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昭和維新



 昭和維新


 日本の国家社会主義勢力の台頭は、元号が大正から昭和に変わったときから始まった。

 大正天皇が崩御すると欧州で亡命生活を送っていた龍宮内親王が帰国を果たした。

 国家社会主義ファシズムを伴って。

 異母兄妹で性格の不一致があった大正天皇と龍宮内親王は、欧州で龍宮内親王が社会主義に傾倒して、政府批判を繰り返すようになると決定的に悪化した。

 大正天皇に対する批判も多く、健康状態を揶揄したともとれる発言もあった。

 1920年に両者の間に立って緩衝材の役割を果たしていた坂本竜馬が亡くなると両者の関係は完全に破綻することになる。

 そのため、龍宮内親王は大戦終結後も帰国することができなくなり、事実上の亡命生活を送った。

 ただし、この亡命生活は龍宮内親王にとってはプラスに作用した。

 戦後欧州の政治・経済の激変を直に感じ取り、政治思想を練磨する時間となったからだ。

 特にオーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊は、龍宮内親王に衝撃を与えた。

 プラハやウィーン、ブタペストを訪れた内親王は、民族自決の名のもとで嘗て一つの国だった地に国境が引かれ、同じ国民が民族ごとに分裂し、いがみ合うのを見た。

 オーストリア・ハンガリー二重帝国は、現在の日竜のモデルにもなった国家だった。

 それが引き裂かれ、血を流しながら解体される様を見た龍宮内親王は、自国にも同じことが起こりえると強い危機感を持つことになった。

 これに対抗するには、高度国防体制の整備しか道はないと内親王は、考えるようになった。

 オーストリア・ハンガリー二重帝国から、内親王はさらに東へ進んで解体されたオスマン・トルコ帝国を見た。

 オスマン帝国は大戦前から緩やかな崩壊の過程にあったが、大戦はそれを決定的にした。

 7世紀近く続いた大帝国の跡地には、トルコ共和国がたっていた。

 現地は緊迫した情勢が続いていたが、内親王はムスタファ・ケマルと会談している。

 会談の中で、ケマルは繰り返し明治維新や明治天皇について言及した。

 それは日土の外交関係発展のためのリップサービスという面も多分にあったが、明治維新がトルコにとって国家近代化のモデルだったことも確かである。

 明治天皇に溺愛されて育った内親王は、ケマルの言葉に感激した。

 そして、同時に帝国の廃墟から雄々しく立ち上がろとするケマルの政治手法に強く影響されることになる。

 即ち、強力な民族主義政策と独裁的権力を用いた上からの改革である。

 独裁的権力の必要性は、ドイツ訪問で確信に変わった。

 龍宮内親王は、混乱する世情に翻る赤旗を見た。

 大戦後も餓死が発生するドイツの孤児院や障がい者施設を訪問して、ドイツ革命は必然だったと龍宮内親王は考えた。

 しかし、共産党が煽る過激な労働運動には否定的だった。

 それらは社会や生産を混乱させるだけで、却ってドイツ復興の妨げになっていると考えたのである。

 実際のところ共産党は、社会の混乱から革命が起きると考えており、労働者の生活改善を謳いながらも、やっていることは暴動の扇動だった。

 また、資本家や企業のやり方も間違っていると感じていた。

 過激労働運動に対して、資本家や企業経営者は極右団体を雇ってストライキ潰しやデモ潰しを図ったが、貧困や長時間労働が消えてなくなるわけではない。

 右派は、基本的に兵隊崩れのヤクザ者で、敗戦の鬱憤を共産党員にぶつけるだけだった。

 ベルリンの街頭で、極右と共産党員の若者が殴り合いをするのを見て、龍宮内親王は絶対的な権力を持つ調停者の存在が必要だと考えるようになった。

 左派と右派、労働者と資本家の間に立って、両者の関係を取り持ち、国民を混乱と暴力から守る護民官という思想である。

 ローマに構えた私邸に戻ると内親王は、自分の考えをテキストにまとめた。

 タイトルは、


「カエサルとオクタウィアヌス」


 だった。

 窓辺から見えるローマ時代の遺跡を見ながら、龍宮内親王は、カエサルの失敗は終身独裁官になろうとしたことだと考えた。

 それに対して、オクタウィアヌスは自分の権力基盤を平民と貴族の間に立って利害関係を調整する護民官においたことが優れているとした。

 最終的にオクタウィアヌスは皇帝カエサルになったという歴史的先例に対しては、日竜には天皇がいると反論した。

 

