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「カスタマージャーニーとは、ええと、ユーザーが商品やサービスを認知してから購入するまでの一連のプロセスを旅に見立てる、か。SMOT? なんで横文字を乱発するんだよ」
カスタマーやクレームなどはまだしも、セグメンテーションやらフルフィルメントやらになるとまったく分からない。英語の略称など、どういうものか、見当もつかない。見かける都度、意味を調べないといけないのが手間だ。
「柏木、それ、オジサンに一歩近づいたっていう自己申告だぞ」
通りがかった営業部の人間に笑われる。
そうは言うも、トップに君臨する者、あるいはなにかを成したという自負がある人間は片仮名や英語の略語で語りたがるような気がしてならない。
マーケティングは、消費者がこう思うからこうするという細密なニーズのマッチングを考える。
しかし、そう思い通りに進むものだろうか? もっと違う考えを持ったり行動をしたりするのではないか。突発的事象は発生しないのだろうか。個々ではそうでも、大勢ともなれば予測しやすくなるのだろうか。
猫の調査員も同じだ。猫の求めるものに合致する派遣先を見つける。
仕事をしていても、営業について学んでいても、気が付けば猫の調査員たちのことを考えている。洋輔は自分ではふつうに仕事をしているつもりがそうではなかったらしい。
「柏木、元気がないな」
そう言って四谷は洋輔を休憩スペースに引っ張って行った。差し出された缶コーヒーは洋輔好みの微糖である。こういうところもイケメンかと思いつつ、四谷に礼を言って受け取る。
「最近、調子が良いと思っていたけれど、なにかあった?」
ブラックコーヒーの缶のプルタブを起こしながら聞いてくる先輩に、ちょっとプライベートで、と言葉を濁す。
勇気を振り絞っていっしょに暮らそうと提案したら、流されたんです、なんて言えやしない。しかも、相手は猫だ。落ち込むなど、犬派にはあるまじきことだ。いや、そうではない。そこではない。もう、どこからどう突っ込めば、という感想しか浮かんでこない。
「あー、まあ、仕事は順調そうだもんなあ」
「俺、そんなにあからさまに落ち込んでいるように見えます?」
「まあな」
クロ。
今はコーヒーの缶とはいえブラックを見ることすら辛い。
我ながら重症である。
だって、調べたら、顔や体をこすりつけてくるのは愛情表現だと書いてあったのだ。ゴロゴロ喉を鳴らすのは嬉しいときなのだとも。クロはよく洋輔にそんな風にしていた。
尾をまっすぐにたてているときは遊んでというサイン。いや、お腹が空いた、だったかな。
こんな風にあやふやな付け焼刃の知識しかないからクロは呆れてしまったのか。
「おー、あっちからも元気がなさそうなのが来た」
「元気、ないです。どこかに落ちていないですか?」
そんな風に言いながら休憩室に入って来たのは経理部の田所だ。洋輔は四谷を見習って、田所に飲み物を渡すことにした。ただし、こちらは好みを把握するというスマートさを持ち合わせていないため、本人に「なにがいいですか」と聞いた。
田所は遠慮したものの、さっさと硬貨を自販機に押し込んだため、ほうじ茶のボタンをおずおずと押し、小さめのペットボトルを両手で掴みながら上目遣いで礼を言う。
いえいえ、と返しながら、猫はまっすぐに見上げて来るなあ、と心の中で妙な比較をしていた。だから、四谷が「お」という表情をした後ににやにやしているのや、田所の「うるさいですよ」と手を払う仕草などにも気づかなかった。
「田所ちゃんはどうしたの? 仕事でなにかあった? それともプライベート?」
四谷の矢継ぎ早には感じられないソフトな問いかけに、洋輔は感心する。
「ええ、実は、」
田所は渡りに船とばかりに話し出した。
経理部の二年目の女性社員がゴールデンウィーク明けから休んでいるのだという。
「あれ、じゃあ、もう四日目?」
「そうなんです。有休扱いになっているんですけれど」
洋輔たちの会社の有給休暇は法定どおり、入社後六カ月勤務のうち八割以上出勤すれば付与される。次からは一年ごとに、やはり八割以上出勤すれば付与される。取得実績はあるものの、入社してすぐに与えられる超絶ホワイト会社でもない。
