未知の大陸
頭上に広がるのは、果てしなく続く青い空。
目の前に広がるのは、どこまでも続く水平線。
大海原の真ん中をつっきり──、わたしたちの乗る船は今、大陸間に挟まる海域を進んでいる。
船長の話によれば、風は追い風。
はやければ数日で到着の見込みらしい。
それにしても、魔大陸に向かう船が見つかったのは運がよかった。
二国間の戦争が終結したとはいえ──。
いまだに両国を行き来するのは、商売に命をかける商船くらいだ。
もちろん自ら進んで魔大陸に渡る人間などほとんどいない。
観光目的での交流が始まるのは、もう少し平和の世が続き、両国両種族のわだかまりが溶けてからだろう。
つまり一般的には、わたしたちのように女三人で魔大陸に向かうなど正気の沙汰ではないのである。
船に乗せて欲しいと船主に頼みに行ったときも、最初は冷やかしと思われて取り合ってすらもらえなかった。
だがまあ、そんな問題も今のわたしには些細なことだ。
なんせ、余剰資金はたんまりある。
船長には多分な金貨を握らせることで、魔大陸まで喜んで運んでもらうこととなった。
悲しいことに、やっぱり世の中カネである。
ありがとう、お母さま。次に会うまでは感謝させてもらいます。
滑るように波間を進む帆船。
時折り跳ね返る飛沫と顔を撫でる汐風が心地よい。
「ねぇ、リーシャ。この船が向こうに着いたらさ──」
甲板から水平線を眺めていたわたしは、相棒の猫耳少女へと振り返る。
甲板の柵にもたれかかっているリーシャ。
わたしの声に反応したのか、ぴくりとその猫耳が動き、しっぽが跳ねた。
だが、彼女の返事は返ってこない。
その代わりに、一拍おいて──、
「──うぉえ゛ぇえぇっ……」
女の子が発してはいけない音が聞こえてきた。
……まあ、さっきからずっとなんだけど。
「あー……。リーシャ、大丈夫?」
獣人の敏感な三半規管には酷だったのだろうか。
もう船に乗ってから数日過ぎたが、リーシャはずっとあの調子だ。
甲板の柵から身を乗り出し、すっかりゲロを吐く機械と化している。
口からキラキラしたやつを垂れ流しながら、リーシャはげっそりとした顔でこちらを見た。
「あの、お願いがあります、ニナさん……」
「なに?なんでも言って!」
背中でもさすればいいのかな?
そのくらいのことならお安いご用だ。
黒猫少女は文字通り真っ青な顔で、ふふっ、と小さく微笑する。
「ちょっと気絶したいので、わたしの首を絞め落としてくれませんか……」
「切実すぎるっ……!嫌だよ怖いし!」
リーシャは、「そうですか……」と残念そうな顔で、また海へと体液を返し始めた。
酔い止めの魔術とかあればいいのに、と何度思ったことか。
しかし、持ち合わせは回復魔術のスクロールだけ。
メレル曰く、それでは体力を回復できるだけで、根本的な船酔いの治療にはならないらしい。
「そういえば、メレルは平気なの?船酔いとか」
隣で海の波を眺めていたメレルに問いかける。
森を出たことのなかった彼女の目には、大海の光景は本当に新鮮に映るのだろう。
波の下の魚影に目を輝かせながら、メレルは「うん」とあっさり頷く。
「酔い止めの魔術をかけてるから」
「………え?………いや、あるの!?酔い止め魔術!?」
「なかった。だから船に乗ってから作った」
こやつ……、やはり天才か……!