「天皇とは、極めて日本的な政治的作品であり、代り得るものならば、孔子でも釈迦でもレーニンでもかまわない。しかし、それらは決して代り得ない。なぜならば、それは日本人の性癖だからである」


 と述べて、天皇という存在に独特の理解を示し、護民官が天皇になり替わることは日本では決して支持されないと結論した。

 天皇を性癖と表現するのは不敬なことかもしれないが、竜宮人から見た場合の理解として、性癖という言葉は絶対的な意味を持っていた。

 何しろ性癖こそ竜宮人にとっての経典だったからだ。

 内親王は明治の文明開化を上からの革命と捉え、その先頭にたった明治大帝を理想の君主として、天皇親政による国家主導の社会主義改革を説いた。

 所謂、国家社会主義の道である。

 こうした発想は、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党の政権掌握に強く影響を受けたものだった。

 戦時中にイタリアで戦争英雄に祭り上げられた内親王は、亡命生活の大半をイタリアで過ごし、ムッソリーニと親密な関係になった。

 龍宮内親王とムッソリーニはプライベートでは、俺、君と呼び合うほど親しい関係だった。

 ただし、肉体関係はなかった。

 共有の愛人を持つ穴兄弟だっただけである。

 更に余談だが、内親王はイギリス保守党の大物政治家ウィンストン・チャーチルとも親しい関係にあり、サウナ友達になっていた。

 亡命生活中、内親王が欧州に張り巡らせた人脈と情報網は広大なものだった。

 1929年にトロツキーがソ連を追放されると内親王に保護を求めてくるほどで、その伝手はソ連内部にまで広がっていた。

 ちなみにトロツキーとは、評論や論文、小説をお互いに交換する間柄だった。

 書簡往復という形で共同執筆された「共産主義者はメイド好き」という作品は、スターリンが共産主義者を生産するため、女中の竜宮人の膣内に濃厚な共産主義精神(精子)を注入するという実用本位な官能小説である。

 日竜に亡命したトロツキーからソ連の内情を知らされた内親王は衝撃を受け、強烈な反共主義者に転向することになるのだが、それは後述する。

 ムッソリーニが1922年にローマ進軍で政権を掌握し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から組閣を命じる勅令を受けファシズムと立憲君主制を両立すると、


「これこそ、我が進むべき王道」


 と、龍宮内親王は国家社会主義ファシズムの正しさを確信することになった。

「カエサルとオクタウィアヌス」は1923年に出版されると一大センセーションを巻き起こし、日竜の朝野に国家改造という言葉を一般化した。

 多感な青年将校はそれを昭和維新と言い表した。

 龍宮内親王は大衆に訴えるために、たびたび雑誌や新聞に評論や論文を投稿すると共に、日竜国内の有力者に手紙作戦を展開した。

 亡命生活中の内親王には、他に方法がなかったという事情もある。

 果たして手紙に社会や世論、国家や歴史を動かす力があるのだろうか?

 あるのである。

 例えば、あなたが当時の人物だったとして、ある日突然、海の向こうから国際郵便が届いたとしよう。

 それだけでも当時としても珍しく、驚きを隠せないだろう。

 さらに、その手紙の封印は赤い蜜蝋に十六葉八重表菊の印である。

 しかも差出人は、明治大帝の御子で先の大戦の英雄だったらどうだろうか?

 その国家の重要人物が、イタリア仕込みのたらし文句で、「あなたが私には必要だ」とか、「貴方は選ばれた者」とか、囁いてくるのである。

 筆者は博物館でその手紙の現物を見たことがあるが、筆致は流麗で闊達としており、手紙でありながら一種の芸術品の風格がある。

 リアルタイムで手紙を受け取った人物が受けた感銘は容易に想像できる。

 果たして、彼の誘いが国家転覆の誘いだったとして、断り切れるものだろうか?

