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猫の調査員たちはひそやかに動く。音もなくやわらかに。
そして、見ている。じっと観察しているのだ。
猫の犬とは違う飼い主への愛情に触れた洋輔は調査員に協力することにした。
クロたちは目星をつけた派遣先候補の環境調査や派遣した猫の様子を定期的に見回っているという。洋輔はそれに同行することになった。
ふと横を向けば、垣根の隙間からイエローのラブラドール・レトリバーがこちらを見ている。
猫たちと歩いているのを、ジョン子に見られた。
洋輔は慌てて自分は猫派に転向したのではないと説明しようとした。
「ジョ、ジョン子、俺は犬派だ。猫派じゃないんだ。ご、誤解しないでくれ!」
いや、そうではなく、なんでこんな風な言い方になったのだ、と焦燥が焦燥を呼ぶ。
『にゃあすけはなにを慌てているんだ?』
『すべての猫と犬は仲が悪いと思っているのかしら?』
足を止めたブラウンとシルバーが小首を傾げる。ブラウンは雄でシルバーは雌だ。二匹はとても仲が良い。よくよく観察してみれば、ブラウンがなにかとシルバーを気に掛けていることが分かる。
『ジョン子さん、こいつ、にゃあすけって言うんだ。知っている?』
あろうことか、クロがジョン子に話しかける。
「え? ク、クロ、なにを、」
「おん!」
『知っているよ、って』
猫は犬と話せるのか!
そして、ジョン子は通りがかりにじろじろ眺めて行くだけの洋輔を知っていたのだ。
同時に、洋輔はジョン子の声は聞こえないのだと分かり、がっかりする。ちなみに、近所のほかの猫も鳴き声だけで、二重音声には聞こえない。
ジョン子の優しい目がまっすぐ自分に向いていて、尾をゆるゆると振っている。洋輔の唇もゆるゆると緩む。
「クロたちはジョン子と知り合いなのか?」
『やさしい犬だからね』
タビーが小首を傾げる。
ジョン子を眺めるだけでなく、正式に(?)知り合うことができた。もうそれだけで、猫秘密結社の下っ端調査員になった甲斐があるというものだ。
ジョン子の飼い主である山中家の老婦人はぎっくり腰が再発した。幸い、コルセットのお陰でなんとか日常生活を送れるまでには回復した。
夫は定年後の再雇用であるのに、それまでと同じく仕事に勤しんでいる。ゴールデンウィークも、出張に出かけている。
子供らはみな独立し、夫が不在がちでも大抵のことはなんとかなる。日用品の買い物は宅配サービスを使えば良い。洗濯もひとり分なのだから数日間ため込んでも問題ない。
「問題はあなたのことよねえ」
山中家の老婦人はため息まじりに黄みがかったベージュ色の毛並みを撫でる。このジョン子がいるからこそ、夫が大型連休に出ずっぱりでも孤独を感じることはないのだ。
「くぅん」
やさしさを凝縮させたらこんな瞳になるのではないかという眼差し、鳴らす鼻声に労りが籠っている。夫よりよほど老婦人のことを心配してくれる。
「大丈夫よ、腰は大分マシになってきたわ。でも、」
散歩に行くのは無理だ。
なにしろ、ジョン子の散歩は一時間は必要で、日に一、二回行った方が良いとされている。とても賢い犬であるラブラドール・レトリバーは退屈を嫌う。好奇心旺盛で冒険好きなのだ。ただ、家族といっしょにいたがるから、室内で飼っている。
隣近所で犬を飼っている者に頼もうかと思案しているとき、庭先から猫の鳴き声が聞こえてきた。
「にゃあ」
「あら、黒猫さん、おはよう」
腰に刺激を与えないようにそうっと近づくと、垣根の隙間からよく遊びに来る黒い猫が顔を出していた。ジョン子も慣れているが、どちらかと言えば、隣の坂口家の老猫に会いに行くことが多い様子だ。
「ほかのみんなは?」
「「「「にゃあ」」」」
とても賢い猫たちで、老婦人の声に呼応するように複数の鳴き声がする。
「おやつをあげましょうね」
糞をまき散らしたり庭を荒らしたりすることがないので、遊びに来れば餌をやることにしていた。
「にゃおにゃうにゃあ」
「おん」
黒猫がなにか訴えかけ、ジョン子が猫たちに近づいて行く。そろそろと猫用のおやつを用意して縁側に戻れば、垣根からたまに見かける青年が顔を出している。
「あら、あなたは、」
「ええと、その」
「にゃあ!」
「おん!」
ジョン子はいつの間に持ってきたのか、リードを咥えていて、鳴いた瞬間それがぽとりと足元に落ちた。それを足先でつつく。
「あの、俺が代わりに散歩に行きましょうか?」
「え?」
「あの、どうも、腰を痛めているご様子でしたので、それで、この犬がリードを咥えてきて、猫が、」
しどろもどろに言う言葉を繋ぎ合わせれば、どうもジョン子が散歩をねだっている様子を見せたところ、自分がいかにも腰を庇う動きをしていたので、この青年が察し、しかも犬の希望を叶えてやろうとしたのだという。
「その、毎朝こちらを通りかかるときに犬を見ていて、ええと、犬、好きなんです」
「まあまあ。存じておりますよ。うちのジョン子も挨拶をしていますものねえ」
通行人とはいえ、毎朝見かけるので他人のような気がしないのだから不思議なものだ。夫と同じような格好で同じ時間に出社するということは、この近所に住んでいるということでもある。
「ええと、この子、ジョン子というのですね」
「そうなの。うちの人がどうしても「ジョン」ってつけたいって言い張って。でもねえ、この子、女の子なんだから、それじゃあ可哀想だって言って無理やり「子」をつけたんですよ。もともとは別の名前でね。娘が飼っていたんですけれど、旦那さんの転勤に着いて行ったからうちで引き取ることにしたんですよ。途中で名前が変わったっていうのに、今ではすっかり「ジョン子」と呼んだら返事をしてくれるの」
老婦人はもはや言い慣れた犬の名前の由来をつらつらと語った。
青年はぱっと顔を輝かせる。
「なるほど、それでジョン子なんですね」
得心がいったとばかりに頷いた青年は柏木洋輔と名乗った。
柏木青年の様子に、毎朝ジョン子を気に掛けていたというのが本当なのだと分かる。きっと真面目でコツコツ積み上げていくタイプだろう。
老婦人は尾を振って親しみを込めて柏木青年を見上げるジョン子の様子に、散歩を任せる気になった。
老婦人はジョン子にリードを装着し、柏木青年にトイレセットを渡した。
その柏木青年の足元には五匹の猫たちがお座りして首を伸ばして待っていた。
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「ここだな。「ログイン」って書いているのを押す」
「ええと、「IDまたはメールアドレス」と「パスワード」ね」
『こう?』
「あ、マウスに乗っかるな。ちょ、なにも入れずにログインしちゃったから、エラーになったじゃないか」
『あれー?』