第一次世界大戦
第一次世界大戦
サラエボの銃声から玉突き事故のような経緯を経て第一次世界大戦が勃発すると日竜は日英同盟の規定により、大戦に自動参戦することになった。
つまり、日竜も玉突き事故の巻き添えを食らった形になるのだが、関わり方には解釈の幅があった。
殆どの日本人は、この戦争に自分たちが深くかかわることはないと考えていた。
同盟の規定にしたがって参戦したものの日本周辺のドイツ軍の拠点は中国の山東半島にしかなく、ドイツ東洋艦隊も既に逃亡した後だった。
あとは要塞に籠ったドイツ兵を投降させて、それで戦争は終わりだと考えていた。
その後は英米に声をかけつつ、鳥なき里の蝙蝠よろしく中国利権の拡大を図っていけば帝国の未来は安泰というものだった。
当時の日本人の意識としては、自国の利害が関係するのは中国大陸か、その周辺だけで、ヨーロッパについて意識することは殆どなかった。
どこにあるかは知っていても、白人の見分けがついておらず、イギリス人もフランス人もドイツ人も全て同じように見えていた。
見分けがついたところで、大して変わらないと言えなくもないが、概して日本人の外の世界に対する認識はその程度だった。
しかし、竜宮人は日本人とは違うことを考えていた。
彼らは遠いヨーロッパの戦争こそ、自分たちの戦争だと考えていた。
幕末の黒船来航から、開国性交を唱えて世界へと進出した竜宮人は、世界各国において徐々に強まる排斥運動に対して強い危機感を覚えていた。
外見こそ完璧なコーカソイドを模すことができるようになり、人間観察や鍛錬を重ねることで完璧な美少女になっても、下半身は八本足のままだった。
そのため、海外ではスキュラや半魚人、悪魔の魚、神への冒涜、異端者、深き者、サキュバスなどといった扱いを受けており、完全な被差別民族だった。
黒人やユダヤ人からも差別されたほどである。
もちろん、そうした反応が全てではなく、理想の美少女として受け入れてくれる(特殊性癖の持ち主)人々もいたが、全体としては少数派だった。
せめて異端扱いは止めてもらおうとキリスト教に改宗したりもしたが、生活習慣の違いからなじめず棄教する者が多かった。
特に不倫という考え方が受け入れられない竜宮人は多かった。
現場をおさえられ修羅場になったとき、
「3人で楽しめばいいじゃない?」
と素で返してしまい殺傷事件に発展することがしばしばあった。
1908年末のウィーンで起きた殺人事件はまさにその典型的なパターンだった。
ボヘミア出身の画家志望の青年が、モデル兼恋人としていた竜宮人の浮気現場に踏み込み、3Pを提案されて逆上し、恋人を絞殺したのである。
信じていた恋人に裏切られた青年には同情の余地があるものの殺人は殺人だった。
実刑判決を受けた青年は数年を刑務所で過ごすことになり、その後の消息は不明である。
一説によると囚人兵としてオーストリア軍に強制徴兵され、敵前逃亡を図って銃殺刑されたと言われている。
痴情のもつれで人生を誤った青年の氏名は、アドルフ・ヒトラーという。
ヒトラー青年が、もしも日本人なら、おしおきセックスぐらいで済んだだろう。
フランス人だったら、3Pセックスに発展していたかもしれない。
仏は、伝統的に欧州でも竜宮人差別が少ない地域で、海外旅行先として現代でも人気がある地域である。
それでも差別感情は皆無ではないのである。
むしろ日本人が何ら差別的感情や嫌悪を喚起させず、竜宮人を受け入れているのか、分からなくなってくる。
まるで最初に遺伝情報なり、模倣子を取り入れたのが日本人だった故にと考えたくなるほどである。
あまりにも日本人と竜宮人は対等に交わり過ぎていたと言える。
そのため、竜宮人は開国性交によって四海同胞を得て、人類皆竿姉妹(或いは穴兄弟)になれると楽観的に考えていた。
しかし、20世紀の最初の10年を過ぎるころには、そうした考えがあまりにも楽観的すぎたことを理解し始めていた。
故に大戦勃発の報に接した殆どの竜宮人は、自分たちを受け入れて貰うために必要な犠牲を贖う機会が訪れたと考えたのである。
歌人・与謝野竜子は、大戦勃発の報に接して、