 しかも、転覆する国家は、経済政策に失敗しつづけ、内輪の政争に明け暮れるろくでなしの集まりである。

 手紙を使った社会運動という点では、手紙で布教活動を行った浄土真宗の親鸞とも通じるものがある。

 亡命生活中にローマから発送された手紙は、年間2万通にも達した。

 ムッソリーニは便宜を図り、内親王に専用の郵便番号と切手、さらに郵便飛行機を貸与したほどである。  

 ちなみにイタリアで発行された龍宮内親王専用切手は、マニア垂涎の品であり、オークションでは高額で取引されている。

 未使用品の場合、1200万円で落札されたことがある。

 思想家の北一輝も手紙を受け取った一人で、龍宮内親王に捧げるとして、日本改造法案大綱を書き上げた。

 日本改造法案大綱を内親王は高く評価し、私費を与えて出版させた。

 当局は日本改造法案を禁書扱いにしようとしたが、内親王が与えた菊の御紋の前には引き下がるしかなかった。

 以後、北は国家社会主義運動の枢要なイデオローグとして活動することになる。

 手紙作戦と並行して、龍宮内親王はムッソリーニの黒シャツ隊を参考に、海援隊の親衛隊化を図った。

 龍宮内親王は、坂本竜馬からの推薦によって海援隊の特別顧問となっていたが、自分がスカウトした人材を海援隊の幹部へと押し上げ、組織を掌握した。

 最終的に海援隊の代表取締役社長にまで上り詰めたヘルマン・ゲーリングは、龍宮内親王の腹心の一人だった。

 ゲーリングと内親王を引き合わせたのは、妻のカリン・ゲーリングだった。

 カリンはスウェーデン貴族の娘で、社交界で龍宮内親王と交流があった。

 当時、ゲーリングはスウェーデンやデンマークで、金持ち相手のエアタクシー業務やアクロバット飛行で大金を稼いでいたが、どちらも長く続けられる仕事ではなかった。

 ドイツに戻ることを考えていたゲーリングだったが、ドイツ経済は最悪の状況であり、帰国後の展望がなかった。

 政権獲得のための人材探しをしていた内親王は、ゲーリングと面談し、すぐに打ち解けた関係となった。

 両者は嘗ては敵同士だったが、共に戦争英雄であり、戦士として通じるものがあった。

 内親王は、ゲーリングが持つ飛行機に関する知識や人脈を高く評価した。

 それこそ海援隊に致命的に欠けていたものだったからだ。

 日露戦争で軍用飛行機を世界に先駆けて投入した海援隊だったが、その後は鳴かず飛ばずという状況だった。

 竜宮人は何故か、飛行機は円盤型をしているという思い込みがあり、まともな飛行機を作ることができなかったからである。

 円盤翼という独特すぎる設計の機体も考案されたが、安定性が著しく悪いため、全く売れなかった。

 安定性よりも見た目がひどすぎるという意見もある。

 第一次世界大戦でも海援隊は、まともな飛行機がつくれず、英仏機のライセンス生産を甘んじることになった。

 竜宮人の技師は、


「重力制御機関さえあれば」


 と嘆いたとされるが、ないものはないのである。

