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連休明け、夏空を思わせるうす霞みがたなびいていた。
洋輔は担当取引先の株式会社丸徳の山本と商談を終えた後、雑談をしている際、飼い猫の話になった。
「うちの猫、最近眠そうにばかりしていてさあ」
食欲もないという。
「口呼吸をしていたら熱中症の危険性もあるんだけれどね。下痢も嘔吐もないし」
そう言いつつも大丈夫だろうと結論を出す山本に、しかし、洋輔は病院に行った方が良いと伝えた。
「元気がなくぐったりしていて食欲がなければ熱中症の危険性がありますよ」
口呼吸をしていなくても、下痢も嘔吐もなくてもだ。
「あれ、そうなの?」
山本が目を丸くする。
洋輔は猫たちと関わるようになったのだからとあれこれ調べていた。だから、ネギやタマネギ、サザエが猫にとっては毒になると知っていた。知は力なりとはよく言ったものだ。書籍では猫熱中症に関することにも触れていた。
そのほかに学んだことに、猫の仕草に関するものがある。たとえば、猫が耳を水平になるくらい倒しているのは警戒しているときや機嫌が悪いときだ。
シルバーが出会ったときにやっていた。今はそうすることもないが、それを知った時、なんともいえない心地になったものだ。
「最近急に暑くなったからなあ」
「ゴールデンウィークが終わって一気に気温が上がりましたよね」
急激な温度変化は人にも猫にも負担がかかる。
「しかし、柏木君、ずいぶん猫について詳しくなったね。猫派に転向したの?」
「いえ、犬も好きです。ビーグルのあの高貴な眼差し、物憂げですらありますよね」
真面目に言ったら、身体を後ろに引かれ、おどけて言われる。
「あ、やっぱり犬派だ。ガチだ」
「ビーグルの猫の尾のようなそれも可愛いです」
もちろん、垂れ耳最高だ。ビーグルは物憂げな眼差しをしつつ、愛嬌たっぷりで明るいなんて、ギャップ萌えと言わずしてなんと言おう。
だが、それ以上は口をつぐんでおいた。
猫派の山本の前で犬について長々と語る愚行はしない。前に「犬派です」と言ってしまった轍は二度も踏まない。だから、心の中で付け加えたというのに。
「ガチだ。ガチ犬好きだ」
山本は柏木君らしいなあ、と笑っていた。機嫌を損ねた感じではないから、まあ良いだろう。でも、四谷にはこの話はしないでおこう。
猫の熱中症もそうだが、カラスもいるし、もう少ししたら梅雨も始まる。
洋輔は唐突にクロたちのことが心配になった。
案外、猫を飼っている人間というのは多いものだ。
「わたしはアメリカンショートヘアを飼っているんです。可愛いですよ。ただ、わたしより夫の方が家にいる時間が長くて、彼の方に懐いているのが残念なんですけれどね」
株式会社ホクトの女性担当者は三十代後半で課長職に就いている。相当忙しいのだろう。
最初会った際、営業先で話すことすら四苦八苦しているのに、いわゆるバリキャリ、キャリアウーマンとどんな会話をすれば良いのかと頭を悩ませたものだ。洋輔には縁遠い存在だ。
しどろもどろになる洋輔に、その女性担当者、西園寺真理が気を遣ってくれて雑談をしてくれた。
「名前負けしているってよく言われます。でも、それって結婚して苗字が変わったせいなんですよ」
「初めからそうだったかのような姓名ですね」
田所の猫と同じ名前だとは思っても口に出さずに、洋輔はそんな風に言った。まずますだったようで、そのまま和やかに話は進んだ。
子供はおらず、ふたりと一匹暮らしだそうだ。
「柏木さん、丸徳の山本さんとお取引きがあるんでしょう? ブレない犬派だけれど、猫派でもある共栄の柏木君、ってフレーズを最近よく聞きますよ」
