龍宮内親王
龍宮内親王
日露戦争の勝利によって、日本は一等国の列に並ぶことになった。
戦後に欧米列強は日本の力を認めて領事裁判権や協定関税を手放し、幕末以来の懸案だった不平等条約問題は解決した。
東アジアの火薬庫となっていた朝鮮半島についても日本の勢力圏と確定し、1910年に日韓併合で決着がついた。
ちなみに初代統監は、大久保利通が任ぜられた。
大久保は征韓論で敗れて下野した後は、西郷隆盛の主導となった明治政府から警戒されており、西郷の死後になってようやく公職復帰がかなった。
そのため、本人は張り切っていたが、現地では日本の支配に反対する義兵運動が活発化しており、明治天皇からも無理を避けるように忠告されていた。
しかし、大久保は抵抗運動を容赦なく弾圧するなど、強面の姿勢で朝鮮統治に臨んだ。
さらに旧僻を極める両班制度や孔子廟(儒教)の破壊や、巫俗の禁止など朝鮮の独自性といえるものを徹底的に破壊したことについては、当時でも賛否両論があった。
しかし、大久保は一顧だにしなかった。
徹底的な破壊と焦土からの復興こそが、朝鮮再生の道と大久保は確信していた。
そのため、1909年10月26日にロシア政府高官との会談のためにハルビンを訪れた大久保が、朝鮮人民族主義運動家の安重根によって射殺されたことは、さほどの驚きではなかったと言われている。
むしろ、まだ生きていたのかと驚く意見さえあった。
明治維新を動かした維新三傑のうちで、大久保は最も目立たない存在だった。
木戸孝允のように自由民権運動を推進したり、西郷のように日露戦争まで明治政府の中心にあったわけではないからである。
明治の殆どの期間を故郷の鹿児島で逼塞して過ごしていた大久保は、既に世間から忘れ去られた存在になっていた。
朝鮮統監に抜擢されたのは、昔、大久保の世話になったことがある伊藤博文の情実人事と言われている。
大久保の死で維新三傑が全て世を去り、他の元老達も鬼籍に入るか、体力の衰えから影響力を失っていった。
日露戦争後に影響力を残していた元老は、立憲政友会を立ち上げてキングメーカーにおさまった伊藤博文ぐらいなものだった。
その伊藤も首相奏薦以外は政治の表舞台から姿を消していた。
日露戦争後も活発に活動していた元老は、坂本竜馬ぐらいなものだった。
坂本は戦後も経済を舞台に最前線で活動を続けていた。
ハワイの私邸にいることは殆どなく、さらなる利潤をもとめて海外を飛び回っていた。
海援隊所有の船には、いつでも竜馬が海外出張のために乗り込んできてもいいように会長室があらかじめ用意されているほどだった。
常在戦場という言葉があるとすれば、それは竜馬のようなものと言えるだろう。
なお、竜馬を元老に含めるか、否かには論争があり、坂本が明治帝や大正帝から勅命や勅語を受けたことはないので、法的には元老とは言えない。
しかし、他の元老も勅命や勅語を受ける前から元老として活動しており、坂本の影響力を考えれば、元老として遇するのが適当と言える。
竜馬は殆ど明治政府で活動したことはなかったが、維新三傑が亡き後となっては、元老の中の元老とも言うべき存在となっていた。
何しろ竜馬は維新三傑が明治維新の裏で何をやっていたか、その暗部を全て知る立場にあった。
キングメーカーの伊藤も、竜馬との意見対立は慎重に回避した。
ただし、竜馬を初見で国家の最重要人物の一人と見分けることは困難を極める。
自分で生んだ分を含めて25人も子供にも恵まれ、孫やひ孫さえ既にいたのだが、竜宮人の常で外見で年齢を判断することはほぼ不可能だった。
80歳をこえても流行のミルクホールにでかけて、若者からナンパされている姿が目撃されているほどだった。
本人も満更ではなさそうだったと言われている。
それはさておき、大久保の死から2年後、明治天皇が崩御して年号が大正に変わった。
明治大帝の死により、日竜帝国内は一種の虚脱状態となった。
明治という時代は、明治天皇と共にあったと言っても過言ではなかった。
明治帝は外国文化の流入を嫌っていたが、政治の要請にしたがって朝廷で禁じられていた牛肉や牛乳の飲食を解禁し、散髪や脱刀を率先して取り入れ、洋服を着こなすなど文明開化の模範的役割を果たした。
幕末に攘夷か開国で悩みに悩みぬいた日本人が、あっさりと文明開化を受け入れられたのは明治天皇の影響が大きかったといえる。
最初から開国で決まっていた竜宮人にとっても、明治天皇は重要な文明開化のアイコンだった。
洋装をした明治天皇の御真影を見て、新しい世界を見つけた竜宮人は数多い。
ただし、明治天皇の基本姿勢は、過度な西欧化には反対で、日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れるというものだった。
是々非々と言えるだろう。
竜宮人の開国性交にも疑問を述べることが多かった。
移民の必要性は認めるものの、海を超えて押しかけ女房のようなことをしなくてもいいのではないかと考えていたのである。