なお、怖ろしいことに、有給休暇付与の条件を知らない営業は案外多い。人事総務にいた洋輔は当然知っているが、「なあなあ、柏木、欠勤とか休職とかしていたら、有休出ないって本当?」「俺さ、全然有給ってとっていないんだけれど、三年分まとめてドカンと取れる?」などと聞かれることもある。
法定に沿っているので、二年後に時効を迎える。さらには欠勤が賞与の査定に響くということすら知らない者もいる。
「経理の二年目って、遠藤ちゃんだっけ。なんで休んでいるの?」
さすがは四谷、経理の人員の名前も把握している。洋輔はついこの間まで人事総務に所属しており、経理とは連携を取ることが多かったので知っている。その二年目の女性社員は遠藤さくらだ。
「それが、その、ゴールデンウィークに実家に帰ったら、飼っていた猫が亡くなっていたらしくて」
遠藤は社会人になって二年目を迎えたのを機に、実家を出てひとり暮らしを始めたのだという。一か月ひとりで生活して実家に顔を出してみれば、可愛がっていた猫が亡くなっていた。
どうして教えてくれなかったのだと嘆き悲しむ遠藤に、両親は慣れないひとり暮らしをしつつ会社勤めをするのは大変だろうと気を回したのだと説明したのだそうだ。けれど、遠藤からしてみれば、納得がいかない。
「最期を看取ることができないなんて!」
最期を看取る。
その言葉は、洋輔の中に重くのしかかってくる。他人事ではない。おはぎは老齢だし、クロたちとて野外で暮らしていればいつどうなるか分からない。
先だってのサザエを食べさせようとした中学生と、猫が食べてはいけないものを止めようとした小学生のことが思い出される。
せめてしっかり食べて安心して眠れるようにと思って同居を提案した。けれど、クロは返事をくれなかった。
分かっている。自分がどれだけ良い案だと思っても、受け取り手は必ずしもそうではない。それにうっかりぼんやりと言われる洋輔とは違ってクロたちの方がよほどしっかりしている。野生で生き抜く力がある。
「それで遠藤さんはすっかり気落ちして、出社できなくなって」
「今は実家から戻ってきているの?」
「はい。ただ、何度連絡を入れてもつながらなくて」
「ペットロスってやつかなあ」
田所は上司から出社するように働きかけることを命じられたのだという。
「同じ若い女性同士の方が良いだろう。このご時世、なにがパワハラになってなにがセクハラになるか分かったものじゃないからな。ハラハラとかもあるらしいしさ」と言ったのだそうだ。
「そりゃあ、ずいぶん、腰が引けているねえ」
日和見の上司に四谷が苦笑を漏らし、洋輔も呆れる。
その遠藤は、田所の頑張りが通じたのか、翌日出社してきた。
上司との面談の後、自席についても仕事に手が付けられず、見かねた田所が休憩スペースに連れて来た。決裁を求めて上司を探しに顔をのぞかせた洋輔は、田所から向けられる助けを求める視線に気づく。
そうして、洋輔は田所といっしょに遠藤の猫の思い出話に付き合わされることになった。
「穏やかで人懐っこい子だったんです」
「ああ、猫にもいろいろな性格がありますよね」
洋輔の知る猫は、活発だったり甘えん坊だったりのんびりしていたり臆病だったり、ツンケンしていたりする。
「柏木さん、とうとう猫派になったんですか?」
「いえ、犬も好きです。ゴールデンウィークは近所のおばあさんが腰を痛めたから、散歩をさせてもらいました」
田所に問われ、洋輔が答える間、遠藤はスマホを操作し、画像を選び出していた。
「この子です」
遠藤の実家で飼っていた猫を見たとき、洋輔にはある考えが閃いた。
※人物紹介
・柏木洋輔:総務人事部から営業部へ異動し、慣れない営業活動をする傍ら、猫たちの不思議な活動に参加することに。猫たちからは「にゃあすけ」と呼ばれる。
・田所由加里:経理部。二十八歳。犬も猫も好き。実家暮らしで猫を飼っている。
・四谷樹:営業部で五年勤務。三十三歳。洋輔の教育係。爽やかなイケメン。
・遠藤さくら:経理部の新人。二十三歳。猫大好き。