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 営業部に配属されるにあたり、マーケティングのフレームワークを叩きこまれている。

「企画部でもないのになんでマーケティングを勉強する必要があるのかって思うよな」

「あ、いえ、俺、営業のことはなにも知らないので、助かります」

 洋輔が肩をすくめるようにして頭を下げると、四谷よつやいつきは笑った。四谷は営業部では六年勤続しており、洋輔の教育係のような立ち位置にいる。洋輔や四谷のように、男性社員は何度か部署を異動するのがこの会社の習わしである。


「柏木のそういうところって営業に向いているよ。ただ、その年齢だからなあ。相手につけ込まれる隙にならないようにしなくちゃな」

 褒められ、忠告を受けた洋輔は、どういうところが営業に向いているのかと目を白黒させる。自分では到底、営業向きだとは思えない。


 ひと言ふた言話しただけで相手のことを知り、さらには先々のことまで見通せる四谷に恐れ入るばかりだ。

 言葉遣いは軽いが、信頼できそうな先輩だと感じた。

 四谷は洋輔よりもひとつ上の三十三歳だ。年齢のバランスから洋輔の教育係りとなった。洋輔は自然と敬意を抱いている。


 さて、四谷が言うのは、素直なのは良いが、中堅どころなのだから、相手によっては見下されかねないということだろう。年齢によってそれなりの能力を要求される。洋輔にとっては初めて行う営業だが取引先には関係ないことだ。始まる前からハードルの高さを突き付けられる。


「うちは飛び込み営業ってのはほとんどしないけれど、興味や需要がないところへ唐突に現れて営業されてもろくに話を聞いてもらえない」

「相手も忙しいですしね」

「そうなんだ。それを、断られて当たり前とか、断られるのに慣れろとかってナンセンスだよな」


 大分前、営業部に配属された新入社員に大量の名刺を配らせるという研修があったのだという。とにかく、知らない人に名刺を渡し、自分を知ってもらうというコンセプトだったのだという。

 以前は人事部に所属し、個人情報保護に神経をとがらせていた洋輔にとっては真逆の価値観である。


「俺、営業自体が嫌いになりそうです」

「俺もだよ」

 デキる営業の四谷でもそうなのだ。


「そこでマーケティングだよ。取引先の会社だけでなく、その会社の関心や方針を掴んでいたら、市場開拓が楽になる」

 そうやって新しい取引先を増やしているのだという。


「自社の強みを知るだけじゃないんですね」

「そう。ようはマッチングだ。はじめからぴったり合うものは少ないけれどな。どこがどうつながって需要を見つけられるかわからないものだよ」

 そうやって意外なところから拾い上げた仕事があれよあれよという間にいろんなものを巻き込んで一大プロジェクトになったこともあるという。


「はあ、すごいですね」

「なに他人事みたいに言っているんだよ。柏木もやるんだぞ?」

 笑う四谷に、いや、自分にはそんな大それたことはできません、と心の中でこっそりつぶやく洋輔であった。


 マーケティングのフレームワークを知ることは他部署との合同会議に出席するにあたっても必要となる。

 洋輔は自社製品を覚えつつ、並行して営業先企業の情報やマーケティングについても学ぶようになり、日々は飛ぶように過ぎ去っていった。




「柏木さん、営業部、どうですか?」

「もう、全然勝手が違います」

「大変ですねえ」

 書類を抱えて営業部にやって来た経理部の田所たどころ由加里ゆかりが声を掛けてきた。以前いた人事総務は経理部とはなにかと連携することが多く、同じアラサーで落ち着いた彼女とはたまに雑談することもあった。といっても、洋輔は三十過ぎ、田所は三十前である。二十代は洋輔から見ればまだまだ若く、まぶしい存在だ。


「なになに、柏木、田所ちゃんと仲良かったの?」

 近くの棚でファイルを繰っていた四谷が顔を上げる。

「人事総務はなにかと経理部と行き来がありますからね」

「柏木さんにいろいろフォローしてもらっていたんですよ」

 田所はそんな風に洋輔を持ち上げてくれた。


「田所ちゃん、マリちゃん、元気?」

「元気過ぎてこの間———」

 フレンドリーな四谷は田所ともいろんな話をしているらしく、ふたりで話し込み始めた。

 せっかく声を掛けてくれた上に褒めてくれたというのに、対人スキルの乏しさはこんなところでも高い壁となって立ちはだかる。

 洋輔は誰に聞かせるのでもないものの、慌てて否定する。いやいや、そうではなく、四谷のフレンドリーさは営業先でもいかんなく発揮され、見習いたいものである、と。


「ほら、柏木も見せてもらってみ。田所ちゃんとこの猫のマリちゃん」

 スマートフォンの画像を覗き込んでいた四谷が洋輔も会話に混ぜてくれようとする。こういうところもまた、人好きのするところだ。


「柏木さんは犬派だから」

「そうなんだよなあ。この間も、丸徳の山本さんにさ、猫は好きかって聞かれて犬派だって答えてんの。それまで散々猫の話を聞いていたってのにさあ」

「えー!」

 仕事上の失態をバラされた洋輔は慌てて話を逸らそうと、猫の話題を探した。そして思い出した金曜の夜の出来事である。


「———とまあ、後から考えたら野良猫に餌をやってしまったって気づいて反省しました」

「柏木はうっかりぼんやりなところがあるからなあ」

 四谷の言葉には険がないものの、洋輔は肩を落とす。

 田所はおそらく、そんな洋輔にフォローをしようとしたのだろう。

「あ、でも、それってあれじゃないですか? ほら、都市伝説みたいな、猫秘密結社の<ねこにゃんネットワーク>」


「ねこにゃ……?」

 ちょっと可愛すぎておじさんの洋輔は最後まで復唱できなかった。というのに、四谷はさらっともっとすごい言い方をする。

「知っているかも。あれでしょ、<にゃんにゃんネットワーク>」

「あれ、そう言うんですか?」

 三十三歳の四谷が「にゃんにゃん」と言ったにもかかわらず、田所はさらりと流す。これだから、爽やかなイケメンは。中肉中背で地味な自覚のある洋輔は涙を呑んでこっそり心の中でののしることくらいしかできない。


「ほかにも<日本ねこネットワーク>とか、なんか、いろいろ名称はあるみたい」

 違う名称だというのに、同じものを差すのだと分かってしまうとんでもないパワーワードだ。

「猫好きの集団とかですか?」

「ううん、違うんです」

 田所と四谷が言うには、猫が猫にとって居心地の良い引き取り場所へ猫を送り出すというのだ。


「猫の調査員が綿密な調査を行って、適したおうちに猫を派遣する秘密結社なんですって!」

 果たして田所は猫の調査員が綿密な調査を行っていることに胸躍らせているのか、秘密結社というミステリアスさに心惹かれているのか、どちらだろう。ともあれ、猫が猫のために動く世を忍ぶ集団らしい。


「ははぁん、つまりは田所ちゃんは猫缶を奪われた柏木が怒って追いかけもせず、食べられないだろうって蓋を開けてやったことから、猫調査員のお眼鏡にかなったって言うんだな?」

「そうですよ! きっと、近いうち、柏木さんのところに、猫ちゃんが送り込まれてくるんですよ」

「えー、楽しみ!」

 田所と四谷がきゃっきゃっとはしゃぐ傍ら、柏木はぼそりと呟いた。

「俺、犬派ですから」

 送り込まれても困る。


 ともあれ、あくまでも都市伝説だと思っていた。

 ところが、事実は小説より奇なり。猫を送り込まれるどころか、猫調査員の集会に参加することになったのである。なんでだ。




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