レニアの想い
──翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
結局あのあと、わたしたちは村長の家に宿泊させてもらった。
お言葉に甘える形で──、と言いたいところだが、正直、家の主にはあまり歓迎されていない気もする。
まあ心象的には少し引っかかるものはある。
だが、彼が当てがってくれ、レニアが準備してくれた部屋は、まさに快適そのものだった。
未知の国でいきなり宿探しをするより随分マシである。
むしろ運が良かったな、とさえ思っている自分もいる。
「おはようこざいます、ニナさん。よく眠れましたか?」
「うん。ばっちり。おはよう、レニア」
自室の扉が開き、件の使用人が顔を出した。
レニアに挨拶を返し、わたしはぐっと伸びをする。
ディレットとは初対面から剣呑とは言えない空気になってしまった。
その代わりではないが、使用人のレニアとはなかなか良い関係を築けていると思う。
もちろん、ディレットとの関係も良くしていきたい。
タダで家に泊めてもらっているわけで、扱い自体にどうこう述べるつもりはないのだが──。
ディレットはアイリスの実像を知る重要人物。
できるなら仲良くしておきたいというのが本音である。
レニアが朝の紅茶をティーカップに注いでいると──。
絡まるようにベッドで寝ていた黒猫少女と銀髪少女が、匂いにつられてようやく起きてきた。
「うう……、おはようございます……」「おはよ」
ぐでんとしているリーシャに対して、メレルはいつになくしゃっきり爽快そうだ。
レニアは少し心配そうに猫耳少女を見つめる。
「リーシャさん、ベッドが寝苦しかったのでしょうか……」
「ああ、リーシャは気が抜けた時の朝はいつもこんなんだから。気にしないでいいよ」
わたしがフォローすると、リーシャも「いつになく快適でした……」と低血圧全開の青白い顔でぷるぷると親指をたてた。
どう見ても快適な睡眠の結果には見えないが、まあ正直者のリーシャがいうならそうなんだろう。
それから、皆で朝の紅茶を啜る。
冷えた体に灯る熱。
血管へ温かさという快感が流し込まれていくようで、じつに気持ちが良い。
とたんに思考が回り始めた。
やはり朝はあったかいものに限るなぁ。
息をつき、レニアの方へと視線を向ける。
「そういえば、レニア。ディレットさんて、レニアには普通に接してるよね」
彼女はぴくりと顔を上げる。
そして少し気まずそうに目を逸らした。
「昨日は申し訳ございません。普段はあのような物言いをする方ではないのですが……」
「ああ、いや、べつに責めてるわけじゃなくて。ちょっと気になっただけ。ディレットさん、人間嫌いって言ってたでしょ?でもレニアのことは嫌いじゃなさそうだし。レニアもディレットさんのこと好きなんだよね?」
はたから見ていてもわかる。
二人の間には、培われた信頼関係が見て取れる。
それはうわべだけのものではなく、しっかりと精神に根付いているものだ。
レニアはわたしの言葉を聞くと──、身を乗り出すように、そして食い気味に声をあげた。
「当然です!ディレット様はわたしにとって、世界で一番大切な方です!」
そしてすぐに、はっとしたように身を引き、
「……も、もちろん使用人としての意味ですが……」
と付け足して、口を閉じた。
心なしか、ほんのり頬が朱色に染まっているようにも見える。
……ほほう。
これはこれは。
わたしは顎を撫でながら、隣で紅茶を啜っているメレルへと話を振る。
「心の機微に詳しくなったメレルさん。あれ、どう思う?」
銀髪少女はこくりと頷き、
「使用人として、というのは建前。レニアはディレットを深く愛している。もちろん性的な意味で」
カップを両手に、飄々と述べるメレル。
彼女らしいスパッとした切り口である。
まあ、少々鋭すぎる気もするが……。
対して、レニアの顔はみるみる間に真っ赤に染まっていく。
「ち、違います!違いますから!」
ぶんぶんと腕を頭を交互に振って否定する彼女。
「わたくしなどがディレット様を、あ、愛しているなんてそんな……?!れ、劣情を抱いているなんて、そんな、そんな──!」
「あー、レニアさん。やっぱりその辺にしておこう。どんどん墓穴掘りそうだから……」
「レニアはディレットと性的な意味で関係を持ちたいと思っている。あわよくば彼の子をなしたいとも──」
「うぉおい、ストップ!メレル!そこまで!」
物理的にメレルの口を塞ぐ。
……しまった、ちょっとやりすぎたかもしれない。
もごもごと強引に続きを口にしようとする銀髪少女を抑えこみ──、わたしはすっかり思考回路をショートさせて、頭から煙をあげているレニアを見つめるのだった。
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「もう、あまりからかわないでください……」
「あはは、ごめんごめん」
数分後。
ようやく調子を取り戻したレニアであった。
まあ、いまだに少々口を尖らせているようにも見えるので、少しやりすぎたかもしれない。
反省しよう。
わたしは再度彼女に向き直る。
そして、彼女に一番聞きたかったことを尋ねるために口を開いた。
「ねぇ、レニアさんは、どうやってディレットさんと仲良くなったの?」
二人の信頼関係は、初対面の素人が見てもわかるほどだ。
ならば、その元になる出来事があったはず。
レニアは一瞬口をつぐむ。