「ていうか、それをリーシャにも使ってあげなよ!」
「いいけど、酔ってからじゃ効果は薄い。それに、もう必要もないかも」
「え……?」
リーシャが指差す先。
水平線の向こうに広がる広大な陸地の影に、思わず息を呑んだ。
渦巻く雲と、巨大な山脈。
海外から少し奥には見たこともない光景が続いている。
心なしか空気の色すら違って見えるようだ。
故郷の国とはまったく違う世界に来たのだと、まざまざと思い知らされる。
視線の先に現れた魔大陸の雄大なる姿に、わたしはしばし目を奪われたのだった。
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しばらくののち、船はゆっくりと漁港へと入った。
タステルの街と比べると小さな港だ。
木製の桟橋の先には、木と石壁作りの家々が見える。
村の規模もタステルとは比べるべくもなく小さいが、海岸沿いの岸壁に沿った町並みは自然の要塞ともいえる様相で、これはこれで赴きがあってワクワクする。
まさに異国に来たという感じだ。
玄関口にあたるこの村には、向こうとは違った活気と魅力が満ちているのが感じられる。
船はそのままゆっくりと桟橋に沿うように停止し、錨を下ろす。
甲板から身を乗り出してその様子を観察していると、船長が筋骨隆々の腕を回しながら近寄ってきた。
「ほら、着いたぜ。さっさと降りな。帰りの便はないけどな」
ザ・海の男、といった感じの風貌だ。
さっぱりした性格なのも気持ちがよく、航海中にはよく話し相手になってもらった。
「ありがと、船長。いろいろ世話になったね」
「なに、受け取った金額分の仕事をしただけだ」
そういって、色黒の船長は豪快に笑った。
いくら金を積まれたとはいえ、魔大陸への航海は難所も多い。
引き受けてくれただけでも、彼には感謝しかない。
「……なぁ、あんたら。本当に三人で魔大陸の首都に向かうつもりなのか?おれが口を挟むようなことじゃねえかもしれねぇが、少し無謀に思えるぜ」
彼は腕組みし、笑顔の端をしかめる。
「魔大陸にはいまだに魔獣や魔物も多い。おれらの国とはまったく違う危険な山や森もある。それに、魔族の中にはいまだに人間に対して良い印象もってないやつも多いと聞くからな」
彼はそう言って、今度は難しい顔で腕を組んだ。
船長の言いたいこともよくわかる。
命を捨てるつもりなどさらさらない。
もちろん、これが危険な旅だということも重々承知しているつもりだ。
けれど、一度決めたことは曲げたくない。
ここで折れてしまったらアイリスに負けたようで情けなくなる。
それに──。
少しだけ、理由も増えた。
今は、彼女のことを──、わたしの母さんのことを、もっと知りたいとも思うのだ。
「うん……。でも行かなきゃ。そのためにここまで来たんだから」
「……そうか。ま、余計な世話だったな」
船長はそう言って、ひょい、とこちらに何かを投げた。
それを慌てて両手でキャッチする。
その後、彼はすかした笑いを見せ、言った。
「代金の釣り代わりだ。とっときな」
「これって……」
「ああ。魔大陸の地図だ」
結び紐をとき、うけとった巻物を開く。
精巧に描かれた地形と、道路。
そこかしこに細かく追記された注意書きのコメントは、おそらく前の持ち主のものだろう。
わたしがタステルで購入したものより、ずっと緻密で正確だ。
これ、けっこうお高いものなんじゃないだろうか……。
「いいの?これかなり値が張るんじゃ……」
「なに、知り合いの冒険者から譲り受けたもんだからな。かまわねーよ。それに、おれが運んだガキどもが、道に迷って野垂れ死んだら寝覚めが悪い」
彼はそういって、再び豪快に笑い声を上げた。
本当にありがたい。
今まで孤児院に引きこもっていたことが悔やまれる。
世の中には怖い人もいるけれど、こんなにいい人だっている。
良い出会いというのは、それだけで価値のあるものなのだ。
「ありがと。船長、いい男だね。惚れちゃうかも」
「ガキに言われたって嬉しくねーよ。十年たったら出直してきな」
そう言って彼は背を向けると、船室の奥へと戻っていった。
また次に会える時がきたら、今度はたっぷり報酬を弾んであげよう。
彼の背中を見送りながら、わたしは深く頭を下げた。
「さてと……」
船長の姿が見えなくなったあと。
わたしはくるりと踵を返し、今度は相棒二人に顔を向ける。
メレルは準備万端。
リーシャはしなびたゾンビみたいな顔色だが、まあ陸に上がれば元の調子を取り戻すだろう。
「よし、二人とも!記念すべき初上陸だよ!みんなで船から桟橋に飛びこもう!」
「ま、待ってくださいニナさん、わたし今ジャンプとかしたら……」
なんだかいつにも増して、わくわくが止まらない。
おりゃっ、と二人の手を引っ張り飛び上がる。
ふわりと宙に浮かぶ感覚。
体を吹き抜けていく潮風を感じながら、見事に着地を果たす。
これが記念すべき最初の一歩だ。
未知なる大陸に、わたしは今、足跡を刻んだのだ!
──と思ったら、着地と同時に嘔吐を開始するリーシャであった。
なんかごめん。
とりあえずしばらく港で休むとするか。
どこかで船酔いに効く薬とか売ってればいいんだけど……。
「あー、そこの旅人さん」
「え?」
知り合いなどいない未知の国。
そんな折に突然呼び止められ、わたしは驚いてそちらを見る。
桟橋の先。
村内へと続く、砂利の敷かれた道路の始まりあたりで──。
何やら怪しげな笠をかぶった女性が、ひらひらとこちらに手を振っている。
商人だろうか。
笠の下から覗く額の一本角が、彼女が魔族であることを伺わせる。
こちらが気づいたと見るや、彼女から発せられた威勢の良い声があたりに響き渡った。
「何か買ってかん?安くしとくよぉ!もちろん、船酔いの薬もある」
傘の影に隠れたその表情。
善意と商魂を前面にだしたその顔は、ニヤリとした笑みを浮かべていた。




