言えなかった言葉
「……さん──」
暗闇の中で、誰かが呼ぶ声がする。
聞き慣れた旅の仲間の声。
できればもう少しまどろんでいたい。
深い記憶の水底で、もうちょっとだけ夢の続きを見ていたい。
そう思い、意識を深く潜らせようとしたとき──、わたしの中に、一際強い声が響いた。
「……さん!──ニナさん!」
「………あっ………、──リーシャ?」
はっとして、目を開いた。
目の前にはメイド服に身を包んだ黒猫少女の姿。
その愛らしい顔が、わたしを上から覗き込んでいる。
周囲を見渡す。
背後には明るい緑を湛えた森の木々が見える。
そして、わたしの顔を心配そうに眺めている面々。
そこで初めて、自分がリーシャに膝枕されていることに気づいた。
えっと……。わたし、何してたんだっけ……。
少し長い夢を見ていたような気がする。
断片的にしか覚えていないが、あれは恐らくアイリスの記憶だ。
どういうわけかわからないが、彼女がこの村を訪れた時の記憶をかいま見ていたらしい。
少し頭がくらくらする。
魔力切れの症状だろうか。
目眩とあいまって、現実と夢の記憶の境目が微妙に不確かだ。
わたしを覗き込むリーシャの顔。
彼女は心配そうに眉をひそめ、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「大丈夫ですか……?どこか痛いところとかありますか……?」
黒猫少女の目が、こちらを気遣うように細まる。
彼女の質問の意図がわからない。
わたしはいつのまにか怪我でもしたのだろうか。
そもそも、なぜわたしはひっくり返って膝枕に寝転がっているのだろう。
思い出そうとするが、先ほどからどうにも記憶が混乱している。
わたしは、ルチアとロディオとともに旅をしていて──。
──いや、違う。これはアイリスの記憶だ。
ええと、たしか魔泉を訪れて、それで──。
それで……、どうしたんだったっけ。
………ダメだ。
魔力切れのせいか、記憶を掘り返す作業すらおっくうだ。
「うーん……」
小さく息を吐きだし、頭の回転を整える。
うん、いったん冷静になろう。
膝枕状態からぐるりとうつ伏せに体を回し、リーシャのお腹に顔を埋める。
そして、そのまま深く息を吸い込んだ。
「あぁー、リーシャのお腹柔らかい……。それに、なんかいい匂いがするー……」
「んにゃっ……!??」
真っ赤になった猫耳少女が、手の平を振り上げるのが見えた。
──次の瞬間。
すっぱーん!と遠慮のない平手打ちが飛んできた。
くらくらしていた頭が急激にしゃっきりする。
「痛ったぁい!何すんのリーシャ!」
「こっちのセリフですよ!なにわたしのお腹で深呼吸してんですか!変態ですか!?」
毛を逆立てて威嚇するリーシャ。
尻尾までビンビンである。
そんなに怒らなくてもいいじゃん、べつに減るもんじゃなし……。
ため息を一つつき、痛む右頬を撫でる。
今日もリーシャは相変わらずなツンツン具合だ。
まあ、そこが可愛いところでもあるんだけど……。
せっかく苦労して魔泉の浄化を手伝ったのだ。
ちょっとは頑張りをねぎらってくれてもよくないだろうか。
「………ん?」
ふと、思い出す。
……魔泉?
……浄化?
「──ああ、そうだ!思い出した!リーシャ、魔泉の浄化は──」
「心配ない。すべてうまく行った」
背後からかけられた声。
安心感のある大人の男の声に、わたしはふと顔を上げる。
そこには、普段よりずっと穏やかな顔を浮かべている、ディレットの姿があった。
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彼が優しげに見つめる視線の先。
倒木に囲まれた空き地の真ん中に目を向ける。
先程まで黒い油のようだったその魔泉は、今は美しい透明な池となっていた。
正常化されたマナのおかげだろうか。
枯れ果てていた大地に生気が宿っているのがわかる。
かつて霊樹でみた光景と同じように、森が息を吹き返していくのを肌で感じる。
わたしが安堵の息をつくと、ディレットもその光景を見て小さく呟いた。
「同じだな、あのときと」
「アイリスと、魔泉を浄化したときのことですか?」
「ああ。キミたち親子にはまた世話になってしまったな」
ディレットはそっと瞼を閉じる。
昔を思い出しているのだろう。
十年という時間は、やはり長い。
それは魔族にとってもきっと同じだ。
彼の表情は穏やかではあったが──、それとは裏腹に、少し寂しげなものも感じる。
「人の生涯とは、本当に一瞬だ。わたしは今でも後悔しているよ。あのときわたしが彼女に伝えることができたのは、謝罪の言葉だけだった。……伝えるべきことはもっとあったはずなのにな」
ディレットはゆっくりと瞼を開き、遠くを見つめた。
そして、彼の傍に寄り添うレニアの前髪に触れる。
しばらくそうやって彼女の頭を撫でると、わたしの方へと向き直った。
「だから、十数年越しで済まないが──、どうか代わりに、この言葉を受け取って欲しい」
彼は小さく息を吸い、頭を下げた。
「本当にありがとう。──キミたちに、心からの感謝を」
ふわりと森を抜ける風が吹く。
差し込む木漏れ日の中。
爽やかな哀愁に包まれながら、わたしは彼に笑顔を返した。
「伝わってたと思いますよ。だって、母さんはディレットさんを友人って言ってましたから」
「──それは……」
彼の瞳に、一瞬驚きの色が浮かぶ。
なぜそれを、と問いかけようとした言葉を飲み込み、彼は、ふっと小さく笑った。
「……そうだな。わたしはキミとも友人になりたいと思う。ダメだろうか?」
「いいんですか?わたしは魔族じゃなくて人間ですよ?」
少し悪戯っぽく言葉を返す。
ともすれば意地悪な返事だが──、きっとアイリスだって、こう返したはずだ。
ディレットは目を細め、しばらく瞼を閉じる。
そして、その言葉を噛み締めるように、優しく口を開いた。
「関係ないさ。わたしがそうありたいと思っただけだからな」
「わたしもです」
にかっと笑顔を返す。
すると、彼もようやく肩の荷がおりたような表情を浮かべ、優しく微笑むのだった。