「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」
と迫りくる戦争と興奮を伝える歌を詠んだ。
日露戦争では反戦歌を詠んだ与謝野竜子でさえ、第一次世界大戦を肯定的に評価しており、これが竜宮人の平均的な姿勢だった。
日本人の大半が大戦の傍観者であろうとしたことを考えると、日本人と竜宮人の発想は似ているようで異なっていたと言える。
竜宮人の指導者として坂本竜馬は、大戦勃発の翌週にはロンドンに飛び、海援隊のヨーロッパ派遣を打診していた。
主な業務としては後方支援や輸送などだが、自社の商船を仮装巡洋艦に改装して投入するプランもあった。
海援隊の戦闘業務は大戦中に拡大を続け、大戦末期には英海軍の一部として主力艦の運用や駆逐隊を編制して対潜作戦を行うほどにまで拡大した。
地上戦にも海援隊は参加しており、フランス外人傭兵部隊として西部戦線に参加した。
海援隊として欧州で戦った竜宮人は延べ30万人に及び、日本のみならず合衆国や中南米といった移民竜宮人も国の枠組みを超えて参戦した。
海援隊の地上戦参加は、1915年の第二次イーペル会戦だった。
この戦いで、多くの竜宮人が毒ガス攻撃の洗礼を浴びることになった。
使用されたのは塩素ガスで、対毒ガス戦装備の不備から海援隊は大損害を出した。
苦悶の表情のまま死亡した多くの竜宮兵は、顔立ちが美しい清らかな美少女ばかりだったので、写真付きでマスコミ報道がなされると国際世論に大きな衝撃をあたえた。
使用された写真は下半身が写らない構図だったため、ドイツ軍が毒ガスでいたいけな少女達を虐殺したと伝わることになった。
合衆国世論が参戦に向けて動きだしたのも、第二次イーペル会戦以後のことである。
海援隊の犠牲が伝わると日本の国内世論も風向きが変わり、軍部は欧州遠征を現実の問題として検討することになった。
なお、日竜海軍は概ね派遣には賛成だった。
何しろ日竜海軍の構成人員の7割は竜宮人で占められていたから、主戦論が強まるのは当然だった。
水上生活で竜宮人に勝るものはなかった。
本物の海の民は、海水を飲んでも平気な顔をしていた。
ちなみに普通の人間には、海水は塩分濃度が高すぎるため、却って喉が渇き、腎機能を破壊されるため海難時の禁忌事項の一つである。
陸軍は海軍の逆で、圧倒的に日本人が多く、徴兵でも竜宮人は乙種や丙種として免除される傾向があった。
欧州派兵についても陸軍は絶対反対だった。
マヌル会戦やイーペル会戦など英仏軍の大損害を見て、陸軍は顔面蒼白になっていた。
西部戦線は旅順要塞を数十倍も拡大した消耗戦になっており、戦場に立てばどうなるかは火を見るよりも明らかだった。
日本陸軍は旅順要塞での消耗戦とそれに対する世論の攻撃を忘れておらず、青島要塞攻略戦(1914年10月)でも極力、人員の消耗を避けた戦術を採用していた。
しかし、海援隊を通じて竜宮人の志願兵が続々と渡欧して活躍し、航空隊まで展開するようになって、
「もう海援隊だけでいいのではないか?」
という声が囁かれるようになると欧州遠征反対を貫くことができなくなった。
陸軍にも面子というものがある。
外部からの圧力も高まっていた。
1914、15年の戦いでフランスやイギリス軍は開戦前に整えた兵力を消耗しつくし、その穴埋めに汲々していた。
英仏の外交担当者は日竜軍の欧州派遣のためにありとあらゆる飴玉を並べた。
対日債務の放棄や自国がもつ最新技術の提供、資源の優先的購入権といった経済権益、さらに兵器の全部供与、派遣費用の全額負担といった具合である。
ドイツが保有していたアフリカ植民地を戦後に譲渡するという密約まで交わされた。
なりふり構わない英仏の外交攻勢を受けて、政府も欧州派遣に同意することになった。
派遣兵力は3個軍(9個師団)で、日竜陸軍の常備兵力のほぼ全力が派遣された。
それぐらいまとまった兵力でなければ、西部戦線では意味がないためである。
開戦前なら1個大隊の損失でさえ陸軍大臣の責任問題になったが、1915年に暮れには1個師団の損失が、
「安く済んだ」
