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ジョン子の飼い主である山中家の老婦人は、ジョン子がいつもの散歩コースを歩くから着いて行けば良いと言った。実際、洋輔はリードを持っていれば済んだ。
憧れのジョン子の散歩である。しかも、ジョン子の名前の由来まで知ることができた。
「得体のしれない人間だっただろうに、大切なジョン子のリードを預けてくれるなんて。クロたち様々だな」
『調査のついでにちょうど良いだろう』
『にゃあすけが人間の男がうろついていたらフシンシャだと思われるって言うから』
『これなら、大丈夫でしょう』
犬の散歩はあっても、なかなか猫の散歩は浸透していない。そもそも、クロたちはハーネスを着けられるのを嫌がった。
昼間から男ひとりでうろついていたら、猫五匹を付け回す不審者か、空き巣先を物色する犯罪者予備軍にしか見えない。
そこで、ジョン子から飼い主が腰を痛めて散歩に行けなくなったという話を聞いたクロたちに山中家に連れて行かれた。クロたちはジョン子だけでなく、その飼い主とも以前から顔見知りだったらしく、洋輔はゴールデンウィークの朝夕を、ジョン子の散歩することができるようになった。
ラブラドール・レトリバーのメスは体重が三十キロ前後ある。その重さを感じさせない軽やかな足どりだ。
犬もそうだが猫も指先立ちして歩く。
手根骨(※前足首)がしなやかにスナップをきかせて、たしたしたし、と進む。それがすとすとすと、と速度が出始め、速歩になるころにはとっとっとっ、と地面を蹴る。一瞬身体が宙に浮いている。
犬も猫も軽やかに進む。
洋輔は営業として外回りをするようになって自分の運動不足を痛感していた。いつもは家でごろごろするだけで終わるゴールデンウィークだが、ジョン子の朝夕の散歩は良い運動となるだろう。ついでに下っ端調査員としても働くことができて一石二鳥である。
しかし、実は三鳥だったのである。
ジョン子が導く散歩コースは公園を通って堤防を歩く道のりだ。その公園や堤防に行くまでには当然のことながら市街地を歩く。
「あら、その犬ってもしかして、ジョン子じゃない?」
洋輔と同じくリードを持って犬の散歩をする母親くらいの年代の女性に話しかけられた。
「あ、はい。山中さんが腰を痛めてしまったので、代わりに散歩をしているんです」
洋輔はすかさず用意していた言葉を口にする。山中家の老婦人と喋ったときはしどろもどろで不審人物待ったなしだったが、今度は上手くいった。
「ああ、そうなのねえ!」
おばさんは大げさなほど声を張る。なので、洋輔は愛想笑いをしながら聞かれてもいない心内を明かす。
「大型犬の散歩ができるのが嬉しいです」
「そうよねえ。ラブは一軒家じゃないと飼えないものねえ」
犬飼いの者は他家の犬も判別がつくのか。
「毎日会うんですもの。散歩していたら分かるわよお」
考えが顔に出ていたのか、おばさんはころころと笑う。そして、ついでとばかりに、商店街のお買い得情報を教えてくれた。
「ひとり暮らし? 簡単な自炊にはね———」
有益なことを伝授してくれたおばさんは、ちゃんと栄養を取らないといけないわよ、と手を振って立ち去った。洋輔は思わず深々と頭を下げる。
さて、洋輔に話しかけてきたのはこのおばさんだけではなかった。おじさんだったりお兄さんだったりしたが、連れているのが山中さんちのジョン子だと分かると案外フレンドリーに話しかけて来る。
「お兄さん、犬派なの? 猫派なの?」
ジョン子とクロたち猫を見比べて首をひねる。
「どっちも派です」
「そりゃあ、よくばりだなあ」
と朗らかに返される。実は犬派なんです、とはこの状況では言い出せない洋輔である。猫の集会から帰る間際、クロから聞いたことも手伝って、彼らにも聞かれたくない事実でもある。
実際、猫の仕草は可愛いとは思う。
身体の下に四肢をしまう香箱座り。
くあ、と大あくび。糸目になり耳の先まで力が入ってぴんと尖り、小さくも鋭い牙が覗く。
柔軟な身体はしなやかに動き、細い隙間やほんのわずかな幅の壁の上もするすると進む。
なにより、『にゃあすけ』と呼びかけるときの真っすぐに向けて来る無邪気な瞳。意外と長い首を伸ばし、一心にこちらに見上げて来る。
シルバーはまだ完全に洋輔に気を許していない風だが、クロはビー玉のような目で語り掛け、身体や顔をこすりつけてくる。柔らかい毛並みをそっと撫でれば喉がゴロゴロ鳴る。そこそこ、気に入られていると思う。たぶん。
