喪失の時代
喪失の時代
1920年代の日竜は、喪失の時代と言えた。
第一次世界大戦を勝者として終えた日竜は、国際連盟の常任理事国の座につき、英仏米伊に並ぶ五大国となった。
幕末に仰ぎ見た坂の上の雲を掴んだと言えるだろう。
日本人の多くは素直にこれを誇りに思った。
日清・日露、そして第一次世界大戦と日竜は、勝った、勝った、また勝ったと勝利の度に領土を広げ、国威を高めてきた。
経済もうるおい、未だに江戸時代の延長戦をやっている農村の貧困に目をつぶれば、東京や大阪といった大都市では、一等国の生活ができるようになった。
現状に全く問題がないわけではないが、客観的に見て万々歳の結果だった。
しかし、竜宮人は全く違うことを考えていた。
賠償金やアフリカの植民地獲得といった経済的な成功、五大国の地位といった政治的な地位向上でさえ、膨大な、黙示録な損失に見合うものではなかった。
はっきりいえば、そんなものはどうでも良かった。
竜宮人の一般認識ではこの大戦争の全ての犠牲が、自分たちを特殊性癖から、一般性癖へと押し上げるものと信じていた。
例えるならば、最初は女の子が好きな女の子(所謂、百合)や女装した男子、ケモは冗談の範疇に入っていたが、本気の人々による尽力の結果、一つのジャンルとして確立され、成熟を結ぶことになった。
同様に現状は特殊性癖である竜宮人も献身や努力によって将来的に市民権(一般性癖化)を獲得すると信じていたのである。
第一次世界大戦は、その為の通過儀礼となるはずだった。
しかし、その期待は全く裏切られた。
国際連盟規約から人種平等が除かれたことは、竜宮人にとっては最悪の裏切りだった。
それでは何のために欧州で血を流したのか、全く分からなくなってしまうからだ。
竜宮人の政治史において、第一次世界大戦の勝利と講和は「失われた勝利」と記録されることになる。
人種平等を求めて各地では、竜宮人の反差別運動が先鋭化した。
しかし、却って排竜の風潮を強める結果に終わった。
世界的に拡大した排竜運動の象徴とも呼べる事件が、幸子・ヴァンゼッティ事件である。
1920年4月17日、合衆国のマサチューセッツ州で、強姦殺人の容疑で竜宮人アナーキストの幸子・ヴァンゼッティが逮捕された。
幸子・ヴァンゼッティはイタリア系合衆国竜宮人だった。
人種差別に反対して、ストライキを繰り返していた幸子・ヴァンゼッティは次々に職場を解雇された。
それでも、意思を曲げることなく竜宮人の公民権運動を続けていたため、不穏分子として当局に目を付けられていた。
当時の合衆国は、ストライキが頻発する騒然とした世相で、合衆国保守派は労働争議を左派アナキストや共産主義者の扇動によるものと決めつけていた。
裁判所は幸子・ヴァンゼッティに対して、殆ど物証がないにも関わらず、2件の強姦殺人の容疑で死刑判決を言い渡した。
竜宮人ならやりねないという完全な偏見による冤罪だった。
当初から、この判決は当初から偏見による冤罪との疑惑があり、合衆国のみならず日竜をはじめとするヨーロッパなど世界各地でデモが行われるほどの大きな問題となった。
弁護団から再三にわたる再審請求がなされたものの裁判所は全てを却下し、幸子・ヴァンゼッティは1927年に電気椅子で死刑に処された。
幸子・ヴァンゼッティは死刑に臨んで、
「君たちは私を十字架にかけるだろう。しかし、われわれの理想を打ち砕くことはできない。その理想はこれから訪れる世代のために、さらに美しいものとして残り続けるだろう」
と執行官に述べて、従容な態度で処刑台についた。
さらに追い打ちをかけるように、1920年9月7日、坂本竜馬がハワイで死去した。
老衰の傾向はあったものの、前日までは曾孫と遊ぶぐらいの健康は維持していたが、旅立ちはあっけなく突然に訪れた。
ハワイで行われた竜馬の国葬には約15万人が参列した。
竜馬の国葬は、明治大帝の大喪儀に匹敵する規模となった。
このことから、竜馬が竜宮人にとっての天皇だったとする社会学の論文もある。