と表現されるほどになっていた。
欧州派遣軍を率いることになった乃木竜典大将は、旅順要塞攻略戦を引き合いに出して将兵の無理な攻撃を戒めたりしたが、現実はそれよりも遥かに過酷だった。
日本軍の欧州派遣は、1915年11月から始まり、第1陣が戦線に展開したのは1916年3月からだった。
間が空いているのは、装備品をフランスの供与兵器に切り替える転換訓練や最新の戦訓を反映した戦闘訓練などに時間を費やしたためである。
被服以外の全装備をフランス製に切り替えたといっても、本当に全てを英仏から供与に頼るわけにもいかず、後方支援態勢が整えられた。
後方支援と一言で言っても、実際には大きな地方都市一つをまるごと支えることに等しいものである。
食料や衛生、医療の確保は当然として、戦い続けるためには常に消耗する武器弾薬の供給しつづけることが必要だった。
士気を維持するためには、様々な娯楽も必要だった。
欧州で米飯を用意することは極めて困難であり、派遣初期はパン食が続いた。
結果、深刻な士気低下のみならず、消化不良による下痢といった直接的に戦闘力を低下させる問題も発生していた。
こうした問題を受けて、日竜陸軍の船舶部隊と海援隊は専門の穀物輸送船を1917年に建造し、欧州航路に乗せて米の輸送体制を確立している。
飯盒で米を炊く炊煙がドイツ軍の砲撃の的になると、N.W.Iは電気炊飯器を開発して、最前線に送り届けた。
第一次世界大戦を描いた小説の多くに登場する「塹壕の中を漂う得も言えぬ食欲を誘う芳香」という記述は、電気炊飯器で炊かれたジャポニカ米の匂いである。
支援体制の確立には海援隊も活用されたが、それでも50万人近い将兵が戦線の後方で様々な役務につくことになった。
さらにその50万人を支えるために、本土からインド洋、北アフリカ、フランスにまたがる後方支援体制が築かれ、最終的に200万人が動員されて軍務についた。
日竜軍において、士族の軍隊が完全に崩壊して国民軍と呼べるようになったのもこの時からだと言われている。
あまりにも多くの平民が戦争に参加したためである。
ちなみに日本軍欧州派遣軍の前線兵力は最大で約15万だった。
遠隔地での戦争が、いかに膨大な後方支援を要求するか理解できるだろう。
これらの人員を維持するには膨大な船舶が必要だった。
そのため、日竜政府はイギリスが建造を進める戦時標準船の図面などを提供してもらって、造船業界を説得して大量の船舶を建造した。
造船業界は、戦時標準船の建造には否定的だった。
大量生産のために意図的に設計寿命が短く設定された戦時標準船はすぐに使い物にならなくなることが明らかであり、船会社が求める優秀船とは真逆の船だったからである。
それでも日本政府が補助金をばらまいてでも戦時標準船の建造を推し進めたのは、欧州派遣軍を支えるために1隻でも多くの船が必要だったからだ。
戦時中に日本の造船業は急拡大し、英仏からの技術導入も進んで、世界屈指の造船産業を備えることとなる。
その中でも傑出した技術を持っていたのが海援隊傘下のラブ&クラフト造船所だった。
戦時中に日本が建造した300万トンの戦時標準船のうち約7割を1社で引き受けて、全て期限通りに納入することに成功している。
最盛期には、1日1船というペースで5,000t級の戦標船を作っていた。
船舶の大量建造の秘訣は、画期的なブロック工法の採用にあった。
ラブ&クラフトの旅順造船所では野放図に巨大な造船工場の流れ作業でブロック単位の船体が作られ、船台の上で続々と組み立てられ、進水していった。
ブロック工法は同業他社にも取り入れられ、戦後日本の造船業の根幹となった。
流れ作業といえば、満州に進出したN.W.Iなどは生産ラインを大幅に拡張した上で、連合国向けに軍用トラックを作っていた。
合衆国本国と併せて日産1000台を製造し、連合国軍の兵站を支えた。
飛行機や戦車といった兵器は自国生産できるため英仏から求められていなかったが、エンジンや部品の生産といった下請けは幾らでも需要があり、連合国の戦闘機や爆撃機に使用されたエンジンの2割は日竜製となっていた。
