9 三幕構成の規模を再構成する理由
当ブログには「コラム」や「エール」なども掲載していますが、こちらのサイトにおいては、今日は一旦ここまでという形でこれらの記事の投稿を止めます。
また、当ブログは「9記事目」で更新がストップしている状態です。
※ 補足
「ストーリーの作り方」という記事の第1弾目を本格特集という形で掲載しています。
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今回の記事を解説する下積みとして、前回とその前の記事に連続して書いた、既存の三幕構成とこのブログで定義している「クライシス」の内訳としての三幕構成の各々の違いについて、くどいようだがもう一度解説しておこうと思う。その上で「出来事の羅列」としての三幕構成が、なぜ既存の三幕構成にとって代わる必要となりうるのか、前回の問いで言えば「なぜ、ストーリー全体で一番規模の大きい要素を三幕構成に位置づけることが、捉え直す理由になるのか」という問いにして、詳しく解説していく。
既存の三幕構成は主に主人公の視点に立った形で構築されており、故にストーリーの変化を意味する「出来事の羅列」の全体像を全てはらんだ構成になってはいない、という話をした。
その所以となる根拠を話すために、まず既存の三幕構成が主人公の視点に立った構成論であることを解説していこう。
ご存じの方もおられると思うが、巷の三幕構成は以下の三つで構成されている。
①日常
②対立(葛藤)
③解決
これらがなぜ主人公の立ち位置から見た構成論になっているのか?
一言で換言するならば、これらのワード全てが内部環境で構築された最小単位の規模で表現されているからである。
つまり、主人公以外の外の世界にある全ての事象が含まれていないがゆえに「いつどのような形で各々の事象が席巻されるのか」、その成立条件を完全に説明できない、ということである。その観点からしてこの構成論は主人公のみの視点に立ったものである、と言えるのである。
主人公は自ら「システム」を構築したり、「クライシス」を引き起こしたり、「ソリューション」を提示あるいは発見したりなどといった、一人でその世界にある全ての事象を自発的に起こして完結する存在ではないはずである。誰かしら、主人公以外の登場人物が最善のタイミングで現れてその全うすべき役割が果たされてこそ、「ストーリー」という大きな流れの連なりが成立する。ということは、主人公以外にも何らかの構成要素が必要になる、ということであり、相互に出来事を起こす作用を作る外部要因が不可欠である、ということになる。それを他の登場人物を導入することで成立させることも不可能ではない。だが、他の登場人物たちを導入した場合、「どの時点でどんな人物によってどんな出来事が起こされるのか?」という「タイミング」が生じる。つまり、各々の登場人物の登場に相応しい時点が存在する、ということである。いきなり語り部が出てきて事が始まる前からその真相を判明させる、などという本末転倒な状況はまず起こらない。それぞれに必要なタイミングでそれが果たすべき役割を持って登場するはずである。よって、「タイミング」を説明するには「登場するべき最善の時点」を成立させる何らかの事象も、必要になってくることになる。タイミングというものが出てくるということは、何らかのヒトやモノやコトが登場するために必要な条件を揃える、ということであり、必然的な時点で登場して初めてそれらの事象が存在する意味を成すことになる。その理由からして事象が存在するための「タイミング」は必要な要素となる。
では、「タイミング」とはもっと深く追求すると具体的に何を意味するのだろうか?
先ほど、「タイミング」には何かしらの事象が登場するために必要な最善の時点のことと説明したが、別の表現を使うとするなら、「タイミング」とはそれまで存在していた何らかの事象の流れや状態や状況が、節目を迎えて変貌を遂げることでもある。その節目には全体的に見て一貫した意味を持つ何らかの軸を通していながら、かつそれぞれの節目が段階を追うごとに互いに繋がりを持った連動性を持つ性質をはらんでいる、という構造を、ストーリー上に存在させる。これを最も簡略化したものがこの「三幕構成」という構成論なのである。ということは、「三幕構成」が本質的に意味するものとは、事象が段階ごとに変貌を遂げる節目、つまり、「事象が変わるタイミングの連続性」だと言えることになる。
ここまでで、何度か「事象」という言葉を使っているが、この「事象」とは先ほどちらっと説明した、何らかの「ヒト」や「モノ」や「コト」を意味している。
事象が段階ごとに節目を迎えて変わっていくタイミングの連続性だとするなら、ここで述べている「タイミング」とは「事象の移り変わり」とも表現できることになる。「事象の移り変わり」がタイミングと呼ばれているものであるとするならば、このタイミングが意味する事象、つまり、「ヒト」「モノ」「コト」の三つのうち、一体どれが最も的確な事象に該当するものになるのだろうか?
先ほど、そのうちの一つ、「ヒト」を登場人物として挙げてみたが、登場人物は前回にも少し話した通り、「動かされるもの」であるがゆえに何らかの外部要因を必要とする事象であり、それがなければストーリー上で出来事を引き起こすことができない存在である。よって、この論点にあたる「事象」の最善のものには該当しない。
では、次に「モノ」はどうなのか?
実は、「モノ」も「ヒト」と同じく固有物に該当し、それ単独では自発的に「動く」ことはできない事象である。設定によっては出来事である「コト」を引き起こす要因として自発的に「動く」ことも可能ではあるが、全てのストーリーの中に「コト」を動かす要因としての「モノ」を設定する必要はないはずだ。したがって、この「モノ」も事象に最も適切な表現と称するには事足りなくなる。
ということは、最後に残った「コト」はどういうものなのか?
「コト」は「ヒト」や「モノ」とは違って目には見えない反面、それらを「動かす」ことができる「物理法則」として機能することがある。「コト」、つまり「出来事」が発生する所以は、「ヒト」であったり、「モノ」であったり、何らかの物理的な媒体がその時々における特定の「動き」をすることで別の「ヒト」や「モノ」を「動かす」ための「蓋然性」が生じてくる。
「コト」には、そういった物的なものが蓋然的に引き起こすパターンもあれば、何の前触れもなくまるで天のいたずらのように突発的に発生するパターンもある。どのようなパターンであれ、それら「コト」は蓋然的に起きた、何らかの「出来事」として認知される。言ってしまえば、千差万別で多様性があるのである。多様性があるということはそのレパートリーの範囲が広い、ということであり、出来事によってはストーリー上の世界観や登場人物、社会や歴史背景などといった要素を大きく変えるパターンも秘められることになる。つまり、「コト」という概念によって変えられるあらゆる事象の「規模」が多様に変わることがある、ということである。事象の「規模」が多様に含まれる、ということは必然的に主人公という「ヒト」の立ち位置から見た、ストーリー全体を把握するための範囲が「大きく見える」ということであり、主人公から見てその規模が「大きく見える」ということは当然主人公よりも「コト」の方が実際上の範囲が広い、ということである。よって、「コト」を意味する「出来事」の方が三幕構成という一連の話の流れを俯瞰して見た時に主人公よりも大きい。
以上のことからして、既存の三幕構成は主人公の立ち位置に沿った視点であり、それを「出来事の羅列」として捉え直す所以が成立するのである。
ようやくこのブログにおける「三幕構成」が定義できたところで、「ソリューション」と「役割」との関係性について新たに解説していこうと思う。




