黒猫と銀色、ときどき小走りの少女
──タステルブリッジの宿で、数日の滞在を終えた朝。
一週間と少しくらいの宿泊期間だったが、空気の匂いはすっかり夏の匂いをかもし出している。
吹き抜けるような青空の下。
初夏の気配を帯びた光が、石畳の地面にくっきりと影を落とす。
潮風の匂い。
高く白く伸びる雲。
気持ちの良い風に巻かれながら、わたしは玄関前で大きく伸びをした。
「さてと。二人とも、忘れ物はない?」
「はい。準備万端です。昨日買い出しに行った荷物も、ちゃんとリュックにいれておきました」
メイド服の黒猫少女は、気力も充分といった様子で頷いた。
彼女の服装は、相変わらずのフリフリ長袖メイド服だ。
日差しも強くなってきたし、そろそろ暑くはないんだろうか。
魔大陸に渡る前に、薄手のやつを買ってあげても良かったかもしれない。
顎に指を当てつつ、じっとリーシャの薄い胸元をみつめる。
「……なんです?」
「いや、ミニスカ猫耳メイドもありだなって」
「は?」
「ううん、こっちの話」
頭に疑問符を浮かべるリーシャを横目に、今度は銀髪少女の方へと向き直る。
「メレルは大丈夫?忘れ物しても戻れないよ?」
「わたしは平気。あえていうなら──、リーシャの忘れ物がわたし」
しれっとそんなことを述べて、リーシャの巨大リュックの上によじ登ろうとするメレル。
それをべしっとはたき落とす黒猫少女。
どうやら今後も人力車代わりにされるのは不満らしい。
うんうん。
二人ともこの数日で随分距離が縮まったな。
まあ、相変わらず仲が良くなったとは言い難いけど。
わたしは猫耳少女と銀髪少女のじゃれ合いを横目に、宿屋の玄関前に立っている女主人に向き直る。
軽く会釈をすると、カトレアもにこりと笑顔を返してくれた。
「それじゃ、カトレアさん。短い間だったけど、お世話になりました!」
「はい。みなさんもお気をつけて」
ゆるく敬礼ポーズをかますと、カトレアはくすくすと笑って同じくポーズをとってくれた。
出会った時に比べて、彼女もずいぶん明るく前向きになったと思う。
これもある意味、アイリスのおかげといえるかもしれない。
突拍子もない言動にへきえきさせられることも多い我が母であるが、カトレアが前を向くきっかけを作ってくれたことには感謝してやってもいいかもしれない。
カトレアはわたしを見つめる。
彼女の前髪がふわりと潮風に揺れた。
「みなさん、いろいろとありがとうございました。ニナさんたちに会えたことは、この先ずっと忘れません」
「こちらこそ。わたしも忘れないよ。これからもお母さん目指して頑張ってね。応援してるから」
「はい。わたしも、みなさんの旅の成功をお祈りしています」
カトレアはそう言って微笑んだ。
その笑顔の隅に、少しだけ寂しさが混ざっているように見えて、なんだかわたしも別れが惜しくなってしまう。
だが、旅に出会いと別れは付きものだ。
大事なものは常に傍にあるとは限らない。
遠くに離れていても、それはずっと変わらない。
そのはずだ。
今頃孤児院のみんなはどうしているだろう。
そろそろ手紙の一つでも送っておこうか。
返信を受け取ることはできないけれど──、一方通行な思いやりも、それはそれで嬉しいものだ。
少なくとも、わたしはそうだったわけで。
若干のホームシックな気分を振り払い、わたしはカトレアに笑顔を返す。
「それじゃあ、またいつか」
「はい。再びみなさんがこの街に立ち寄ることがあれば、是非またご利用ください」
そう言って、深々と頭を下げる彼女。
その姿には、かつて彼女から感じた自信の無さはもう見えない。
きっと、もう大丈夫だろう。
この先、この宿はタステルで一番の宿になるはずだ。
わたしたちは彼女に最後まで手を振りながら、タステルブリッジの宿をあとにした。
青空を見あげながら、ぼんやりと前を行く二人のあとを追いかける。
──再び、か……。
また、みんな揃ってここへ来ることができるのだろうか。
全ての旅を終え、目的を達成したそのあとに──。
今のわたしたちの関係は、その先の未来でどうなっているのだろう。
再び共に、この道を歩むことができているのだろうか。
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港に向かって、三人で海沿いの道を歩く。
左手に広がる白い砂浜。
その先には、果てしない青い海が広がっている。
この数日、何度かみんなで海へ遊びに行った。
相変わらずリーシャは水着になるのに抵抗を示していたが、波間に引き摺り込んで水をぶっかけてやったあたりからどうでもよくなったらしい。