日竜軍は主にフランスから兵器供与を受けたが、使い勝手がよいものを自国向けに制式採用しようとして製造元を調べたら、卸していたのは海援隊ということも多かった。
日清・日露戦争で既に戦線投入されていた日本製の短機関銃・軽機関銃は塹壕戦で威力を発揮し、英仏もライセンス生産するか、似たような性能の自国製品を使用していた。
戦時中に現れた英仏の戦車なども、元は竜宮企業が日露戦争に送り出したものを基礎としていた。
ドイツ軍の戦車実用化が大戦末期まで遅れたのは、人種差別意識が強すぎて竜宮人が作った新兵器に拒絶反応を起こしたことが原因だった。
人種差別で目が曇っていたのは英仏も似たようなものだったが、英仏と日竜は同盟関係にあった。
日竜軍にとって最初の試練になったのは、ヴェルダン攻略戦だった。
両軍あわせて70万の死傷者数と3700万発の各種砲弾が飛び交ったヴェルダンは、控えめに言っても、この世の地獄であった、
その地獄を経てもなお戦争は終わらなかったことに、生き延びた日竜兵・将校は砲弾神経症で麻痺した驚愕という感情を思い出すことになった。
永田鉄山、小畑敏四郎といった後に昭和の日本陸軍を率いた男達は、ヴェルダンからの生還者だった。
ちなみに日竜軍の投入された戦線は、それほど重要ではなく、英仏軍に比べればまだマシな方だった。
しかし、飛んでくる砲弾の量が多少マシになっただけで、毒ガス攻撃は何度も経験した。
ドイツ軍の反撃を受けて総崩れになって撤退することもしばしばあり、士気の低下にも悩まされた。
多くの日本兵は、自分たちがなぜ故郷から遠く離れたヨーロッパで戦っているのか理解できていなかったし、彼らを指揮する将校も説明不能だった。
お国のためにといわれても納得できるものではなかった。
兵士のストライキなどもしばしばで、日本兵は期待外れの戦いしかできなかった。
逆に竜宮兵は、高い士気を保ち、しばしば独軍の猛攻を跳ね返した。
竜宮兵の士気の高さは目的意識の確立が大きかった。
彼らは自分たちの活躍と犠牲が、あとに続く全ての竜宮人の糧になると信じていた。
海での戦いにおいても、竜宮人の活躍が目立った。
スカパ・フローには、金剛型戦艦4隻が派遣され、イギリス海軍のグランド・フリートにおける最強戦力として遇されていた。
ただし、本番となったユトランド沖海戦では、低速な主力に組み込まれて活動したため、戦果には恵まれなかった。
大戦の殆どの期間を根拠地に逼塞して過ごした戦艦に比べて、より小型の駆逐艦や潜水艦の活動は目覚ましかった。
地中海に展開した日竜海軍は、駆逐艦による通商護衛作戦に従事し、終戦までに連合国側商船800隻、計350回の護衛と救助活動を実施した。
特に救助活動において、竜宮兵の水中工作部隊の活躍は特筆すべきものだった。
彼らは沈んだ船に取り残された人々さえ、持前の潜水能力を生かして救い出した。
日竜海軍は通商護衛のみならず、通商破壊戦も展開し、アレキサンドリアに伊号潜水艦6隻を派遣して、同盟軍商船を攻撃している。
地中海の制海権は連合国軍が掌握しており、同盟軍商船の活動は不活発だったものの沿岸航路を利用した輸送は続いており、伊号潜水艦の攻撃対象となった。
若き龍宮内親王も伊号潜水艦で最前線に赴いた。
内親王は、いくつかの沿岸作戦で同盟軍商船を数隻(合計25,600t)を撃沈し、その実力を証明した。
1917年11月7日には、内親王が座上する伊号第7潜水艦(880t)が、オトラント海峡を密かに突破し、フィウメ港に停泊中だった戦艦フィリブス・ウニティスを雷撃、これを撃沈した。
潜水艦による戦艦撃沈は、日露戦争での戦艦ツェサレーヴィチ撃沈に次ぐものであり、本土ではお祭り騒ぎになった。
日竜海軍が非常に危険な港湾襲撃を行ったのは、戦意高揚のためだった。
陸軍の損害が明らかになるにつれ、厭戦気分が漂うようになった国内世論をなだめるため、軍部は何かしら目に見える形で戦果を必要としていた。
しかし、陸で攻勢にでることは難しく、海でも双方の主力戦艦が港に引きこもって牽制を行う現存艦隊主義を採用していた。
