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げに恐ろしきはその調査能力だ。
影に潜み、隙間に入り込み、素晴らしい身体能力で跳び、気づけば高みから観察されている。そして、音もなく近寄る。
その秘密結社の調査員たちは、今日もまた、人知れず動く。
そして、思わぬ幸せをもたらすのだ。
四月も中旬に差し掛かり、日が暮れても気温は生ぬるい。今年も酷暑になることを予感させた。
柏木洋輔はブラックではない中小企業で働くアラサーである。
先日、人事総務部から営業部に異動した。
慣れないことばかりでやることなすこと上手くいかず、落ち込む日々である。
初対面の人と話さないといけないのが苦痛で、ストレスが限界を突破しそうだ。
飛び込み営業とは違い、ルート営業であるから、新しく担当者となっても、それまでの取引き実績がある。ただ、ライバル業者がいる。強固に作り上げられた関係のなかに割り込んでいく、あるいは割り当てられるパイの切り分け角度を大きくするのに血道を上げることとなる。
取引先企業について知ることは当然のことで、なにを求めているか、そのときそのときの方針について知らなければならない。とにかく、コミュニケーションを取る必要があった。同時に、自社商品やマーケティングについて学ぶことは多い。
今までの業務とはまったく違っていて、戸惑うばかりだ。
そうしてようやく迎えた金曜の夜である。
これはもう、独身男性の節約生活のリミッターを解除してぱーっとやるしかないと思っていた。
コンビニエンスストアでちょっとお高めの缶ビールといくつかのつまみを買い込む。このために、夕方から水分補給を控えめにしていたのだ。喉が鳴る。
そわそわと会計が終わるのを待っていたら、ぼんやりしてやってしまっていたことに気づく。つまみの缶詰に猫缶が混じっていたのだ。なんでだ。そんな間違いする?
しかし、やってしまうのが柏木洋輔という人間なのだ。ラップした器を冷蔵庫に入れずにラップ本体を入れてしまうなんて序の口である。
疲れていたのだから仕方がない。
そう思ってあきらめることにする。散々慣れない営業で人としゃべらなければならなかったのだ。乏しい対人スキルは使い倒した。コンビニの店員さんに間違ってしまったので返品しますというのすら億劫だ。
「これが犬のフードだったらな」
コンビニを出た洋輔は猫缶を取り出してついひとり言をぼやく。
「そうしたらジョン子にプレゼントするのに」
犬派の洋輔は、通勤時に通りかかる一軒家で飼われている犬のジョン子のことを頭に思い浮かべる。
なぜに「ジョン」に「子」をつけたのだとつねづね疑問に感じる。しかし、飼い主らしき老婦人がそう呼んでいたのだ。聞き間違いかと思ったが、何度か耳にしたのだから、間違いない。
優し気な目をしたラブラドール・レトリバーである。
垂れ耳最高!
シェパードの大きな三角耳も好きだし、ドーベルマンの尖った耳も良い。
そんな風につらつら考える洋輔は週末の夜というので気が緩みまくっていた。
「あっ!」
なにかが飛びついてきたと思ったら手が空になっていた。なにかは着地をしたとたん、たーっと勢いよく走っていき、路地に入り、すぐに姿が見えなくなった。あっという間の出来事だ。驚いて呆気にとられたが、長い尾、しなやかな細長い身体、三角耳、あれは猫だ。
手にした猫缶は、猫に奪われてしまったのだ。
慌てて洋輔は路地に駆け寄って奥の方を覗き込んだが、もはやそこには動くものはなにもなかった。
「まあ、いいさ。どうせ間違って買ったやつだし、引き取ってもらったと思えば」
そう呟けば、案外そんな気分になってきた。
だから、洋輔はそれ以上追いかけるつもりはなかったし、取り戻すなんて考えもしなかった。
マンションへ向かう道すがら、ジョン子を飼っている一軒家の前を通りかかり、そちらへ視線を向けた。日が落ちてジョン子は家の中に戻っているから姿は見えない。ラブラドール・レトリバーは大型犬ではあるが、室内での飼育が推奨されている。常に家族といっしょにいることを望む犬なのだ。なので庭にいないと分かっていつつも目が向いてしまう。
その一軒家と隣家との隙間に、街灯の光をきらりと反射するものがあった。
なんだろうと思えば、猫だった。つい足を止めた洋輔を、猫の方でもお座りして見上げる。その口は缶詰を咥えていた。
「あ、それ、さっきの」
猫が唖然と口をあけ、缶詰がころりと地面に転がる。その目を見開いた表情に、「びっくりした」とか「なんでバレたの」とか「追いかけてきた?!」とかそんな猫の気持ちがありありと表れていて、犬派の洋輔も可愛いなと感じた。
缶詰は洋輔の方へ転がって来るものだから思わず手を伸ばした。
猫がびくりと身を振るわせる。
「待っていな。お前、これ、開けられないだろう?」
洋輔はすっかり「間違って買った缶詰を引き取ってもらった」気分になっていたから、泥棒猫という感想はなく、そして、野良猫に餌付けするという意識もなく、缶詰の蓋を開けてやった。
「缶の縁は危ないから、気を付けろよ」
と言いながら、そっと缶詰を猫の方へ押しやる。
猫は暗がりに溶け込むような黒い毛並みで、ビー玉みたいな両目がじっと洋輔を見上げる。
自分がいては安心して食べられないかと気づいた洋輔はそのままゆっくりとその場を立ち去った。
大分離れてこっそり振り向いたら、わき目も降らずがっついていたので、思わずふふっと笑った。夜道に笑いながら佇むアラサーという自分を顧みて、慌てて表情を引き締めた。
「にゃあ」
黒猫が両前脚を揃えて立て、腰を下ろした格好で洋輔を見上げる。
「お、食べ終わったか? じゃあ、缶を捨てておくからな」
「にゃあん」
まるで洋輔の言葉が分かるように、鳴き声を上げる。そのときはそれが比喩的なものだとばかり思っていた。