わかった」
それだけ言い残し、部屋を出て行った。
男は、その後の取り調べも協力的に応じ、自らの罪を受け入れた。
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一ヶ月後――
若い刑事は、メモに書かれていた住所を訪れた。
古びたアパートの前で深呼吸し、意を決してドアをノックしようとした時
「……にい、さん?」
後ろからの声に振り向くと、少し大人びた妹が、困惑した表情で立っていた。
「……久しぶりだな」
「……そっか、あの人、捕まったんだね」
「ああ」
「それで、私を連れ戻しに来たの?」
若い刑事は静かに首を振る。
「こっちでの生活はどうだ?」
妹の目が揺れる。
「質問に答えて!」
兄は少しだけ迷い、しかし正直に言った。
「わからん……ただ、生きていてくれて、ありがとう」
「……なにそれ」
二人の頬を、涙が伝った。
久しぶりに描いてみました。
普段書かないジャンルですが、なんとなく思いついていたものを形にしてみました。
生成AIにて主題歌を作ってみました。
よかったら聞いてみてください。
ランキングタグでリンクを張ってみたけど怒られないかな