失くしたくないもの
──その夜。
わたしはディレットの用意した軽食をとりつつ、レニアが寝ているベッド横のテーブルを二人で囲んでいた。
彼女の容態は落ち着いた。
が、ディレットはまだ少し心配な様子である。
わたしも少々疲れてはいるが、彼らのことだってもちろん気になる。
深夜のティータイムに、ちょっと付き合ってあげるくらいはやぶさかではない。
紅茶と一緒に、添えられたカヌレを一口頬張る。
彼は「ささやかなもので済まないが」と苦笑していたが、びっくりするくらい美味しかった。
どうもこれは彼の手作りらしい。
まったく、イケメンのくせに料理までできるのか。
これなら彼一人でも、今後の生活には全く困らなそうである。
もっとも──。
彼自身は、もはや一人の生活など望んではいないだろうけれど。
「………。」
黙々と食事をとるわたし。
彼はそれを、じっと向かいの席に座って眺めていた。
会話もなく凝視されるのは、なかなかに気まずい。
何か雰囲気が弾むような話題の一つでも振るべきか。
いや、でも下手に明るい話題はまずいか……。
状況にあってなさすぎる。
やきもきしながら二つ目の菓子を口に運ぶ。
しかしこれ、美味しいな……。
夜にこのカロリー爆弾はちょっと不味い気もするが、まあそこは諦めも肝心。
ついた脂肪は旅路で消費していけばいいのである。
こちこちと時計の針が進む音が響く。
食卓に微妙な空気が流れる中──。
唐突に、ディレットが、綺麗な所作で頭を下げた。
「……いろいろと済まなかった」
そう言って、わたしに頭を下げるディレットの姿。
突然の謝罪に驚き、わたしは目を丸くして顔を上げた。
彼の様子からは、謝意と憔悴と──、ほんの少しの安堵を感じさせられる。
「キミに、謝罪と最大の感謝を。……不当な扱い、それと、魔獣の撃退とレニアの治療。感謝してもしきれるものではない。口下手で済まないが、わたしの誠意と感謝を受け取って欲しい」
「──い、いえ!そんな!大したことはしてませんから!」
思わずスプーンを取り落として腕をぶんぶん振る。
リーシャとメレルは頑張ったが、わたしは所詮ただの魔力タンクだ。
ヨザクラから貰った丸薬も、右から左に流しただけだし。
実際大したことはしていないのである。
ちなみに、彼女からもらった薬は本当によく効いた。
今はもう、冷たくなっていたレニアの手のひらにも温もりが戻り、真っ白だった頬の色も柔らかい朱色が差している。
寝息も安らかで、ぐっすりと眠っている様子だ。
おそらくもう大丈夫だろう。
ディレットはわたしに再び「ありがとう」と頭を深く下げた。
人間は嫌いだ──。
そう言っていた彼の姿からは想像もつかない態度だ。
──いや、そうでもないか。
わたしはカヌレを食みながら、少しだけ思い直す。
元から彼のその言葉は、彼の本意からは少しずれていた。
彼は本当は人間嫌いではなく、ただ少し苦手だっただけなのだ。
口下手で寡黙。
だが、誠実で性根は真っ直ぐ。
レニアが心惹かれるのも少しわかる気がする。
ディレットはわたしの顔へと視線をもどし、誠実そうな瞳でこちらを見つめる。
「わたしに何かできることはないか?もちろん金で良いというのであれば、いくらでも用意する。キミたちはレニアの命の恩人だからな」
「うーん……、そうですね……」
べつにわたしが損をした部分はないし、金が欲しくてやったことでもない。
しかしせっかくお礼をくれるというのだ。
すっぱり断るというのも、それはそれで彼の誠意に失礼かもしれない。
わたしはしばらく考えこんだあと、「それじゃあ──」と、一つだけ彼への頼みを口にする。
じつは、ずっと聞きたかった話があるのだ。
だが、タイミングを逃して尋ねることができなかったことでもある。
一度瞼を閉じたそののち。
わたしは、彼をまっすぐに見つめる。
「アイリスの──、母の話を聞かせてくれませんか?」
「──っ」
その頼み事に、彼は少し面食らったようだった。
数秒だけ浮かべた、困ったような彼の表情。
だが、最終的には「……わかった」と頷き、わたしに視線を向けた。
「先に言っておくが、あまり面白い話にはならない。それでもいいか?」
「べつに構いませんよ。ディレットさんから見た母のことが知りたいんです」
どうせもののついでのようなものだ。
わたしが頷くのを見ると、彼はつらつらと昔話を始めたのだった。
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「彼女がここを訪れたのは十年以上も前のことだ。ルチアというエルフの女と、ロディオと呼ばれていた魔族の男とともに旅をしていた」
ディレットは紅茶のカップを片手に、その水面に視線を落とす。
「知っているとは思うが、昔は魔族と人間が抗争状態にあった。人間である彼女がこの村に来たのは、そんな頃だった。もしキミが魔族だったら、その事実をどう思う?」
「良くは思わないかも……。一応敵側ですし」
「そうだな。わたしもこう見えて村の長だ。突然訪れた彼女たちには警戒していた。それは他の村人も同じだ。彼女たちが訪れた当初は──、心無い言葉や、態度を投げかける者も多かった」
ひじをつき、何かを思い出すようなその姿。
長寿の魔族である彼にとっても、やはり十数年という時間は長い歳月なのだろう。
彼は積もった記憶のほこりを払い、目の前に整理している最中なのだ。
「わたしの目の届かないところでやつらにおかしな真似をされても困る──。そう考え、わたしは彼女たちを我が家に宿泊させた」
「なるほど……。それが出会いだったんですね」
わたしの言葉に、彼は頷いた。
おそらくアイリスたちへの酷い扱いを見かねたのもあるのだろう。
レニアが言う通り、彼は優しい人だ。
心の内では、他の魔族から受ける彼女らへの迫害を心配していただけなのかもしれない。
「彼女は良い人間だった。村の者から不当な扱いを受けたにも関わらず、元凶である魔泉の浄化を行なってくれた。そのおかげで、今は魔獣の発生もぐっと減り、散発的になった」
「魔泉の浄化……」
──魔泉。
マナの濁りの溜まり場と、彼は言っていた。
そして、そこから魔獣が湧いてくるとも。
つまり、わたしたちが霊樹を浄化したようなことを、アイリスたちも行っていたということだろうか?