 個々の技術には見るべきものはあり、エンジン技術などは1919年時点で1,000馬力級空冷星型14気筒エンジンの試作にさえ成功していた。

 ジェラルミンの押し出し材なども製造できていた。

 戦争があと1年も続いていたら、1,000馬力級エンジンを搭載した全金属製のセミモノコックフレーム機が、欧州の空に舞っていたと言われている。

 しかし、一つの機体というパッケージにまとめる段階になると、どうしても円盤型にしたい欲求に逆らえなくなるため、実現可能性は疑問がある。

 海援隊の幹部達は大戦の経験から、一つの結論に達した。


「竜宮人は飛行機音痴である」


 なぜ最初に気が付かなかったのか不明だが、失敗から学ぶことができた。

 海援隊は、自前で飛行機を作ることを諦めて、外部に人材を求めることにしたのである。

 特に航空機の製造・開発がヴェルサイユ条約で禁じられたドイツは狙い目で、人材獲得が急がれた。

 ゲーリングは、ドイツの栄あるエースパイロットの一人であり、その知名度、人脈は海援隊にとって実に魅力的だったのである。

 実際にゲーリングは嘗ての同僚や部下を海援隊に呼び込み、海援隊の航空機製造に多大な貢献を果たした。

 エルンスト・ウーデットやエアハルト・ミルヒなどが代表例である。

 また、エルンスト・ハインケル博士率いるハインケル航空機製造会社の買収にも、ゲーリングの交渉力、人脈が生かされた。

 買収後に製造されたHe111旅客機は、世界各国に輸出されてベストセラーになった。

 海援隊はドイツ以外での人材獲得も推進しており、合衆国ではジャック・ノースロップという竜宮人好みの円盤型に近い形の飛行機をつくれる人材を得ている。

 ハインケル社とノースロップ社は、海援隊の傘下の二大航空機メーカーとなり、後に合併してノースロップ・ハインケル航空機製造会社となった。

 竜宮資本以外の航空機製造も本格化し、中島飛行機や川崎航空機、川西航空機などが現れるのも1920年代の話である。

 さらに余談だが、内親王はイタリア生活が長く、ファッションには一家言があった。


「ファッショとは、ファッションである」


 という信念の元に海援隊の制服には一流デザイナーを起用し、黒を基調として、社会主義の赤に金の縁取りを取り入れた軍服風の制服を定めた。

 それまで海援隊の制服は、基本的に日竜陸海軍の中古品を使用していた。

 そのため、どこか田舎くさく野暮ったい雰囲気だったことは否めない。

 しかし、内親王時代になって一気に洗練されたものとなった。

 また、上級幹部や功績があった者には制服のカスタマイズが許可された。

 カスタマイズされた制服は非常に目立つため人気があり、士気高揚にも効果があった。

 制服、或いは視覚を多用した演出、プロパガンダ作戦には、内親王がスカウトしたヨーゼフ・ゲッベルス博士が深く関与していた。

 ゲッベルス博士はアドマンとして天才的な才覚を示し、内親王の政権掌握に多大な貢献をした。


挿絵(By みてみん)