そこで潜水艦による大胆な港湾襲撃作戦が立案された。
潜水艦の隠密性を生かした作戦だと言えるだろう。
問題は、狭いアドリア海で港湾襲撃した潜水艦が生きて帰れるはずもなく、この作戦は危険極まりないものだった。
それでも龍宮内親王が作戦に志願したのは、皇族としての義務感と一人の竜宮人として民族の地位向上のためだった。
実際、伊7は復讐に燃えるオーストリア・ハンガリー帝国海軍の猛攻を受け、瀕死の状態でイタリアのタラントへ帰還した。
伊7はわざと艦内を進水(?浸水?)させ、沈没を擬態して追撃を逃れている。
水中呼吸できる竜宮人の長所を生かした戦法だったが、バッテリーが尽きて浮揚できなくなればそれまでであり、極めて危険な賭けだった。
鉄くず同然の伊7号がタラント入港すると大戦果を聞きつけた人々が殺到し、戦争英雄の誕生を祝った。
オーストリア・ハンガリー帝国軍との戦いに苦しめられていたイタリア人にとって、戦艦フィリブス・ウニティスの撃沈はまさに彼らが求めていた象徴的な勝利だったのである。
後に、イタリアは自力で戦艦セント・イシュトヴァーンを撃沈したときは、その日を海軍記念日にしたほどだった。
号外が前線の兵士にも届けられ、バストアップ(下半身が写らないように)で新聞一面を飾った龍宮内親王の姿に、イタリア男は股間を熱くした。
「アドリア海のヴィーナス」
として、内親王の人気はローマのみならず、パリやロンドンでも沸騰した。
そのため、内親王はマスコミ対応や政治日程をこなすため、船を離れざるえなくなってしまった。
これは実戦的な海軍軍人を志していた内親王にとっては不本意なものだった。
しかし、厭戦気分に苦しむ各国政府が、見た目に優れた分かりやすい英雄の誕生を放っておくわけがなかった。
政治は、血まみれの戦争を糊塗する美しい物語を必要としていた。
ただし、内親王が欧州各国を飛び回って得たものは大きく、欧州各地で幅広い人脈を得て、見識を広めることになった。
政治家としての龍宮内親王が誕生したのは、この時だったと言える。
だが、時間を見つけては前線に趣き、将兵と寝食をともにすることも忘れなかった。
龍宮内親王が前線と後方を行き来して見たものは、社会の上層民と下層民の巨大な意識の断絶だった。
とくに戦争末期は、安全な場所にいるエリートやインテリが合衆国参戦で勝利に対して確信を深めたのに対して、塹壕へ送られる下層民は長引く戦争に疲れ果て、勝利を叫ぶエリート達に不信感を深めていた。
安全な戦線後方であっても、下層民の暮らしは国家総力戦に押しつぶされ、食料を巡る暴動やストライキが頻発していた。
生活や生命を脅かされた人々の心を捉えたのは、勝利を叫ぶ既存の政治勢力ではなく平和や反戦、不平等の是正を叫ぶ社会主義者や共産主義の活動家達だった。
龍宮内親王が社会主義思想に深く理解を示すようになったのも大戦中の経験によるところが大きかった。
あまりにも膨大な、黙示録的な犠牲に対して、既存の価値観や体制が報いることができていないと感じたからだった。
内親王は追い詰められた民衆の怒りの前には、国体も神聖不可侵ではないと考えていた。
「国体は、人が求めているから存在する。代り得るものならば、孔子でも釈迦でもレーニンでも構わない」
と国体を否定するかのような発言をして新聞記者達を唖然とさせた。
内親王としては、戦争による物価高騰(特に米価の高騰)に対して反応が鈍い政治家達に対して、敢えて過激な言葉を使って苦言を呈したのだった。
欧州にいた内親王は、ロシア10月革命に強い危機感を感じており、内地の政治家たちには危機感が足りないと考えていた。
政治が貧困に向き合わないのなら、革命が起きると案じていたのである。
しかし、国体を自明のものと考える大正天皇の反応は激烈なものとなった。
大正天皇と龍宮内親王は元から折り合いが悪かった。
性格的の不一致もあったが、明治天皇から特別に可愛がられた龍宮内親王に対して、大正天皇は思うところがあったと言われている。
欧州の鉄火場に立っていた龍宮内親王と東京にいた大正天皇との認識の差は極めて大きく、両者の思想的対立は不可避だった。
