逃走
ミシュが、いなくなった。
おそらく、昨日のわたしの言葉による、彼女の自責の念が原因だ。
このまま放っておくわけにはいかない。
ミシュには行き場所のあてはないはずだし、そう遠くに行けるほどの体力もないはずだ。
だが、そうは言っても行き先に心当たりがあるというわけでもない。
ひとまず近場から地道に捜査をしていくしかない。
「しらみ潰しに探すしかないか……」
彼女の捜索は、孤児院の子供たちも必死に手伝ってくれている。
みんなミシュと仲良くしていたし、彼らとミシュの間には確かな信頼関係が築かれていた。
きっと心から心配しているだろう。
ミシュは、彼らから逃げる必要なんて全くなかったはずなのだ。
「……ミシュ、いったいどこにいったの……」
わたしは今、一人でロザリアの街中に立っている。
孤児院周辺は孤児院のみんなに任せるとして──、わたしが探すべきは、この街のどこかだろう。
そう思って来てみたものの、やはり一人で探し回るには広すぎる。
街中を走りまわり三十分ほど探したが、小さな黒髪少女の姿は見えない。
当然だ。
雨で見通しも悪く、それでいて往来にはまだまだ人も多い。
薄暗い森の中で苗木を一つ探すようなもの。
ただひたすら走り回り、運を天に任せるしかない。
はぁ、と浅く息をつく。
「とりあえず、あの子の足ならこの街より先に行くのは難しいと思うけど……」
わたしは一度立ち止まり、ぐるりとあたりを見回した。
石畳の続く街並み。
入り組んだ背の高い煉瓦作りの建物の行列は、土地勘のないわたしには迷路のようにも思える。
それはきっと、ミシュにとってもそれは同じはずだ。
雨粒で地面が濡れ、足元も滑りやすい。
どこかで滑って足を挫いたりしていないだろうか。
雨に打たれ、凍えていないだろうか。
ミシュへの心配が層となり、心に次々とのしかかってくる。
──そんなときだった。
「──ん?」
ふと、視界の端に何かがかすめた気がした。
灰色の街の中に一際目立つ赤色。
降りしきる雨の中、人と人との間に一瞬だけ──、とぼとぼと歩く黒髪の後ろ姿が見えた気がした。
慌てて体をずらし、それを目で追いかける。
──間違いない。
あの鮮やかな赤い服は、昨日わたしがミシュと一緒に買いに行ったときに買った服だ。
薄暗い靄に包まれた街の風景の中でも一際目立っている。
雨に濡れてしおれているが、あの黒髪も間違いなく彼女のものだ。
「──ミシュ!」
思わず、大声で叫んだ、
すると、その後ろ姿がびくりと肩を震わせた。
その反応から、わたしは再度それが彼女であると確信する。
ようやく見つけた。
安堵感と少しの気まずさに、心がざわつく。
──とにかく、今は彼女を連れ戻そう。
全てはそれからだ。
わたしは彼女の背中に向けて、小走りに駆け寄った。
彼女の表情は、こちらからは伺えない。
わたしと同じく、安心してくれているのだろうか。
それとも──。
「──ミシュ……!」
もう少しで、彼女の肩に手が届く。
あと一歩。
あと数センチ。
彼女との距離が、目と鼻の先まで来た瞬間。
「───っ」
黒髪少女の足が、──弾かれたように、地面を蹴った。
一瞬で離された彼女までの距離。
伸ばしたわたしの右手が空を切る。
「──!?ミシュ……、待って!」
慌てて彼女に向けて再度手を伸ばすも、すでに彼女の背中は遠く離れていった。
わたしは呆然とその後ろ姿を見つめる。
……だめだ。
ここで彼女を逃しては、彼女はきっと孤児院には戻ってこない。
彼女とは二度と会えなくなってしまう。
もう見失ってはいけない。
でなければ、あの子本当に一人になってしまう。
「そんなの、ダメだ!」
水たまりを踏み締め、走り出したミシュの背中を追いかける。
しとしとと冷たい雨の降る街。
ぬかるみに足をとられつつも、わたしは必死に石畳の道を走り出した。
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「──はっ、はっ、はっ……!」
息が上がる。
前をゆく黒髪少女との差はいっこうに縮まらない。
あの小さな歩幅で、彼女は風のように小道の路地を駆け抜けていく。
「……ちっ、……ちょっと、足が速すぎでしょ……!」
わたしはむしろ運動神経は良い方だ。
孤児院の子の中では最年長だし、彼らの中では駆けっこに負けたことはない。