だとすると、なんだか少しだけ奇妙な繋がりを感じられる。
なんだか唐突に興味が湧いてきた。
アイリスという女性──。
彼女のことを、もう少しだけ知りたくなった。
「……どんな人だったんですか?アイリスって」
「そうだな……。主観的なところから言わせて貰えば──、正直なところ、わたしは彼女が嫌いだった。苦手なタイプといったほうが正しいか」
彼は少し息をつく。
紅茶の水面にゆらめく波紋。
一度波打ったそれは、やがてすぐに消えていった。
ディレットは、ふぅ、と小さく息をつく。
「彼女はいつも前向きなエネルギーに満ち溢れた人だった。彼女と相対していると、常に後ろ向きな自分を思い知らされる」
まあつまり、ただの嫉妬のようなものだ、と彼は苦笑した。
「わたしの警戒と不審の態度にも、彼女はいつも不敵に笑っていた。優しく、心が強く、それでいてお人好しで、直情的で──。最後には、彼女を警戒していた自分が馬鹿らしく思えたくらいだ」
わずかに綻ぶ口元。
なんだかんだで、最終的には彼とアイリスはうまくやっていたのかもしれない。
あの悪戯っ子が彼に迷惑かけてたんじゃないかとヒヤヒヤしたが、それは思い過ごしだったようだ。
まあとりあえず、娘のわたしが親の不始末を謝るようなことにならなくて本当に良かった。
「魔泉の浄化を終えたあと、彼らはすぐに村を旅立った。何か目的があるようだったからな。スクロールはそのときに預かったものだ。いずれアイリスの名前を出す女の子が訪ねてきたら、その少女に渡して欲しいとな」
そこまで話しを終え、ディレットは息をついた。
普段の寡黙な彼からしてみれば、だいぶん大盤振る舞いの会話だったようである。
紅茶のカップをおくと、少し疲れたように水面に視線を落とす。
時計の針が、こちこちと音をたてる。
彼はしばらく黙り込んだ後──。
再び、小さくため息をついた。
「……そんな彼女も、もうこの世にはいない。人間の命とは儚いものだ。それが大事な友人や恩人であっても、油断すれば一瞬でなくなってしまう」
彼の無骨な指がカップの縁を撫でる。
そして、ベッドで眠っているレニアの方へ視線を向けた。
普段は固い視線が、少しだけ柔らかくなったような、そんな気がした。
「──だからこそ、今度は手放したくはない」
そっとレニアの前髪に触れる彼の指先。
柔らかく、丁寧に。
レニアへの思いが、どれほど大切なものなのかが察せられる。
きっと、彼は彼女に出会ってから、ずっとその存在を大切にしてきたのだろう。
それはレニアにとってのディレットへの想いと、向いている先は同じだ。
なんだか少しだけ安心した。
少なくとも、レニアの思いは一方通行ではなかった。
それは、とても喜ばしいことだ。
わたしは安堵しつつ、彼へと微笑みかけた。
「……レニアさんのこと、大切なんですね」
「……そうだな。むしろ──」
彼の口が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……どうもわたしは、彼女を愛しているようだ。間抜けなことだが……、失いそうになって初めて気づいた」
「……はぁ、そうですか。──って!?……あ、愛……!?」
突然の彼の言葉に、思い切り紅茶をむせてしまった。
ゲホゲホしながら息を整えるわたし。
いや、突然すぎないか?
まさか表情ひとつ変えずに他人の前で告白するとか思わないし!
それとも、魔族の恋愛観ってこんな感じなのか?
うーん、経験値がとぼしすぎて判断できない……。
ディレットはそんなわたしに、少しだけ可笑しそうに笑みを浮かべる。
そして、ゆっくりと首を横に振ってみせた。
「彼女には言わないでおいてくれ。わたしも彼女に伝えるつもりはない。……魔族からの恋慕など、人間の彼女には迷惑なだけだろうからな」
やはり少し恥ずかしかったのかもしれない。
彼はそれだけ言い残すと、足早にレニアの寝室から出ていった。
あとに取り残されたのは、あまりの急展開に呆然とするわたし。
そして、ベッドの上で眠るレニアだけだ。
小机に乗せられたランプの光が揺れた。
照らされた光が、部屋に二人分の影を落とす。
レニアは仰向けで、じっと目を閉じたまま眠っている。
瞳は固く閉ざされ、開く気配はない。
わたしはなんとなしに、彼女の方へと視線を向けた。
そして──、そっと彼女の耳に、口を近づける。
「──レニア。……じつは起きてるでしょ」
わたしの言葉に、彼女の指の先がぴくりと動いた。
続いて、耳の端が真っ赤に染まっていく。
頬を朱色に染めながら、それでも狸寝入りを続けるレニアの姿──。
わたしはちょっとだけ可笑しくなり、くすりと声を漏らす。
「よかったね。両想いじゃん」
「───っ!!」
あまりに照れ臭かったのか。
目を閉じたまま、思わず鼻息を荒くしてしまったレニアを見つめ、微笑む。
わたしはなんだかいつもより、ちょっとだけ幸せな気分で紅茶をすするのだった。