結局、龍宮内親王が帰国するのは、元号が大正から昭和に変わった1927年のことになる。
欧州亡命時代の龍宮内親王。前線視察で着用したトレンチコートは、内親王のアイコンになった。
帰国が不可能になった内親王は、大戦中から海援隊と関係を深めていった。
特にロンドンに拠点(事実上の欧州海援隊総司令部)を構えていた坂本竜馬とは、師弟関係に近いものがあった。
何人か、共有の愛人がいたという噂もある。
また、万が一を考えて帝国海軍は、内親王を陸に留めようとしていたので、船に乗れないことでフラストレーションが溜まった内親王が、海援隊の駆逐艦に乗って対潜戦闘をしていたこともあった。
海援隊はイギリス海軍から外部委託されたド級戦艦を運用していたこともあり、内親王が戦艦ドレッドノートで指揮をとる姿も残されてる。
その傍らには最晩年の竜馬の姿もあり、新旧の竜宮人の指導者交代が行われたと今日では捉えられるようになっている。
さて、その竜馬であるが、1918年に入って戦争の終わりが見えると海援隊をシベリアに送っている。
別に何かの懲罰ではない。
ロシアで10月革命が起きると各国は革命の波及を恐れてチェコ軍団救出を名目に各国が軍を派遣し、革命政権打倒を図ったのである。
日竜は各国軍の中でも最大規模の派兵を行って、シベリアに反ボルシェヴィキ政権樹立工作を行った。
残念ながら、白色政権は完全にロシア国民から支持を失っており、シベリアに緩衝地帯を作ろうとする日竜の試みは失敗に終わっている。
日竜軍も合衆国軍と共にシベリアへ展開していたが、合衆国が1920年に撤退すると足並みをそろえて撤退した。
しかし、海援隊は1922年末までシベリアに残り、活動を続けた。
なぜ、坂本がシベリア出兵に固執したのかは不明である。
一説によれば、シベリアの豊かな天然資源を狙ったとも言われる。
実際、海援隊はシベリア各地で様々な資源調査活動を行っていた。
海援隊は、商用的に有用な資源調査のみならず、様々な自然科学調査も実施しており、シベリア奥地にまで入り込んで調査活動を行った。
海援隊は、学術調査の一環としてポドカメンナヤ・ツングースカ川の上流に落下した隕石のクレーターも調査した。
所謂、ツングースカ大爆発は、日露戦争と第一次世界大戦の間におきた大規模な隕石落下である。
その爆発規模は初期型原爆の186倍に達し、空振によって関東平野に匹敵する規模の森林がなぎ倒され、1,000km先のガラス窓が割れるほどだった。
帝政末期ロシア社会の混乱もあり、しかも落下地点がシベリアの僻地だったことから、落下地点の調査が不十分だった。
そのため、大規模な科学的調査が行われたのは海援隊による調査が初のことになる。
調査隊は、最終的に50~60m級の氷を主成分とする隕石が空中爆発を起こしたという調査結果をまとめた。
隕石が空中爆発してしまったため、地表への落下物は何も発見することができなかった。
もしも、地表への落下物が発見されていれば、それは地球上で風化する以前の小惑星の破片であるため、太陽系の始原を探るうえで重要なサンプルになっていた可能性がある。
しかし、いずれにせよ海援隊がシベリアに深入りしたことは、損ばかりが多く、学術的な調査などは到底、利益に見合うものではなかった。
そのため、合理的な説明付けをしようとして陰謀論が生まれた。
海援隊のシベリア出兵はエイリアンの宇宙船回収のための隠蔽工作だったという荒唐無稽な陰謀論である。
ツングースカ大爆発は、外宇宙から飛来した外星人の宇宙船が墜落したため引きおこされたもので、海援隊は密かに墜落現場から宇宙船の残骸を回収して、隠匿しているとされた。
駐留守備隊や邦人、領事館職員を含む住民全員が虐殺された尼港事件も、事件の真犯人は赤軍パルチザンではなく、調査隊が持ち帰った残骸を巡って、エイリアンとの戦闘が発生したためとされた。
もちろん、そのような事実は存在せず、尼港事件は残虐な赤軍パルチザンの犯行であり、ボリシェビキ政権に対して国際的な非難を巻き起こしただけだった。