猫の行動範囲は五百メートル程度がせいぜいだ。
ほかのエリアの調査員と連絡を取り合い、必要事項を伝達するのだという。そうしてより広範囲を網羅しているのだそうだ。
そして、クロたちは散歩中にたまに姿を消す。ほかの猫が説明してくれる。
『あの家は今、調査中』
『そっちの家には猫を派遣した』
そして、戻って来た猫が教えてくれる。
『飼い主はリョコウってやつにでかけたんだって』
「え、大丈夫なのか?」
『餌はたっぷり置いて行ったって』
自動給餌機や自動給水機など便利なペット用品もあるから、旅行や出張で家を空けるのも可能なのだろう。
『にゃあすけが言っていたオオガタレンキュウってやつ?』
「そう、それ。じゃあ、ゴールデンウィーク終盤にまた見に来よう」
なお、その家を再び確認した際、飼い主は戻って来ていた。猫調査員のヒアリングによると、『イッパクフツカにしたんだって!』とのことだ。
「ああ、旅程を短くしたんだな」
飼い猫が心配でいつもよりも早く帰るようにしたのだろうと言うと、猫たちは安心した様子で長い尾を揺らめかせる。
散歩中、おはぎが疲れた風を見せたら抱きあげる。ご近所さんの「あらあら」という視線がより生ぬるくなる。
きょろきょろするタビーになにか探しているのかと聞けば、洋輔を推し量るかのようにじっと見上げる。柔らかい色味の毛並みに鎮座する瞳が真っすぐにこちらを見て来る。
やがてタビーは口を開き、家族を探しているのだと教えてくれた。
『引っ越しってのをしたんだ。知っている? 別のおうちに行くんだって。それでね、僕のことはそのうち迎えに来ると思うんだけれど、行き違いになったらいけないから、僕も探すようにしているんだ』
だから、捜査員になったのかもしれない。情報が多く入って来るから。
飼い主が戻って来るのを待っているタビー。
でも、たぶん。
「置いていかれたのではないか」とは洋輔は言えなかった。
見れば、シルバーがもの言いたげにこちらを見ている。余計なことを言うなということだと思い、かすかに頷いて見せると、ふいと視線を逸らした。違ったのだろうか。
だから、洋輔は違うことを口にした。
「みんな、人間もそうだが、自動車や自転車にも気を付けるんだぞ」
「「「「にゃあ」」」」
猫たちは素直に返事をする。
『それらも危ないけれど、俺たちの天敵はあれだな』
ブラウンが耳を後ろに倒す。シルバーが一時洋輔に良く見せていた仕草だ。今はもうしなくなった。
『ああ、あれね。カラス』
シルバーがしみじみ頷き、ジョン子が情けなさそうに鼻を鳴らす。
「くぅん」
『そっか。ジョン子さんもあれは恐ろしいんだな』
クロが労わるように言う。
人間だってカラスは怖い。鋭い嘴と爪、広げた翼によって大きく見え、恐ろしく感じる。さっと空からすばやく舞い降りるやり様は、ヒットアンドアウェイのお手本のようですらある。
洋輔とて子猫がカラスに襲われたという話を聞いたことがあるくらいだ。野生の厳しさを感じる。猫たちが心配になる。たとえ調査員として外をうろつくにせよ、せめて、帰ってくる場所があれば。そこに安全な寝床と食事があれば。
『にゃあすけ?』
『あら、どうしたの?』
『カラスが怖いのか?』
タビーが洋輔の硬い表情に気づき、おはぎが気遣い、ブラウンもまた心配する。シルバーも口を開こうとして、結局、つぐんだ。
たし、と洋輔のスニーカーの爪先に小さな小さな黒い片前足が乗せられる。
『大丈夫だよ。もし、カラスが襲って来たら俺が追い返してやるから』
クロがいつもは可愛らしいまん丸の目を、今は少し細目にしてとても凛々しい。
「ありがとう。頼もしいな」
洋輔は右手にリードを持ったまま、クロを抱き上げる。
やわらかく鼓動するしなやかな肉体は、生きている証だ。
人間とは違う身体だけれど、自由な意思を持って動くのだ。
願わくば、この愛しい生き物が、自由気ままに過ごせますように。
特定の信仰を持たない洋輔は、誰にともなく祈るのだった。
~みんなで応援しよう3~
「そっか、新規ユーザー登録が必要なのか!」
ブックマークするだけだというのに、道のりは長い。
なにせ、さっきから猫たちがキーボードのあちこちをてし、てし、と押そうとしたり、パソコン画面に寄り添って見えなくしたりするのだ。
「画面を押すな! キーボードの上に寝るな! マウスを噛んじゃいけません!」
そう、道のりは果てしなく。長い。はるかかなたに。霞んじゃって先は見えないよ。