そして、どう言ったものかと考えを巡らせるように、前髪をいじりながら控えめな答えを返した。
「あの方は──、わたくしの命の恩人なのです」
「命の恩人……?」
「はい。あまり面白い話ではないかもしれませんが……」
レニアは、ベッド前の椅子に腰掛けた。
彼女の瞳が、昔を思い出すように天井の木目を見上げる。
そして、一度大きく深呼吸すると、続きを語るために口を開いた。
「わたくしの生まれは商人の家系なのです。そして、父は根っからの商売人でした。父は、まだ人間との交流がほとんど存在しなかった終戦後の魔大陸に商機を見出したのでしょう。家族であったわたくしを連れ、魔大陸のいくつかの村や街を訪れていました」
レニアはゆっくりと息を吐き、視線を落とす。
「最後に訪れたのは、このドルテルの村──。その道中のことでした。村近くの泉にさしかかったときに、
……魔獣に、襲われたのです」
魔獣──。
霊樹の森での記憶に新しい。
あのときは、わたしも一度殺されかけた。
メレルがいなければ、わたしの旅はあのとき終わっていただろう。
レニアがどれだけ恐ろしい思いをしたのか──。
わたしには、想像に難くはない。
「気づいた時には、すでにわたくしは全てを失っていました。叫び声をあげる間もなく、隣にいた父は魔獣に喉を裂かれて──。……そしてその牙は当然、わたくしにも向けられたのです」
彼女は、はぁ、と息をつく。
「──死を、覚悟したことを覚えています」
握り拳が、膝の上でぎゅっと固められた。
「父の無念に対する憐れみも、魔獣への憎しみも。すべて恐怖に上塗りされました。……情け無い話です。けれど、あまりにも強い死の気配に、わたしは一歩たりとも動くことができませんでした。そして、早々にすべてを諦めたそのときに──」
「──ディレット様が、助けてくださったのです」
辛そうだったレニアの瞳の色に、ひと筋の光が灯る。
それは彼女にとって、奇跡とも呼べる救いの手だっただろう。
まさにそのとき彼は、彼女にとっての英雄だったはずだ。
「魔獣を斬り払い、わたくしを救ってくださいました。同族でもない父の墓を作り、親を亡くした人間の娘を使用人として引き取ってくださいました。少なくない給料をいただき、暖かな部屋と食事を与えてくださいました」
握りしめた拳が解かれる。
その代わりに、彼女の瞳が、真っ直ぐにわたしを見つめる。
決意のこもった色。
綺麗な新緑色の瞳だ。
「わたくしがどれだけ救われる思いだったか、言葉にはとても言い表せません。
だから、この先に何があったとしても──。たとえディレット様が人間であるわたくしを疎ましく思う日が来ようとも、わたくしは決してあの方が悲しむようなことはいたしません。目の前から消えろと言われれば消えます。首をくくれと言われればくくるでしょう」
「わたくしは、生涯をかけて、あの方に恩を返していくつもりなのです。だから──」
レニアの口は、それ以上を語ることはなかった。
彼女はそっと瞳を伏せ、口を閉じる。
美しい献身の心だ。
だが、同時に寂しいとも思ってしまう。
人間である彼女は、ディレットにその秘めた想いを伝えることはしないのだろう。
彼は人間嫌いの魔族。
彼を困らせるようなことを、彼女は決して望まないのだから。
レニアはしばらく椅子に座ってわたしを見つめていた。
だが、やがてはっとしたように立ち上がる。
「す、すいません!こんなに空気を重くするつもりは!すべて昔のことですし、わたくしは今とても幸せなのです。ですから、ええと、わたくしが言いたいことは、つまり──」
「……そうだね。ディレットさんは良い人だ。ちゃんと伝わってるから」
「………はい」
ありがとうございます。
彼女はそう言って、控えめに微笑んだ。
彼女は過去に多くのものを失った。
父も、家も、己の居場所さえも。
だが、同時に大切なものも手に入れることができた。
それはきっと尊いものだ。
人にとっても、魔族にとっても。
「いやぁ、レニアさんが惚れるのもわかるよ。顔も渋くてやることもかっこいいとか反則でしょ」
「もうっ、ニナさん!」
慌てるレニアをニヤニヤと見つめる。
わたしもいつかこのくらい真摯に想える殿方を見つけられれば良いのだが──。
まあ、それは本当に当分なさそうだ。
今は他人の恋路の方が美味しく感じられる有様だしね。
「そうだ、レニアさん。今度一緒に買い物でも──、
……ん?」
──ふと、何かの気配を感じて窓の外に目を向ける。
村の入り口の、さらに向こう。
深い森が始まるあたりに、濃い白煙が立ち昇っていた。
「なんだろ、あれ……」
目を凝らしてみるも、さすがに遠すぎてよくわからない。
だが、レニアは違ったようだ。
わたしの後ろからその白煙を覗き見て、口の中で小さく声を上げた。
「あれは、村の見張り塔の狼煙……!」
「見張り……?のろし?なんのために……」
人間との戦争は終わったはずだ。
ならば、いまだに見張り塔とやらを機能させている理由は、それ以外の危険がこの村に残っているからだ。
のろしを上げなければいけないほどに、急を要するような危険なことなんて、竜巻や火事などの自然災害か、もしくは──。
そこまで考え、すぐに思い至った。
先程の彼女の話からも、思い当たる節は一つしかない。
レニアは窓の外からわたしたちへと視線を戻す。
そして、少しの躊躇いを見せた後──。
その一言を告げる。
「………魔獣です」
再び煙の先を見つめるレニアの瞳には、いい知れぬ不安の色が漂っているのだった。