竜馬の死と失われた勝利によって、竜宮人の民族意識は分裂していくことになる。
それまでの開国性交(竜宮左派)は支持を減らし、代わって国粋性交(竜宮右派)が広まりを見せるのが、1920年代のことである。
国粋性交とは、外国人との性交を拡張するよりも、竜宮人の気質に根ざした日本人との文化・伝統的な性交の独自性を強調・発揚し、保守していこうとする思想である。
国粋性交は、昭和期には国家主義や日本人の皇国史観と結びついてファシズムと一元的に理解されることも多い。
坂本竜馬亡き後に、一人で日竜の国際協調外交を後見することになった伊藤博文は、竜宮人の心変わりが理解できず、
「是非もなし」
と日記に書き残している。
確かに筆者も開国性交と国粋性交の違いが分からない。
筆者の友人の竜宮人 (セフレではない)に尋ねたところ、概ね下記のような分類が適当と説明を受けた。
「みんなと仲良くセックス」=開国性交=竜宮左派
↑
対立思想
↓
「日本人とだけ仲良くセックス」=国粋性交=竜宮右派
箒ではいてすてるほど多数の竜宮人を愛人に抱えていた伊藤であっても、竜宮人の心の底まで理解することはできなかったようである。
政治家である伊藤の目からは、竜宮人の献身は十分に報われているように見えていた。
1923年に更新された第4次日英同盟などは、海援隊(竜宮人)の献身に対するイギリスの信任の証だった。
第4次日英同盟によって、イギリスは傾いた帝国の屋台骨を支えるアジアのパートナーとして日竜を政治的に受け入れた。
同盟更新は平坦な道のりではなかった。
第一次世界大戦後、世界的な軍縮や平和主義の拡大から、軍事同盟への批判が強まり、日英同盟は存続の危機にあった。
国際軍事同盟によってサラエボ事件が玉突き事故のような過程で世界大戦に拡大してしまったことへの反省が叫ばれていたのである。
さらに合衆国は東西から日英同盟で包囲される形になるため、同盟廃止を望んでいた。
日本国内においても合衆国への融和外交の観点から同盟更新には反対意見があった。
しかし、伊藤は日英同盟こそ日竜最大の外交資産であると考えており、その存続のために奔走した。
イギリスも傾いた帝国の屋台骨を支えるパートナーとして、日竜を合衆国よりも重視したからこその同盟存続だった。
ワシントン会議では、第一次世界大戦後の太平洋・アジアの国際秩序・国家安全保障体制が協議された。
結果、中国の現状維持を定めた9カ国条約や、太平洋の軍備制限を定めた海軍軍縮条約が結ばれることになる。
海軍軍縮条約では、日英同盟存続のために兵力量についてぎりぎりの交渉が行われた。
海軍強硬派は、兵力量で妥協するなら同盟破棄も止む無しと叫んだが、それは明後日の方向に向いており、元老という超法規的存在の前でいう度胸はなかった。
軍人は官僚であり、官僚には異動があり、誰でもアフリカ委任統治領へ飛ばされるのは嫌だった。
1919年以降、アフリカ出張とは高級官僚にとって、菅原道真の故事を連想させる言葉だった。
それはさておき、海軍軍縮条約では、英米の主力艦保有量について50万tの上限を設け、個艦の基準排水量は35,000tを上限とし、主砲口径も16インチ以下とされた。
そのうえで合衆国は、日英同盟更新に同意する条件として、日本の主力艦保有量については仏伊と同率の対米3割5分とすることを要求した。
海軍強硬派が求めていたのは、対米7割だったから日米の溝は大きかった。
ただし、1921年時点で日竜が保有する戦艦は対米5割以下だった。
日竜海軍は世界で初めてドラゴン級戦艦を実用化し、バルチック艦隊の半数をド級戦艦の火力で沈めるなど、近代戦艦のパイオニアとなった。
しかし、国力の限界から日露戦後は一転して自主的な海軍軍縮に転じた。
技術があっても金がないのが当時の日竜だった。
縮小された日竜海軍の基本艦隊整備構想が四四艦隊である。
日露戦後に就役した改ドラゴン級戦艦の摂津と薩摩を加えたド級戦艦四隻と装甲巡洋艦四隻を基幹とする艦隊が編成された。
ただし、この艦隊には仮想敵が不在だった。