西園寺は顔が広いらしく、そんなことを言った。なのに、こんな風に言う。
「丸徳の山本さんってびっくりするくらい、いろんな伝手をお持ちなんですよね」
他人のことは良く見えるとはこのことかと、洋輔は思わず笑う。
「西園寺さんも相当な情報網をお持ちでしょう?」
「あら、分かります? カドヤさんでアクセスの営業さんとバッティングしたことも聞いていますよ」
澄まし顔の西園寺に、洋輔は思わず渋い顔をする。バッティングしたわけではない。洋輔は役職付きではない担当者と会い、株式会社アクセスの営業はカドヤ株式会社の部長と会っていたのだから。
カドヤ株式会社は洋輔が引き継いだ営業先のひとつだ。洋輔が務める共栄株式会社とも付き合いがあるが、上司からもっと取引きを増やせないかとせっつかれている。だが、当然のことながら、洋輔の会社一社だけと付き合っているわけではなく、競合他社がある。
株式会社アクセスはそんな会社のひとつだ。
カドヤ株式会社の担当者とアポイメントを取って訪問した際、先方の部長と商談し終わった株式会社アクセスの営業とぶつかりかけた。その際、先方がぶちまけた荷物を拾い集めるのを手伝った。
「ああ、あなたが共栄の新営業マン」
そう言って差し出された名刺には「株式会社アクセス・久保谷陽司」とあった。洋輔も慌てて名刺入れを取り出す。
「アクセスの久保谷陽司です。久保谷はクボタニじゃなくてクボヤって読むんです」
「珍しい読み方ですね」
「まあ、そこそこ?」
彼にとっては営業先で鉄板の持ちネタなのだろう。名乗らないわけにはいかないから、そこから話を広げる。とにかく、会話をするとっかかりとなる。だが、ライバル業者の洋輔には話を長引かせる必要もないというのだろう。あっさりと終わった。
後からカドヤ株式会社の担当者に教わったところ、久保谷を「クボヤ」と呼ぶのが、「カドヤ」と同じだというので気に入られたのだという。カドヤ株式会社は角谷会長が創業した。
「アクセスの久保谷さんはうちの日下部の信頼厚い方なんです」
日下部はカドヤ株式会社の営業部長である。
そんな中にどうやって食い込めば良いのか、と洋輔は頭を抱える思いだった。
カドヤ株式会社もそうだが、株式会社ホクトも株式会社丸徳も、取引きを増やすのは一筋縄ではいかないだろう。西園寺や山本は人当たりが良いが、それは洋輔に対してだけではない。
担当者ふたりの共通点は猫を飼っているということだ。洋輔はつい猫の話をすることになる。
「給餌ってご存知ですか?」
「知っています! 以前、バッタを咥えて見せられて、腰が抜けるかと思いました」
冷静沈着な西園寺が高めの声で早口で言う。
「ああ、そんな感じなんですね」
「狩りの習性らしいですよ。獲物を見せつけたり、狩りを子供に教えたりする行為ですって。でも、アレだけはやめてほしいんですけれどね」
「アレとは?」
真面目くさった顔つきの西園寺から、猫はすばしっこい小さい黒い害虫をも狩りの対象にすると聞き、洋輔は顔を引きつらせる。気持ちは分かるとばかりに西園寺は重々しく頷き、そのとき、ふたりの心はひとつになった。
そんな風にして、洋輔は少しずつ取引先ででも打ち解けて行った。
※人物紹介
・柏木洋輔:総務人事部から営業部へ異動し、慣れない営業活動をする傍ら、猫たちの不思議な活動に参加することに。猫たちからは「にゃあすけ」と呼ばれる。
・株式会社丸徳・山本:猫好き。顔が広く、広い猫飼いネットワークを持つ。
・株式会社ホクト・西園寺真理:やり手の課長。広い伝手を持つ。
・株式会社アクセス・久保谷陽司:苗字は「くぼや」と読む。洋輔の会社のライバル会社社員。