「空から銀色の円盤が現れ、怪力光線で町の住民を虐殺した」
という生存者の与太話も時間経過と共に消えていった。
多くの人々は、いよいよ竜馬が衰え、判断を誤るようになったと考えた。
しかし、幕末・明治を駆け抜けた最後の巨星は、戦争の先行きを正確に予想しており、開戦初期から同盟陣営の敗北を予言していた。
こうした予言は、軍関係者も行っており、有名なところでは日露戦争で連合艦隊の参謀長を務めた秋山真之などもその一人だった。
しかし、秋山は軍事考察から同盟諸国の敗北を予言しても、革命が起きて国家が崩壊することまでは予見していなかった。
竜馬は早い段階から、いくつかの国が大規模戦争に耐えられず、体制の大転換、革命は避けられないと明言していた。
坂本の予言どおりに、1917年にロシア革命(2月革命)が発生し、ロシア全土が騒乱状態と堕ちていった。
同年10月には、世界初の共産主義革命が発生し、世界に衝撃が走った。
12月にはドイツ海軍の無制限潜水艦作戦やツィンメルマン電報事件などで反ドイツ感情が沸騰したアメリカ合衆国が参戦し、大兵力が欧州になだれ込んでくることになる。
ドイツ帝国は勝機を完全に失う前に、ロシアと講和して東部戦線を畳むと残された全兵力を使って、賭けに出た。
1918年3月21日の早朝、ドイツのミヒャエル作戦が始まった。
この攻勢には、東部戦線で確立された新戦術である浸透攻撃や開発されたばかりの戦車や短機関銃などの新機材が投入され、さらに英仏軍の指揮権問題などで連合国軍の対応が混乱したことから大きな成功をおさめた。
ドイツ軍は攻勢開始から1週間で60kmも前進した。
しかし、それが限界だった。
双方の砲撃で進撃路が完全に破壊されたことで補給が前進に追いつかなくなり、ドイツ軍の攻勢は停止してしまう。
逆に合衆国軍の増援を得た連合国軍の反撃が始まり、ドイツ軍は秋までにフランスやベルギーの占領地から叩きだされ、いよいよ敗戦が避けられなくなった。
中央同盟諸国も次々と脱落し、ブルガリア(9月)、オスマン帝国(10月)が停戦協定を結んで、戦線から離脱した。
ドイツ帝国も食料不足から暴動・ストライキが頻発しており、国家体制の動揺が抑えられなくなっていた。
国内では食料不足から精神障がい者に対する配給が止まり、餓死が発生するなど、明らかに国家として末期的な症状を示していた。
1918年11月には自殺的な出撃を拒否したドイツ帝国海軍の水兵が武装蜂起し、キールの反乱を端緒にドイツ革命が始まることになる。
1918年11月11日に、フランスのコンピエーニュの森でドイツと連合国は停戦協定を結び、第一次世界大戦はドイツの敗北で終わった。
大戦争を経て、竜馬の予言どおり4つの帝国(ドイツ、オーストリア、ロシア、オスマン)が崩壊したのである。
勝利した連合国側も死屍累々といった有様で、特に英仏の傷は深かった。
欧州全体が地盤沈下を起こす中で、戦勝国となった日竜と合衆国は経済力を拡大し、国際社会の中心へと歩を進めることになる。
その第一歩がパリ講和会議だった。
第一次世界大戦にかかわった全ての国々が集まった世界最大規模の国際会議において、日竜は戦勝国の列に並び、賠償金の5%とドイツ・アフリカ植民地のタンガニーカを獲得した。
日竜がアフリカに植民地を持ったことは、日本国内において画期的な出来事として認識され、歴史的な快挙として喝采を集めた。
賠償金の獲得も日露戦争で果たせなかった課題であり、悲願達成と言えた。
実際には賠償金の支払いは、英仏が優先権を確保しており、日竜への支払いは工作機械や最新技術の供与など提供といった物納であり、金銭的な利益は殆どなかった。
また、アフリカ植民地などは完全に赤字経営(ドイツ時代から赤字だった)であり、不良債権を押し付けられたようなものだった。
それでも欧州列強のように、アフリカに植民地をもったことは日本人の自尊心を満足させるには十分だった。
満足できなかったのは、竜宮人だった。
竜宮人の願いは何一つ叶えられなかった。
日竜はパリ講和会議において戦後の設置が議論された国際連盟の規約に、人種的差別撤廃を盛り込むことを提案した。