満州利権を英米と分け合う関係となったことから、英米を仮想敵とするような軍備計画を持つことは政治的に不可能だったからだ。
そのため海軍が整備するべき兵力量は根拠が乏しく、軍備のための軍備という色彩が強かった。
東郷平八郎を拝んでも、用途が定かではない軍事費が空から降ってわくことはないのである。
日竜海軍のこうした諸事情を受け入れたうえで、個艦の性能優位を最大限に確保する方向へ舵を切った。
つまり、月月火水木金金と謡われた猛訓練と竜宮企業のもつ最新技術の活用である。
1913年から順次就役した金剛型巡洋戦艦(金剛、榛名、霧島、比叡)は、質的優位という思想を反映し、当時としては世界最大の艦載砲である36サンチ砲を採用していた。
建造したのは竜宮系米国企業のラブ&クラフト造船所で、金剛型(28,000t)には竜宮企業のもつ最新技術の粋が集められていた。
他の列強海軍では採用例が少ない最新技術とも言える三連装砲塔を採用し、浮いた重量を機関強化に割り振って高速性能を確保した。
防御面も手抜かりなく、就役当初から36サンチ砲対応防御を備えていた。
それでいて金剛は巡洋艦並みの27ktを確保しており、他の列強海軍の基準からすれば高速戦艦とよぶべき代物となっていた。
日竜海軍が金剛を巡洋戦艦と呼称したのは、装甲巡洋艦を代替するという予算上の都合でしかなかった。
日竜が第一次世界大戦に参戦すると戦時予算が認められ、1916年度から新四四艦隊計画が始まる。
陳腐化したド級戦艦を代替するために建造した扶桑型戦艦は、質的優位の思想をさらに推し進めて、世界最大の40サンチ砲を搭載した。
就役した時点で、扶桑型(33,000t)は世界最大最強の戦艦であり、英米海軍に衝撃を与えた。
扶桑型は金剛型の拡大発展型で、40サンチ砲9門を三連装砲三基に収めて、26ktを発揮する高速戦艦だった。
扶桑型もラブ&クラフト造船所で設計、建造された。
金剛型4隻と扶桑型4隻によって、新四四艦隊が完成した。
以後、日本の戦艦建造は停滞を迎える。
ラブ&クラフト造船所が、戦時標準船の建造にかかり切りになってしまい戦艦建造どころではなくなってしまったからだ。
各地の海軍工廠も同様であり、英仏から委託された駆逐艦の建造が最優先になっていた。
そもそも欧州派兵のため戦艦を作る余裕などなかった。
それでも16インチ砲搭載戦艦は日竜4隻、米1隻(コロラド型)、英0隻であり、日竜の質的優位はあたま一つ抜けていたと言える。
それを不服とした合衆国は、16インチ砲搭載戦艦3隻の追加建造を求めた。
当然ながら、日竜が激怒して交渉は暗礁へと乗り上げてしまった。
日米の角逐に対してイギリスが調停に乗り出し、妥協が成立した。
妥協案によって軍縮条約の制限内で英米が抗戦力としてそれぞれ2隻ずつ戦艦の追加建造する権利が認められ、メリーランド級戦艦2隻のコロラド・ウェストヴァージニアとネルソン級戦艦2隻のネルソン、ロドネーが建造された。
世界大戦で疲弊していたイギリスは、新しい戦艦など欲しくはなかったが、日竜を宥めるための必要経費だった。
ネルソンとロドネーの配備によって、合衆国海軍は常に16インチ砲搭載艦を最低1、ないし2隻は大西洋に貼り付ける必要が生じるため、太平洋では日竜の有利(16インチ砲搭載艦に限る)が確定する。
これは日竜に対する配慮であり、同盟の義務の履行だった。
結果として、各国の主力艦(戦艦)の保有量は、英米52万t、日26万t、伊仏17万8千tとなった。
戦艦と共に制限されることになった航空母艦は、戦艦の3分の1とされたので、日竜は80,000tまで空母を保有することができることになった。
また、1隻あたりの規定排水量は27,000tが上限とされた。
ただし、2隻に限っては33,000tが上限とされた。
この不可思議な規定は、レキシントン級巡洋戦艦(33,000t)を空母へと改装するためのものである。
日竜海軍は第一次世界大戦の経験から艦隊航空戦力の必要性を理解しており、同盟国イギリスからの技術供与を受けて、空母建造を急ぐことになる。
