母とわたし
翌朝。
太陽が東の空に顔をのぞかせてしばらくたった頃。
わたしは宿の二階の廊下の隅で、アイリスからの手紙に目を通していた。
早朝、カトレアが母の部屋を再度見回ったところ、たまたま見つけてくれたらしい。
かなりの額が入った金貨の麻袋。
そして、中にはこの手紙も収められていた。
先刻の本のように隠されているということもなく、正面の棚の上に無造作に置かれていたということだった。
灯台下暗しというやつだろうか。
まあ、アイリスのテキトーな雰囲気から察するに──、真相はおそらく、彼女が単に金を隠し忘れていただけだろう。
あの人、ちゃっかりしてそうな割に、抜けてるところありそうだし。
「それにしても、この手紙……」
紙の表面をそっと指でなぞる。
そして、再び滑るように内容に目を通した。
思わず耳先が赤くなるのを感じ、少しだけ視線を逸らす。
うん。これはちょっと……、他の人には見せられないな……。
「しばらくリーシャたちにはバレないように……」
「おはようございます、ニナさん」
「──おわぁっ!?……お、おはよ、リーシャ!本日はお日柄もよく、気持ちのいい朝だねぇ!」
「………?はぁ……」
気の抜けたような返事を返す黒猫少女。
慌てて後ろ手に手紙を隠す。
ばれたか……?
リーシャの表情からは軽い疑念の色が見える。
だが、怪しんでいるというほどの素振りはない。
まだギリギリセーフ……のはずだ。
わたしの様子に訝しげな顔をした黒猫少女は、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、さっき掃除に来たカトレアさんと出くわしまして。昨晩のこと、いろいろとお聞きしました。わたしすっかり寝入っちゃっててすみません。起こしてもらっても良かったんですけど……」
「あ、ああ。それね。リーシャもメレルも疲れてそうだったからね」
くるくると人差し指を回しながら返答する。
まあ、意外ととんとん拍子でことが運んでしまった結果でもある。
二人にはけっこうな徒労をさせてしまったし、今度あらためて感謝の意を示すとしよう。
リーシャは「それで──」と小首を傾げ、わたしを見た。
「結局、遺産のお金と、次の街への手がかりは見つかったんですか?」
「あー、ええと……。まあ、見つかったといえば見つかった、みたいな……」
「なんか妙に歯切れ悪いですね?」
「そ、そそ、そんなことないけど!?」
どきりと跳ねる心臓。
背後の手紙を握りしめる両手に力が入る。
「お、お金はね、カトレア母の部屋の棚の上に適当に置いてあったんだって!あのバカ英雄、絶対宝探しゲームの準備で満足して、お金のこと忘れてたよね!いやー、見つかってよかったよかった!ほんとね!」
「いやまあ……、見つかったなら、よかったですけど……」
「まったく、まわりに迷惑ばっかりかけてさ。なんなんだアイツって感じだよ!ほんと調子いいよね!わたしあいつ嫌いっ!」
「いやそこまで言わなくても………。ていうか、ニナさん、やっぱり今日は何かおかしいような……」
なんだかリーシャの視線が痛い。
普段のジト目が、さらに訝しげな色を帯びてきている。
黒猫少女は、しばらくわたしの顔をじっと見つめる。
そして、こちらの心まで覗き込むような視線で、わたしを抉るように見上げてきた。
ごくりと唾を飲むわたしを見て、彼女は口を開く。
「ニナさん……、なにか隠してませんか?」
リーシャはじろりとこちらをひと睨み。
その迫力に、思わず、ひぃっ、と口の中で悲鳴をあげてしまう。
「……い、いやべつに……?いつもどおり元気いっぱいのニナさんですよ?」
「もうちょっと隠し事が上手ければ、騙されてやってもいいんですけど。ニナさんて嘘つくの下手すぎるんですよね」
リーシャは、ふぅ、と息をつき、こちらをじっと見つめた。
くっ……、ここで目を逸らしたら負けだ。
負けなんだけど……。
一拍の間を置いたのち、彼女の口が大きく空気を吸い込む。
そして黒猫少女は、かっ、と目を見開き──、
「もうっ!いいからちょっとその手紙見せてくださいよ!後ろに隠してるやつです!」
「ええっ?!ダメ!絶対ダメぇ!これは封印!封印するの!」
「世界でも滅ぼすんですかそれ!いいから観念して──」
「……手紙って、これ?」
「あっ……!」
背後から唐突に現れた寝起きの銀髪少女に、手紙をさっと抜き取られた。
ぴっ、と勢いよくわたしの指から引き抜かれた手紙が、メレルの手の中に当然のように収まる。
すっかり寂しくなった両手の感触──。
あれ?この状況、まずくない……?