自身もデザインに関与した親衛隊の制服を着用してご満悦の龍宮内親王。


 初期の親衛隊は、体格や容姿に優れた者を海援隊から選抜して集めて編制されたエリート部隊だった。

 入隊に必要な身長が最低180cm以上であったことから内親王巨人隊とも呼ばれた。

 英語風に発音すれば、タイタンズ、或いはティターンズといったところだろうか。

 1927年1月23日、龍宮内親王は親衛隊1,000名と共に横浜に上陸した。

 国内で初めて大規模なローマ式敬礼が行われたのもこの時である。

 内親王はこの時、親衛隊に自身を統領ドゥーチェと連呼させて、悦に浸っているところを撮影されている。

 さらに余談だが、初期の親衛隊は内親王の個人的な後宮ハーレムも兼ねており、それもあってか精鋭忠烈を誇った。

 ヨーロッパから帰還した内親王は、親衛隊と共に日本各地で凱旋式を催し、熱烈な歓迎を受けた。

 凱旋式も一種のプロパガンダ作戦として計算されたもので、ゲッベルス博士によって巧みな演出が施された。

 プロパガンダにあてられた世論の空気は、熱狂の一言に尽きた。

 慢性的な不況に痛めつけられてきた国民は、大戦景気に沸いた素晴らしい時代を思い出させてくれる龍宮内親王に熱狂し、親衛隊の頼もしい姿に興奮したのである。

 その熱狂ぶりについて国内マスコミは決して報道しなかったが、


「誰が日本のエンペラーなのか分からない」


 と海外マスコミは書きあらわした。

 多くの国民が、慢性的な経済不況の打開を政党政治に期待することを止めており、内親王が掲げる国家改造運動を支持した。

 国民の大半は、国家社会主義が何なのか理解していなかったが、明治大帝の御子にして先に大戦の英雄が海の向こうから帰還し、世直しをしてくれると考えた。

 日本人にありがちな舶来品信仰とも言えなくなかった。

 殆どの左派勢力はもろ手をあげて国家改造運動に合流した。

 政府からの弾圧を受けていた社会主義者達はついに最強の庇護者を手に入れたのである。

 右派勢力は社会主義を否定したが、明治大帝を理想の君主として上からの国家主導の改革を断行するという方法論は支持した。

 右派は国家社会主義とは新手の国家主義と理解したのである。

 経済界も政府の経済無策にうんざりしており、頻発する労働争議の調停者として強力な指導者の誕生を期待していた。

 そして、海軍は完全に支持に回り、陸軍皇道派は殆ど心酔と言っていい状態だった。

 皇道派からは陸軍をやめて親衛隊に入ろうとするものが続出して、却って陸軍内部の派閥争いで統制派が有利になるほどだった。

 国論を席巻する国家社会主義運動に対して、政党政治や自由主義を守ろうとする人々は既に数々の経済失策で説得力を失っていた。

 皮肉なことに、政党政治を守る最後の砦となったのは国家社会主義体制の中心である昭和天皇だった。

 昭和天皇は、皇太子時代に外遊したイギリスの立憲君主制を理想とし、政党政治に期待を残していた。

 ちなみに外遊時に、皇太子と龍宮内親王は一度も会うことはなかった。

 大正天皇の強い意向もさることながら、既に危険人物と見なされるようになっていた龍宮内親王との接触は、どんな反応を引き起こすか予想がつかなかったためである。

 政党政治を護持しようとする昭和天皇に龍宮内親王は苛立ちを隠さず、帝国憲法下でイギリス流の立憲君主制は実現不可能とする論文を新聞社に寄稿した。

 論文の骨子は、帝国憲法に定める天皇大権はあまりにも巨大すぎるため、天皇が親政を行って調停者として大権を正しく運用しないかぎり、帝国政府は機能不全を来すというものだった。

 明治大帝はこのことをよく理解し、政軍の利害調停にあたり、憲法を正しく運用したことで一等国の列に並ぶほど国力を伸長させたと論を結んでいる。

 逆に言えば、それを出来なかった者(大正天皇)やそれをしようとしない者(昭和天皇)が天皇であっては、帝国の未来は危ういとして暗に批判する内容であり、政治的には核爆弾に等しい代物だった。

 思想的な挑戦を受けた昭和天皇も態度を硬化させ、両者の対決は不可避の情勢となった。

 そして、昭和天皇は自らが守ろうとした政党政治家達によって、背後から刺されることになってしまう。

 所謂、統帥権干犯問題である。

 統帥権干犯問題とは、ロンドン海軍軍縮条約調印に関しておきた政府と軍部・国家社会主義勢力との対立事件である。

 1930年4月に調印された軍縮条約に不満を抱いた海軍の条約反対派(艦隊派)は、軍令部の同意なしで兵力量を決めるのは、統帥権の独立を犯したものだとして軍縮を進める政府(浜口雄幸内閣)攻撃した。