巡洋艦の量的制限は見送られたが、基準排水量は10,000tまでに制限され、備砲は、5インチ以上8インチ以下とされた。
そこで各国海軍は戦艦の代用品として、条約の上限一杯の排水量を持つ条約型巡洋艦の建艦競争を繰り広げることになる。
後に公開された外交文書では、日竜の代表団は対米6割が譲歩できる最低限として、本国に交渉打ち切りを要求していた。
しかし、
「絶対不可、必ず妥結せよ」
と超法規的存在から鬼電が入って、すごすごとテーブルに戻った。
明治のために生きて、明治のために死んだとまで謳われた西郷隆盛に比べると伊藤博文は軽量級と見られることが多い。
しかし、大正デモクラシーなどの政党政治を支え、大正時代の国際協調外交を動かしたのは伊藤であり、大正天皇からの信任は絶大なものがあった。
ある意味、大正という時代は、伊藤博文という痩せ衰えた老人の肩にかかっていた。
大正が僅か15年で終わったのは、ある意味、必然だったと言える。
ワシントン海軍軍縮条約の締結によって、日竜海軍は海軍休日を迎えることになった。
休日期間中、日竜海軍の主力艦は対米5割に制限された。
しかし、日米の経済格差が10倍以上あることを考えれば、妥当な結論と言えた。
日英同盟で通算すれば、日英で合衆国を戦力では上回る計算である。
しかも条約の付帯条項で、ハワイ王国の非武装・永世中立化が厳格化された。
厳格化によってハワイ王国の周辺海域は、軍艦であっても航行制限が課せられることになり、10,000t以上の艦船は1隻以上航行することができなくなった。
当時の船舶燃料は主に石炭であり、補給作業の手間暇を考えれば、ハワイの港湾設備を使用できないかぎり、合衆国艦隊が西太平洋へ侵攻することは不可能だった。
ハワイ王国は実質的に竜宮人の領地であることを考えれば、竜宮人を間に挟んで日本と合衆国は平和共存する時代になったと言える。
さらに日竜は、太平洋の島嶼領土は固有の領土として要塞化する権利を主張して、各国の承認を得た。
要塞と艦隊戦力を組み合わせれば、仮にイギリスが何らかの事情で参戦できない状況になったとしても国防は十分に可能だった。
軍人たちは軍縮条約に暗い感情を抱いたが、世間は軍拡どころではなかった。
景気後退が深刻化していたのである。
1920年代の日竜を襲った景気後退としては、
・戦後恐慌(1920年)
・震災恐慌(1923年)
・金融恐慌(1927年)
・昭和恐慌=世界大恐慌(1929年)
の4つが挙げられる。
20年代の殆ど全期間が不景気に思えるが、実際に不景気だった。
最初の不景気の波は、第一次世界大戦が終わり戦争特需が消えたことで始まった。
戦争特需に湧き上がっていた日竜経済は、増え続ける需要に応えるために生産設備への膨大な投資を行った結果、完全に生産過剰に陥っていた。
戦争特需は、化学、機械、金属を中心とする資本の蓄積を飛躍的に高め、空前の投機熱をまきおこして、成金という言葉を生んだ。
船成金内田信也などはその典型である。
世界大戦が始まった1914年、内田は三井物産を退社し、資本金2万円で神戸に内田汽船を開業、石炭輸送や船舶取引に皮切りに、開業後わずか3年後に、資本金1千万円、所有船17隻という大事業家となっていた。
内田ほどではないにせよ、戦争特需で素寒貧からなりあがった成金はそこかしこに現れ、
玄関で靴を探すために灯りとして100円札が燃やされることになった。
成金の成功を見て一般庶民も株式投資に夢中になった結果、実態経済以上に株式相場が膨れ上がり、バブルとなって弾けてしまった。
大戦終結で欧州企業が戦後経済に復帰しつつあり、日竜企業は輸出市場で苦戦を強いられるなど、実態経済は確実に後退期にあった。
それに関わらず大戦終結後も株式相場が暴騰しつづけたのは、合衆国経済が好調で輸出産業の伸びが期待できたことや、欧州派遣軍の動員解除が進み、復員兵の旺盛な消費がしばらく続いたためだった。
追い打ちをかけるように1923年9月1日に関東大震災が発生する。