「メレル、ニナさんはわたしが抑えます!それ、音読してください!」
「わかった」
「えええっ!?き、鬼畜!?放せー!放してぇ!」
リーシャに背後からがっちりホールドされて動けない。
まるで鋼鉄の拘束具である。
小柄なくせになんて怪力だ。
早朝の宿に恥ずかしげのない叫び声が響く。
わたしはひとしきり声を上げた後、がくりと肩を落とすのだった。
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ごほん、とメレルは咳払いを一つ。
まずは一枚目。
メレルは手紙を広げ、書かれている文章にざっと目を通した。
そして、いつもの気だるげなボソボソ声とは裏腹に、気持ちの良いすっきりとした声で、すらすらとそれを読み上げ始める。
彼女にまるで似つかわしくない、声量の良い可憐な声が二階の廊下に響き渡った。
『やっほー!宝探しは楽しんでくれたかな?アイリスお母さんだよー』
「テンション高いメレル、なんか違和感すごいですね……」
そう言いながらも、ふふ、と面白そうに声を漏らす黒猫少女。
対してわたしは、彼女のはがいじめから抜け出せない。
唸り声しかあげられない自分がじつに惨めである。
『次はいよいよ魔大陸、西端の魚村ドルテルだ。
入国できそうなのはそこだけみたいだったからね。
まずは村長さんに会ってみるつもり。
それじゃあ、要件終わり!次の街でまた会おう!』
メレルの声による読み上げが止まる。
本当に要件のみの短いことづてだ。
彼女にしては、ずいぶんこざっぱりとした内容である。
ふむ、とリーシャは、わたしを拘束したまま首を傾げた。
「なんか普通でしたね。メレルは面白かったですけど。それに、わざわざニナさんが隠すような内容ではなかった気はしますが……」
「──待って。まだあと二枚ある」
「え?」
「たぶん、アイリスが後から付け足して書いたものだと思う」
銀髪少女はそう言って、次の手紙へと視線を向けた。
リーシャが小首を傾げる中、今度もさらりと文章に目を通したあと──、しばらく固まり、わたしを見た。
そして再び視線を戻し、ゆっくりとその内容を口にする。
『追伸。
もしあなたがわたしのことを嫌ってるなら、ここで手紙を破り捨ててほしい。
そして、あなたにはそのまま何も見なかったことにして、ドルテルに向かって欲しい。』
メレルの言葉が、母の言伝を紡いでいく。
まだ明かりの足りない薄暗い廊下に、彼女の息の音だけが響く。
『──けど、少しでもわたしのことを気にかけてくれてるのなら。
一方通行で悪いけど、今から言うことを、どうか聞いて欲しい』
彼女に似合わない真摯な文章に、リーシャが息を呑む音が聞こえる。
巨大ケーキに下敷きにされた身としては信じられないのだろう。
メレルが、そっと手紙の最後のページを手に取る。
そして、その文章に目を走らせたあと。
無表情な唇の端にわずかな優しい微笑みを乗せ──、ほのかに頬を染めていたわたしの瞳を見つめる。
そして彼女は、母からの言葉を丁寧に口にした。
『ニナ。あなたを心から愛してる。
あなたのためなら、わたしは何だってやれる。
きっと、世界だって救えちゃうんだから。』
静寂が訪れた廊下。
一階の窓から差し込んできた光が反射し、周囲がふわりと明るくなった。
リーシャが、わたしを背後からじっと見つめているのがわかった。
耳まで真っ赤になっているのを自覚する。
わたしは唇の端を噛み、二人から視線を外す。