最後は楽しそうにメレルと水のかけあいっこをして遊んでいた。
メレルの水魔術による、獅子をかたどった巨大な波の一撃。
それを、リーシャの力任せな海水の大砲が打ち破ったときは、観戦していたわたしも思わずテンションをあげてしまったものだ。
ビーチが空いていて幸いだった。
下手すると死傷者が出たっておかしくない勢いだったし。
もちろんそのあと、二人にはこってりとお説教をしておいたけれど。
さて、そんな回想をしながら、砂浜沿いの道路を歩く。
──再び、みなさんがこの街に立ち寄ることがあれば。
そう、カトレアは言った。
この先の旅路に不安はない。
むしろ、この二人とならどんな困難も乗り越えていけると確信している。
だが。それでも。それだからこそ──。
彼女の言葉が、さっきから頭を離れない。
その言葉が胸中に思い浮かぶたびに、なんだか胸の奥が締め付けられるように思えるのだ。
わたしの目的は、母であるアイリスの遺産を受け取ること。
リーシャは、わたしを手伝い、魔大陸に帰ること。
メレルは、師匠のたどった痕跡を追いかけること。
三人の目的は細かくは違えど、大まかなゴールは同じだ。
旅の終点は、魔大陸のヘイムドール。
おそらくそれは、みんな変わらないはずだ。
ならば、そこにたどり着き、皆が全ての目的を達したあとには──。
わたしたちの関係は、いったいどうなっているのだろうか。
もしかすると、ゴールの先には共に進む道はなく──、わたしたちが旅を終えたら、それきりの関係になってしまうかもしれない。
旅を終えた先で、みんなはそれぞれの道を見つける。
そして、わたしはまた一人になる。
そんなことを考えると、どうしようもなく怖くて……、寂しくなってしまうのだ。
「──ねぇ、リーシャ、メレル。最後にまた、少しだけ海で遊んで行かない?」
「ええ?ニナさん、まだ泳ぎたりないんですか??」
前を行くリーシャが呆れ声をあげる。
わたしはそのそっけない反応に、少し口を尖らせた。
「いや、そんなことはないんだけど……。ほら、どうせなら、みんなで最後に思い出作りをしたいというか……」
「はぁ、思い出作りですか……」
前を行くリーシャの背中に言葉を投げると、彼女は気の抜けたような返事を返す。
旅の終わりまでに少しでも長く──、少しでもたくさんの、みんなとの思い出を作りたい。
そう考えてしまうのは、わたしが欲張りな人間だからなのだろうか……。
リーシャは、そんなふうに考えたことはないのだろうか。
わたしだけがそう感じているのなら、少しだけ、……寂しい。
しばらく、空白の時間が流れる。
砂浜に寄せては引く波の音が、わたしたちの時間を埋めるように響いていく。
リーシャは突然くるりと体をまわし、悶々とするわたしの方へと向き直った。
海の青を反射するその瞳が、不思議そうな色でこちらを見つめる。
そして、彼女は何の問題もないといったふうに、わたしに向かって口を開いた。
それは、わたしの悩みなど簡単に吹き飛ばしてしまうかのごとく──。
単純で、あっけない言葉だった。
「──そんなことしなくても、旅が終わったらまた来ればいいじゃないですか。三人で」
そう、当然のように告げた。
あまりにもあっけらかんとした彼女の言葉に、わたしは思わず面食らう。
「また……、三人で……」
息を詰まらせるわたしに小首を傾げ、リーシャはメレルへと話を振る。
「メレルも、また一緒来たいですよね、海」
「リーシャがリュックに乗せてってくれるなら」
「いい加減、わたしを運転手扱いするのやめてくれませんかね……」
「報酬はイチゴパフェでいい?」
「……ふん、まったく仕方ないですね!今回だけですよ!」
リーシャはちょろいし、メレルは相変わらずだなぁ。
二人のやりとりに、思わず頬が緩む。
そうだ、何も難しく考える必要なんてなかった。
目の前を歩く二人に追いつくために、両の脚を早める。
三人分の軽やかな足音が、波音に合わせて石畳を叩いた。
──そう。
一言で言えてしまうくらい、簡単なことなのだ。
また、三人で一緒にここに来よう。
来年でも再来年でも、十年後だって構わない。
離れてもまた会えばいい。そして再び歩き出せばいい。
なぜなら、わたしたちはもう、──友達なのだから。
「ねぇ、またみんなで来ようね!」
「だからそう言ってるじゃないですか。ニナさんは相変わらず変な人ですね」
旅路は続く。
次はあの大海原を渡った先の魔大陸だ。
まだ見ぬ未知の世界は少しだけ恐ろしく、そしてそれ以上に楽しみだ。
突き抜けるような青空の下。
わたしは前を行く二人を追いかけながら、次なる一歩を踏み出すのだった。