未曽有の大地震によって関東一円が大打撃を受け、東京近辺では津波と大規模火災によって約10万人が死亡するという大惨事となった。
東京に官公庁・議会が集中していた政府は機能停止に追い込まれた。
海援隊は、震災発生直後から活動を開始し、被災者の救出や消火作業、食料の配布などを実施した。
ほぼ同時期に陸海軍も動き出し、救護活動にあたった。
文民組織である警察や消防も活動していたが、関東大震災のような大規模災害に対応するには明らかにマンパワーが不足していた。
そのため、大震災で活躍した軍や海援隊に対して世論は好意的になり、昭和の親軍世論が形成される土台となった。
震災発生直後のような混乱した状況に、文民組織が無力だったことはある程度、やむを得ないものと言えなくもない。
しかし、混乱状態を脱したあとも議会や政府の動きは鈍かった。
帝都復興院が設置され、総裁に台湾開発で辣腕を振るった後藤新平が就任しても、それは変わらなかった。
後藤が発表した当初の復興計画は、復興というよりも新造に近いものだった。
計画では、江戸時代から続く雑多な都市区画を完全に整理し、自動車時代を見越した100m道路の建設やライフラインの共同溝を建設するといった先進的な内容だった。
その費用は90億円という巨額のもので、後藤の大風呂敷と揶揄された。
この予算を野党の立憲政友会は拒否して、最終的に15億円に削減してしまう。
確かに帝都復興院は復興資金に群がる政治屋や官僚、企業の伏魔殿になっており、様々な疑獄事件の舞台となったが、復興資金の流れをストップさせる必要はなかった。
また、与党も復興院を支えず、復興予算の削減を認めてしまった。
もしも、復興計画が当初の予定どおり90億円を投入していたら、復興需要と資金が合流することで、戦後不況を吹き払う経済の起爆剤となっていただろう。
しかし、不十分な資金しか供給されなかったため、需要があっても資金が不足し、経済の流動性が高まらず、経済の好循環が起きなかった。
後藤は、
「坂本先生が生きていたら・・・」
と嘆いたが、どうにもならなかった。
経済に対して深い理解があった竜馬が生きていたのなら、大蔵省の尻を叩いて100億でも200億でも用意させたに違いなかった。
資金繰りに行き詰まった企業を救済するために勅令で震災復興手形が認められたが、土台の経済が冷え切っていたので、その多くが不良債権化した。
結果として発生したのが、不景気第3波の金融恐慌だった。
不景気に対して満足な対応ができない政府・議会への不満、不信は募り、生まれたばかりの政党政治に対する信頼を棄損する結果になった。
こうした政治の不味い対応を招いたのは、金本位制度への復帰という誤った経済・財政政策が原因と考えるのが主流となっている。
金本位制度とは、通貨発行の裏付として金を用いる貨幣制度である。
通貨の価値を担保するのは金であり、紙幣は同価値の金と交換可能性(金兌換)が政府から保障されている。
ありていにいえば、金貨をそのまま紙幣に置き換えただけと言えなくもない。
金本位制度は、19世紀から第一次世界大戦までの各国の通貨制度の基本であり、列強国は漏れなく金本位制度を採用していた。
しかし、この制度は政府支出が激増する戦時においては、通貨不足を招くため、しばしば金兌換は停止されて、不換紙幣が発行されていた。
日本においては日露戦争時やアメリカ合衆国の南北戦争において、金の裏付けのない不換紙幣が発行されて戦費の支払いが行われた。
不換紙幣の発行は一時的な措置であり、暫くすると金兌換に復帰していた。
しかし、第一次世界大戦ではそうした対応は不可能だった。
国家予算の数十年分の戦費を浪費した大戦争で、各国が保有する金を遥かに超える通貨発行が行われたためである。
また、膨大な通貨発行と総力戦遂行のための生産力増強によって、経済が各国の保有する金の総量を遥かに超えてしまっていた。
戦争特需で世界中から金を集めた合衆国は1919年に金本位制度に復帰していたが、これはむしろ例外というべきで、金の偏在という問題をもたらした。