ああ、心臓の音が煩い。
本当に、どうしてこんなに血液が熱くなるのだろう。
「……あーもう、だから嫌だったんだ……!ほんと、恥ずかしいことをつらつらと……」
ずっと、アイリスの真意が気になっていた。
彼女は、わたしを捨てた。
覚えてはいないが、おそらく共に過ごした時間は一年程度だろう。
底抜けに明るく、多分に子供っぽくもあるわたしの本当の母親。
悪い人ではない。だからこそ、何か理由があったはずだ。
そう、心ではわかっていても──。
わたしの心のどこかに、ずっと引っかかる棘のようなものがあったのは事実だ。
いくら理由があっとはいえ、子を捨てた事実は曲がらない。
そう簡単に全てを納得できるわけでもない。
本当は、ずっと──、ずっと気になっていたのだ。
わたしは果たして、望まれて生まれてきたのだろうか?
いらない子どもだったから、捨てられたのではないのか?
母の名さえ知らなかったこの十数年は、そんなこと、考えたことすらなかったのに──。
遺産の話を受け、母の存在を知った。
彼女の顔を知り、その性格を知った。
彼女の人生の片鱗を垣間見た。
そして今──、
彼女の本心に、少しだけ触れることができた。
本当に、……あの人には振り回されてばかりだ。
「──破り捨てなかったんですね、手紙」
「う………」
背中から、リーシャの優しげな声が響く。
「さっき、お母さんのこと嫌いだっていってませんでした?」
「うぐっ………、か、からかわないでよ」
頬まで赤くなっていくのがわかる。
今は、二人と顔を合わせることなんてできそうもない。
そんなわたしの気持ちを察したのか。
リーシャの手のひらが、そっとわたしの髪に触れる。
柔らかくて、小さい手のひらだ。
暖かくて、じつはわたしよりもお姉さんで──、わたしの相棒で、初めての友達。
「照れないでもいいじゃないですか。いいお母さんですよ。羨ましいです」
「……リーシャの頭にケーキ落としてくる人だけどね」
「照れ隠しですよ。ちゃんとニナさんのお母さんって気がします」
「うー……、なにそれ……」
頭をかかえてしゃがみこんだわたしの頭を、リーシャはいつまでも撫でてくれたのだった。
階下から、空腹を誘う朝食の香りが漂ってくる。
今日はいつもよりもずっと、その香りが美味しそうに思えた。
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「あら?何書いてるの?アイリス」
「る、ルチア!?……い、いや、べつに何も……」
赤毛の女が、後ろ手に何かを隠したのを見て、わたしはにやりと笑みを浮かべた。
「あなたの嘘、ほんとわかりやすいのよねぇ」
そういって、ひょいと杖を振る。
「ぎゃあ!?返してぇ!」
彼女のあたふたと伸ばす手をかいくぐり──。
手紙はふらふらと魔力に沿って宙を舞い、わたしの手のひらに収まった。
その手紙にざっと目を通す。
ああ、なるほどね。そういうこと。
「ねぇ。もしかして、マリアに感化されちゃった?」
「う、うるさいなっ。なんか悪い!?」
拗ねるように顔を背ける彼女。
それを見て、なんだかわたしの心までほんわかする。
「ううん。とても良いわ。可愛いなって思った」
「──っ……!?」
耳までまっかに染める彼女の手を引いて、階下の食堂へと向かう。
うん。今日も良い一日になりそうだ。
わたしは空腹を誘う良い匂いに釣られながら、そんなことを思うのだった。