 特に艦隊派が不満としたのは、潜水艦の保有量制限だった。

 ワシントン海軍軍縮条約で主力艦を対米5割に抑え込まれた海軍は、多数の潜水艦を建造することで接近拒否を図る防衛戦略を立案し、八十八艦隊構想としてまとめた。

 構想では大中の潜水艦88隻と多数の豆潜水艦を建造し、西太平洋の島嶼要塞に配備することで本土への接近を不可能にするというものである。

 完成の暁には世界最大の潜水艦艦隊が完成するはずだった。

 また、水上艦艦隊も特型駆逐艦や妙高型重巡洋艦など、海援隊企業の保有する先進技術をふんだんに活用した高性能艦が続々と就役し、補助艦の建艦競争を招いていた。

 竜宮人が7割を占める海軍は、当然のことながら内親王派であり、艦隊派は龍宮内親王に軍縮条約について”適切な”対応を求めた。

 帝国憲法において、統帥権は明確に天皇大権と規定されており、政府は軍に直接命令を下すことは憲法上、不可能だった。

 しかし、兵力量(予算)については、陸海軍大臣も内閣閣僚として属する政府が帝国議会へ法案として提出し、その協賛を得るべき事項であった。

 軍縮条約に反対する艦隊派は、龍宮内親王と共謀し、統帥権を拡大解釈して兵力量(予算)についても統帥権に属するものとして、政府を攻撃したのである。

 帝国憲法は、政府と軍部の一元化を究極的には天皇によって実現すべきことを規定していたが、昭和天皇は立憲君主の分限を厳守した。

 龍宮内親王は意図的に政府と軍部の権限を巡る紛争をおこすことで、立憲君主制を守りたい昭和天皇にとって困難な状況を作り出すことを狙ったのである。

 そして、政権奪還を狙う野党の立憲政友会は、政権攻撃ができるなら何でもOKだった。

 政友会は統帥権干犯問題を議会に持ち込み、激しく浜口内閣を攻撃した。

 党利党略に走った政党政治家によって、統帥権干犯問題は国家を揺るがす一大政治問題に拡大したのである。

 浜口内閣は経済政策失敗で支持を失っており、苦境に立たされた。

 極端な緊縮財政政策を推し進めてデフレ不況を深刻化させていたのである。

 さらに金解禁直後に発生した世界大恐慌の直撃を受け、日竜経済はマイナス成長を記録していた。

 だから、さらに軍縮を推し進めて、政府の歳出を縮減する、というのが浜口の主張だった。

 しかし、なぜ歳出を削減することで、景気が上向くのかは不明だった。

 政府の赤字は民間にとっての黒字であり、政府の赤字を縮小することは、民間の黒字を縮小することに他ならないからだ。

 浜口は、


「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」


 と語って、痛みを伴う改革の向こうにこそ幸せがあると信じていたが、デフレ不況下で政府の歳出を削減するのは単なる経済的な虐待だった。

 既に慢性的な不況で痛めつけられていた国内世論は、世界大恐慌の直撃によって深刻な混乱状態になっていた。

 そこへ統帥権干犯問題という燃料が投下され、世論は政府批判一色に染まった。

 特に竜宮人世論は、政府転覆も止む無しという情勢となった。

 慢性不況と世界大恐慌で、竜宮人の多くが居住する東北地方は、深刻な経済後退を経験し、少女の身売りが横行して、社会不満は極限にまで高まっていた。

 基本的に閨狂いの竜宮人も家族を性的な奴隷として売買することを良しとしているわけではなかった。

 竜宮人の多くは、和姦こそ正しい性交であると考えていた。

 地方出身者が多い軍部では多感な青年将校達が不穏な動きを見せており、国家社会主義革命の舞台は急速に整いつつあった。

 昭和天皇は立憲君主の分限を守るために身動きがとれず、政府は経済失策で世論から見放され、軍部は政府と離反し、議会は分裂、国民は不満を爆発させる。

 あとは一気呵成に押し流すだけだった。

 龍宮内親王は、軍縮条約批准強行を図る浜口内閣を批判する檄文を発した。

 横浜では、親衛隊が武装蜂起して、東京に向けてデモ行進を開始した。

 武装デモ隊は内親王を支持する労働組合などと合流しながら規模を拡大し、東京に押し寄せるころには10万人以上に拡大した。

 野党の立憲政友会は議員がデモ行進に参加するなど、事実上のクーデタに迎合した。

 警察の対応能力は飽和し、武装デモ隊は皇居前広場を占拠した。

 デモ隊は浜口内閣の総辞職と国家改造断行、龍宮内親王の摂政就任を要求した。