金本位制度の欠陥は明らかであり、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは国内経済の諸目的(物価・景気・雇用)を優先させる管理通貨制度の採用を主張した。
それにもかかわらず、社会的な地位にある人々は金本位制度こそが正しい経済のあり方だと考えていた。
何しろ同時期のドイツでは、1米ドルが4兆2105億マルクに達していたからだ。
所謂、ハイパーインフレーションである。
ただし、これは膨大な戦時中の通貨発行と戦勝国による巨額の賠償金とフランスのルール占領といった異常事態によって引きおこされたものだった。
ルール占領で多くの工場が止まってしまったため生産が滞り、ドイツ政府のゼネスト支援で大量の不換紙幣が発行されたことがインフレを青天井へと加速させた。
第一次世界大戦中の投資で生産過剰になっていた日竜と生産が止まってしまったドイツでは状況がまるで異なるのである。
よって、とるべき経済・財政政策も異なる。
問題は、日本の財政・経済政策の中枢にそうした発想がなかったことである。
多くの政治家は、金本位制度に復帰すること自体が目的化していて、それが何を意味するのか理解していなかった。
金本位制度に復帰するには、大量に発行した不換紙幣を消滅させ、日銀が保有する金の総量にあわせる必要がある。
つまり、通貨削減推進=経済縮小政策であり、国債圧縮と政府支出の著しい削減が実施された。
帝都復興計画も縮小されたのも金本位制度復帰のためであり、霞が関では役人が使う文房具を自弁するなど、ありとあらゆる支出の削減が行われた。
GDPの計算式は、GDP=消費+投資+政府支出+(輸出-輸入)であり、政府支出が削減されつづければ、GDPはおのずと縮小していくことになる。
これは経済の自傷行為であり、1920年代の日本が慢性不況に陥った原因である。
明らかに生産過剰と投機が行き過ぎていた戦後不況は、経済の正しいリセッションだったと言えるが、以後の不景気は殆ど人災だった。
そして、生まれたばかりの政党政治は、経済に対する無理解によって信頼を棄損し続け、国家社会主義勢力の台頭を招くことになった。
伊藤は、政争を続ける政党政治家を諫め、軍部・政府の調停に奔走した。
大正天皇が健康を害して政務が困難になると伊藤の負担は激増し、ついに伊藤も体調を崩して死の床につくことになった。
1924年3月11日、伊藤は最後まで日竜の未来を案じながら旅立った。
後継者に指名された腹心の西園寺公望は、
「龍宮内親王には気を付けろ」
という伊藤の遺言を胸に刻んだ。
しかし、経済への無理解は相変わらずだった。
世界大恐慌の真っ最中に西園寺が総理に推薦したのは、緊縮財政政策の鬼・濱口雄幸だったのである。
1929年10月24日にウォール街で株価が大暴落すると株式投機にのめり込んでいた銀行が次々と倒産することになった。
多くの銀行では生き残りをかけて資金の引き下げ(貸しはがし)に走ったため、多数の企業が連鎖的に倒産していった。
大不況の波は好調な合衆国経済に依存していた各国経済へと波及していき、南米や欧州でも金融機関が次々と破綻する非常事態となった。
経済への核攻撃に等しい大不況が炸裂していた時に、濱口は金本位制度への復帰と軍縮という極端な緊縮財政政策を展開した。
特に金解禁は、大量の正貨の流出を招き、日竜経済を昭和恐慌へと叩き込んだ。
ただし、財閥や政府高官等、政治家達はインサイダー取引で、多大な利益を得ていた。
金解禁で既に豊かなものは更に豊かになり、貧しいものがそのツケを払わされた。
「相容れざる二つの社会階級を眺めることになった。銀座のエロ、グロ、カフェー街、新橋、築地の三業界それから不景気はどこ?といふ顔した山手方面の上流社会と、食うに食なく、勤めるに職なく、流浪生活しているルンペン諸君、働けども与えられるものは借金の世界、失業者の群れ」
当時の世相をそう書き現わした龍宮内親王は、遂に己が表舞台に立つときが来たと確信した。