日竜が人種差別撤廃を提案したのは、合衆国やカナダで問題となっていた竜宮人移民排斥問題が念頭にあった。
排斥対象は主に竜宮人だったが、日本人移民も制限・排斥の傾向があった。
特に竜宮人排斥の流れは、世界的なものとなりつつあった。
西部戦線においては、オーストラリア軍が海援隊への誤射事件を起こしていた。
実際には、誤射ではなく、完全に意図的な砲撃だったが、オーストラリア軍は事故と主張した。
一瞬即発状態になった海援隊とオーストラリア軍の間にイギリスが入って調停し、誤射ということで和解が成立した。
実際には和解ではなく、イギリスが金ずくで有耶無耶にしただけだった。
世界的な竜宮人排斥に危機感を持った竜宮人にとって、人種差別撤廃はパリ講和会議における最優先事項だった。
そのため、竜宮人はヨーロッパで20万人もの死傷者を出して戦ったのである。
多くの竜宮人が、日竜代表団の提案した人種差別撤廃提案について
「当然の権利」
と認識し、各国はもろ手を挙げて賛成するに違いないと考えていた。
もちろん、それで全ての差別がただちになくなると考えるほど竜宮人達はもう初心ではなかった。
しかし、世界人類が目指すべき理想として人種差別撤廃が国際連盟規約に掲げられることは、今後の反差別闘争において無視できないものになるはずだった。
ブラジルやポーランド、ルーマニアといった国々は賛成の方針だった。
欧米列強の圧力に苦しむエチオピアやアイルランドなどからは賛意が寄せられた。
合衆国の全米黒人地位向上協会 (NAACP) などは、黒人による竜宮人差別を棚にあげて感謝のコメントを発表したほどだった。
しかし、列強国はそれぞれ事情で人種差別撤廃に否定的だった。
イギリスは、大戦中にカナダやオーストラリアといった自治領を戦争遂行に動員しており、彼らの反対を無視することができなかった。
特にオーストリア(?オーストラリア?)の態度は頑迷で、強固だった。
フランスもアフリカなどの海外県が多く、黒人と白人の平等などは考えられなかった。
合衆国においても、黒人には公民権がなく、人種差別撤廃のための国内法の改正は内政干渉にあたるとして、孤立主義者から激しく攻撃された。
合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンは、当初は人種差別撤廃提案には前向きだったが、英仏の同意が得られないと見ると態度を翻した。
最終的にウィルソンは、国際連盟委員会において賛成多数であるにも関わらず、全会一致ではないとして、人種平等案を退けた。
竜宮人勢力において、ウィルソンの十四か条の平和原則の評価は極めて高く、国際平和機構(国際連盟)の設立については熱烈賛成だった。
海援隊のような開国主義の権化のような組織を作って、世界規模で開国性交を推し進める竜宮人にとって、国際連盟はまさに理想的な組織と言える。
現代でも、竜宮人の理想の就職先は、国連職員か海援隊と言われるほどである。
その国際連盟を提案したウィルソンが、よりにもよって人種差別撤廃提案を強引に否決したことは、竜宮人を愕然とさせた。
それでは欧州で竜宮人は何のために死んだのか、全く分からなくなってしまうからだ。
日竜代表団は、文言修正などで食い下がり、総会でも人種差別撤廃を再定案したが、総会においても賛成多数であるにも関わらず全会一致ではないとして、提案は退けられた。
抵抗する日竜代表団に対して欧州のある政治家はこう言い放った。
「人種には2種類ある。白人と白人以外だ」
竜宮の献身も全く報われなかったのである。
人種差別撤廃提案が否決されると主要都市では、竜宮人によるデモ活動が先鋭化して暴動に発展した。
合衆国のシアトルでも、竜宮人が暴徒化して多数の逮捕者を出した。
以後、合衆国において竜宮人による人種平等運動は過熱して先鋭化し、1924年には排竜移民法が成立し、竜宮人の合衆国移民は完全に閉ざされることになった。
大戦に勝利したにもかかわらず、竜宮人の世界に勝利の高揚感は微塵も存在しなかった。
竜宮人の勝利は失われたのである。