 浜口内閣は軍部に戒厳令の布告を要請したが拒否された。

 戒厳令は天皇大権であり、政府にできることは戒厳令のお願いであり、政府から統帥権の独立を図る軍部がお願いで動くわけがなかった。

 軍部、特に海軍は内親王の支持で固まっていた。

 陸軍も皇道派が戒厳令絶対反対を主張しており、最初から戒厳令は不可能だった。

 戒厳令の布告ができるのは昭和天皇ただ一人だけであり、戒厳令を布告したとしても、そのあとは皇族同士の内戦という最悪の事態が待っていた。

 そして、軍部が内親王派であることは既に明らかであり、内戦になった場合の勝利は覚束ない情勢だった。

 そのため、昭和天皇は屈服を余儀なくされた。

 1930年9月30日、国家を混乱させた責任を負って浜口内閣は総辞職し、立憲政友会の犬養毅に組閣の大命が下った。

 同時に、皇族会議の承認を経て龍宮内親王が摂政に就任した。

 この一連の無血クーデタ劇は昭和維新と呼ばれることになる。

 摂政は帝国憲法において、天皇大権を代行するものである。

 やろうと思えば、昭和天皇に退位を迫り、自らが天皇になり替わることも可能だった龍宮内親王だったが、敢えてそうはしなかった。

 自分が天皇になっても、大衆の支持が得られないと理解していたからである。

 力で皇位を簒奪するよりも藤原摂関家のように摂政として全権委任を受けるというのは、まことに日本的な発想だったが、そうであるが故に完璧に機能した。

 諸外国から見たら不可思議なことだったが、デモ隊の誰もが、天皇を退位させるという発想を持っていなかったのである。

 天皇は当然、天皇であり続けると考えており、摂政が天皇大権を簒奪することについて、誰も反対しなかった。

 むしろ、若い昭和天皇を補佐するために叔母の龍宮内親王が摂政になるのは当然であるという意見さえあった。

 龍宮内親王は摂政としてさっそく軍部と政府の調停に乗り出し、ロンドン海軍軍縮条約は一部批准という形に改めた。

 内容としては主力艦(戦艦)の艦建造中止措置の5年延長については同意するが、補助艦の量的な制限は拒否するというものだった。

 ほぼ同じ内容でフランスやイタリアも軍縮条約には部分参加にとどめており、それに倣うものであったから、艦隊派も条約派も受け入れやすかった。

 犬養内閣で蔵相に就任した高橋是清は、ただちに金輸出を中止させ、経済対策を取りまとめた補正予算案を提出して、不況退治に乗り出すことになる。

 犬養内閣以後、内閣は非政党化して戦前の政党政治デモクラシーは終焉を迎えた。

 一連の昭和維新のシナリオを描いたのは、石原莞爾陸軍中佐だったとされる。

 在ドイツ武官時代に龍宮内親王と知り合った石原は、内親王の国家社会主義運動に共鳴し、親衛隊に参加していた。

 石原は世界最終戦論を書き、東洋の王道と西洋の覇道の激突は不可避であると論じて、昭和維新は東洋王道が戦闘態勢を整えるための準備行為だったと位置づけている。

 世界最終戦争は、天皇が世界の天皇になるか、西洋の大統領が世界大統領になるかを決める戦いであり、東洋が勝利すれば天皇の名の基に世界人類の平等が訪れると結論していた。

 世界最終戦論は北一輝の日本改造法案大綱と共に日竜の国家社会主義運動の枢要なテキストとなり、人種の平等を求める日竜が世界に挑戦する上での理論的背景となった。




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― 新着の感想 ―
[一言] 昭和維新の遠因は、東北地方の困窮と荒廃でありますが 貧困に喘ぐ竜宮人の母と一人娘が、遊郭に売られる前夜 先祖が竜宮から脱出するときに持ち出した 熱線銃(ブラスター)をせめてもの身の守りとして…
[一言] うーむ 内親王巨人隊構成員の洋の東西を問わぬ益荒雄達だが 内心 密かに「女の子になりたい」「お嫁さんになりたい」と言う秘めた想いを 統領閣下は、満たしてくれたのであろう 統領の閨で、逞しき…
[良い点] いにしえの昭和時代に存在した軍事技術リード説とは、対象年代では一般的な国家観だった夜警国家と照らし合わせれば、単なる「国家支出によるR&Dリード説」の言い換えになっていたと気付けた。 福…
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