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会社の飲み会の日だから、その日は集会に参加できないとあらかじめ言っておいた。
梅雨時期の到来を予感させる蒸し暑い帰り道、シルバーとブラウンに行き会った。
「あれ、こんな時間まで調査していたのか?」
『ほかのエリアの調査員と会っていたんだ』
洋輔がしゃがむと、ブラウンがとっとっと、と近寄って来る。けれど、シルバーは足を止めた場所から動かない。
『にゃあすけ、臭い』
シルバーが鼻に皺を寄せる。それはまるで威嚇しているかのようだった。
「あー、酒やタバコの匂いとかいろいろ沁みついていそうだな」
暑いから脱いでいたスーツに鼻先を近づけて見る。
『わたし、その匂い、嫌い』
シルバーはぷいとそっぽを向いて行ってしまう。そんなつれない仕草も、ぽつんとした鼻、ぴんと先がとがった耳が角度を変える様子が愛らしく思えてしまうのだから、猫とはすごい生きものだ。
「最近、態度が軟化したと思っていたんだけれどなあ」
つい口から漏れ出て来る。
『猫は匂いに敏感だから』
そう言いつつも、ブラウンはなにか言いたげだ。
「どうかしたのか?」
『うん、その、シルバーは前の飼い主が働きだして、忙しくてまったく世話をしてくれなくなったんだ』
トイレを清潔にするどころか、餌の用意も忘れがちになったのだという。
『それで、今のにゃあすけと同じような匂いをして帰ってくることが多かったんだと思う』
「そっか、それを思い出させちゃったんだな」
猫調査員は飼い主に愛情を注がれ、その飼い主と離別した者がなるという。シルバーの飼い主は環境の変化によって以前とは同じように接することができなくなったのかもしれない。
クロにいっしょに暮らそうと言った自分も、他人事ではない事柄だ。
洋輔はその次の猫の集会でようやくおはぎにいっしょに暮らさないかと尋ねることができた。
「その前に、ペット可の住まいを探さなくちゃならないんだけれどさ。引っ越しするならこの近所が良いよなあ」
タビーがさっと耳を後ろに倒す。苛立っているときの仕草だ。
『引っ越しって飼い猫のためにもするものなの?』
「タビー?」
『だったら、どうして僕の飼い主は引っ越しのとき、置いて行ったの?』
タビーは以前、『いつか戻って来て僕を連れて行ってくれるんだよ。僕、それまでここで待っているんだ』と言っていた。
そのとき洋輔は、引っ越しするので置いて行かれたのではないかと思ったものの、言わないでいた。だが、タビーもそうだと考えていたのだ。分かっていて、そうは思いたくなかった。きっと帰って来ると信じていたかった。
『分かっているよ。もう戻って来ないんだって。僕を連れて行く気なんて最初からなかったんだって!』
タビーはみゃあみゃあ鳴き出した。
家族と会うのは最後になった日、タビーの好物の刺身をどっさり食べさせてくれた。いつもはちょっとだけだと言われるのに。
少し前から、タビーに隠れて話し合っていた。タビーが姿を現せば、すぐに会話を打ち切った。タビーはそれがなんなのか分からなかった。けれど、調査員となり、より一層人間社会のことに詳しくなってから、なんとなく分かるようになってきた。
でも、それを信じたくはなかった。タビーを連れて行くのを忘れただけで、いつかきっと、迎えに来てくれる。そう思わなければ、悲しさと寂しさとに、押しつぶされてしまいそうだったのだ。
洋輔はそっとタビーを抱きしめる。反射的に暴れたから爪が当たって痛かったが、ここで手を離してはいけないような気がして、力加減しながらももがくやわらかい身体を解放しなかった。撫でて!とせがむことが多いタビーの背中に、いつもと同じようにそっと指を滑らせる。
「ごめんな。人間はいろいろ決まりがあってその中で暮らして行かなくちゃならないんだ。だから、猫を飼えなくなることもあるんだ」
でも、それは人間側の理屈だ。
遠藤は迅速に動いてそれらの条件をクリアしてみせた。もたもたしている洋輔とは大違いだ。
ゴールデンウィークに出会ったふたりの少年を思い出す。
片方は食べてはいけないものを食べた猫を助けようとしていた。もう片方は実験だと言って、猫の身体に悪いものを食べさせようとした。
それ以外にも猫にとっての危険はそこかしこに潜んでいる。
人間社会の中で猫が生きて行くのはとても困難だ。それが飼い猫ではなく野良猫だったらなおさらだ。
洋輔にはずっと鳴きっぱなしのタビーを抱きしめて背中を撫でることしかできなかった。せめて、タビーの気が済むまでそうしていようと思った。
タビーはそれ以降、より一層洋輔に甘えるようになった。そんなタビーを見ておはぎが言う。
『ねえ、にゃあすけ。わたしと暮らそうと言ってくれてありがとう。でも、わたしはもう先はないから、タビーと暮らしてちょうだいな』
クロがはっと息を呑んで洋輔たちを見やる。洋輔と彼に甘えるタビー、その様子を微笑まし気に眺めるおはぎを見ていると、切なくなる。
クロは自分ではなくおはぎといっしょに暮らしてくれと言った。本心だ。
けれど、その権利を易々と譲られてしまっては、自分が簡単に洋輔と暮らすことを放棄したかのようではないか。
でも、タビーの悲しい気持ちも良く分かる。だから、クロはぐっと我慢した。そうするしかなかった。
『なあ、にゃあすけ、おはぎといっしょにタビーも———』
そう言い差したブラウンを止めたのはシルバーだ。クロをちらりと見やってブラウンがそれ以上続けないようにする。
一方、洋輔はおはぎやブラウンの言葉に、彼女らもまたクロと同じようなことを言うのだな、と猫たちのやさしさにじんわり心温まっていた。
寂しそうにするクロを気づかわし気に見るシルバー、そして彼女に気を揉むブラウン。猫たちの気持ちが複雑に入り混じっていた。
甘えてくるようになったタビーに遠慮して、クロはあまり洋輔に構われようとしなくなった。
そしてシルバーもまた、考え込むことが多くなった。洋輔がタビーに言った言葉に、複雑な気持ちになる。自分の飼い主もそうだったのだろう、と。そんなシルバーをなにかとブラウンが気遣うのだった。
~みんなで応援しよう8~
「おーい、作業するぞー。起きろー」
「にゃあ」
「うみゃあ」
『眠いの』
『また今度ー』
向こうで激しい物音がして柏木にゃあすけが見に行けば、いたずらして食器をひっくり返した猫が片前足を上げた妙ちくりんなポーズのまま、固まっていた。
<猫の怠惰といたずらの片付けに追われ、今回はお休みします>
『にゃあすけ、ごめんなさい』
「いいよいいよ。怪我していないか? ほら、危ないから向こうへ行っていな」