今だって、すぐに彼女に追いつけるはずだと思っていた。
なのに──。
その差は一向に縮まらない。
むしろ、どんどんと距離が開いていくようだ。
人一人通れるくらいの路地裏。
圧迫感すら感じる狭い壁と壁の間。
突き出たパイプや床の廃材をものともせず、ミシュはぐんぐんと速度をあげて走り去っていく。
わたしの方は、なんとか離されないように必死に足を動かすので精一杯だ。
追いつけない焦燥感と不安感に、胸が押しつぶされそうになる。
「……もしかして、あれが魔族の身体能力ってこと……?」
激しく上がり始めた息に耐えつつ、彼女の背中を追いかける。
魔族の中には、エルフのように魔力に秀でた種族の他に、身体能力に秀でた種族もいるらしい。
もし、彼女が人間とその魔族とのハーフであるなら──。
この飛び抜けた身体能力と足の速さにも納得がいく。
今はなんとかギリギリ喰らいついていけている。
だが、このままではわたしの体力が尽きた瞬間に──、彼女はあっというまに、手の届かないところに行ってしまうだろう。
それだけは、絶対にだめだ。
どんな手を使ってもいい。
ここでミシュを見失うわけにはいかない。
何か彼女を止める手段があるのならば、卑怯でも、狡猾でもいい。
わたしは嫌われたって構わない。
──そうだ。
もし、彼女が足を止めるとすれば、それは──。
必死な気持ちとは裏腹に、みるみる距離は開いていく。
思考を重ねながらも、わたしは懸命に彼女に追い縋る。
細い路地を走り抜け、小さな角を曲がったときだった。
「──しまっ……!?」
とっさに自分の口から漏れ出たその叫び。
それを自ら聞いた次の瞬間。
わたしは、薄暗い路地の地面に転がっていた廃材に、引っ掛けるように足を取られていた。
つまづいた後に、ふわりと宙を舞う感覚。
勢いが乗っていたせいで、わたしの身はそのままぐるりと半回転し──。
──濡れた地面へと、激しく体を叩きつけられた。
体に響く衝撃。
そして、続く激痛。
どうやら、瞬間的に意識が飛んでいたらしい。
気がつくと地面へとうつぶせに倒れている自分に気づいた。
「──痛った……」
やけに穏やかに、苦悶の声が漏れた。
予想外に体を強く打ち付けてしまったらしい。
目の前の地面の水たまりに、雨粒の波紋が揺れている。
転んだ時に何かで肌を切ってしまったのだろう。
目前に広がる水面に、自分の血の色が鮮やかに広がっていく──。
赤い視界。
朦朧とする意識。
やけに回転の早くなる思考の中で。
──誰かが、わたしを呼ぶ声が聞こえた。
「──ちゃんっ……マルシェラお姉ちゃんっ!──っかり、しっかりしてくださいっ……」
耳鳴りの向こうで、聞き慣れた声がする。
それは、ミシュの涙交じりの叫び声だ。
すぐそばのはずなのに、なんだかやけに遠く感じる。
──ああ。やっぱりそうだ。
ミシュはとても優しい子なのだ。
本当に情けなくて卑怯者な姉だけれど──、わたしは絶対に彼女を離したくないし、彼女に一人になって欲しくない。
「──うっ……」
痛む右腕を無理やり動かし、目の前で泣いている黒髪少女の腕へと手を伸ばした。
「──ミシュ。……ようやく、捕まえた」
がしりと彼女の腕を掴む。
そして、痛みに耐えながらニヤリと笑って見せた。
彼女は優しい。
だから、怪我をしたわたしを見捨てて逃げることなんてできないのだ。
わたしは嫌われようと、蔑まれようとも構わない。
でもこの子は、あの孤児院にいるべきだ。
新しくできた絆は、すでに子どもたちとの間に育まれている。
みんな、ミシュのことが大好きだし、ミシュだってそれは同じはずだ。
友人であり、家族──。
彼女の帰る家は、もうあの場所になっているのだから。
「──ミシュ、昨日は、ごめん……」
言いそびれた謝罪の言葉。
それを言いかけた瞬間、ぐらりと視界が嫌な揺れ方をした。
わざと転倒を演出した際に、どこか強く頭でもぶつけたのだろう。
本当に情けない。
やっぱりわたしは何をやっても、ニナ姉みたいにはうまくいかないな。
ミシュの戸惑いと動揺の声の下で──、わたしは何があっても二度と離さないように、彼女を掴む手に力をいれる。
水たまりに広がる血の赤色。
そして、彼女の鮮やかな赤い服を視界の端に収めながら。
わたしの意識は、ゆっくりと暗い淵の向こうへと誘われていった。