そのため、竜宮人嫌いと誤解されることになったが、明治天皇の女官には竜宮人もいたので、単純に趣味の問題だった。
明治の元老達は全世界で急速に勢力拡大する竜宮人を取り込むことに細心の注意を払っており、天皇に仕える女官から竜宮人の御子誕生を願っていた。
その願いは、1894年3月3日に叶えられ、明治天皇の第十六子として竜宮雅子内親王が誕生した。
竜宮内親王は、竜宮人初の皇族として竜宮人勢力の期待を一身に集めることになる。
なお、明治天皇の子息は虚弱体質の者が多く、大正天皇も健康に優れなかった。
しかし、竜宮内親王は幼少の頃から健康に恵まれ、
「内親王ではなく、皇子にすべきだったかもしれない」
と明治天皇が漏らすほど活発な性格だった。
両性具有の竜宮人を皇子(男性)とするか、内親王(女性)と考えるか激論となったが、万が一にも皇位が回ってきては困るので内親王とされた経緯がある。
明治天皇は孫ほどに年が離れた末の子を溺愛した。
天皇の威厳を保つために、私生活を厳しく律していた明治天皇だったが、老いてから生まれた竜宮内親王には無暗に甘かった。
幼年期の龍宮内親王。内親王は明治天皇から溺愛された。そのことが皇位継承者として厳しく育てられた大正天皇との間に微妙な影を落とした。
竜宮内親王の人格形成に悪影響があると危機感を覚えた西郷隆盛は、内親王に政治や軍事的な素養を身に着けさせるために監督役をつけることを進言して、児玉源太郎を就任させた。
龍宮内親王は児玉から薫陶を受け、
「猫耳やメイド服に頼るは甘え」
と児玉の教えを振り返って、外見だけではなく、内面を研鑽する大切さを説いている。
児玉は龍宮内親王については、
「短気で激情型」
と評して内省するように促したが、物事に動じない胆力と責任感の強さ、カリスマ性については高く評価している。
ただし、学習院で学友を片端から食い散らかしたことについては厳しく説諭した。
教師にまで手を出したと言われており、すぐに男性教諭が内親王周辺から取り除かれたが、女性教諭でも大して変わらなかった。
何しろ、竜宮人は両性具有だからである。
むしろ女性教諭の方が酷かったという話もある。
最終的な解決として教師を全員、竜宮人にすることで内親王の乱行は阻止された。
その後、龍宮内親王は学習院を経て、皇族の義務として海軍に入り、1905年12月、海軍士官学校(17期)を卒業して、海軍少尉に任官した。
竜宮人の常として、潜水艦勤務を熱望して、希望どおりに伊号潜水艦勤務に配属され、軍人生活をスタートさせた。
ちなみに潜水艦は、竜宮人以外の勤務者は皆無だった。
稀にハーレム願望のある勇者が潜水艦に乗り込んでくることもあったが、動力に使用するディーゼル機関の匂いに劣悪な生活環境が醸す曰言い難い生活臭と甘ったるい竜宮人の体臭がブレンドされた臭気に耐えられず、ほぼ100%逃げ出すことが常だった。
ただし、何事にも例外はあり、潜水艦乗りになった日本人もいないわけではない。
ナポレオンのように腐ったチーズの匂いでヌける人間も皆無ではないのだ。
しかし、話の本筋ではないのでこの場では割愛する。
黒船来航から始まったナショナリズムの高揚も、元号が変わったころから急速に覚めていった。
それは、社会が共有できる物語の喪失と言い換えることができた。
国家主義者が幕末から明治末までの時代を一つの理想形とするのは、国家と民族が一体化して一つの目標に向かって歩いた団結の時代だったからといえる。
富国強兵に代わって人々が求めたのは、これまで後回しにされてきた個人的な生活の充実、物質的な繁栄だった。
明治時代を作った元老達は、こうした変化に警戒心を抱いたが、その流れを押しとどめることはできなかった。
何しろ生産と消費の拡大こそ、彼らが持ち込んだ資本主義の基本であるからだ。
日竜の資本主義にとって大きな転機となったのは、日露戦争だった。
この戦いにおいて、日本政府は最終的に120万人を動員し、50億円という巨額の戦費を使用した。
戦費の内訳は、租税が5億円、外債15億円で、残りの30億円は日銀が引き受けた。
この軍事支出は国家予算の5年分に相当した。
日竜軍が戦線に投入した飛行機や戦車のプロトタイプやトラックといった新兵器は、効果的だったがとても高価だった。
もちろん、これだけの通貨発行を金本位制を維持しながら行うのは不可能だったので、日露戦争中からしばらく、日本政府は金兌換を停止している。
外債の15億円は、国外から戦争遂行に必要な物資の調達(輸入)で使ってしまったので、国内には残らない金だった。
しかし、残りの35億円は国内経済で還流することになり、日露戦争後に巨額の消費需要が動き出すことになる。
いつの時代も政府の財政出動こそ、経済の起爆剤だった。
戦争が、人類の歴史において破壊だけではなく、発展にも寄与してきたのは、平時では考えられない額の財貨が動くからである。
明治時代を通じて一通りの産業革命を完成させていたことも大きなプラス材料となった。
需要があっても、供給がなければ市場は成立しないからだ。
戦争特需が消えた1905年こそ深刻な経済不況に陥ったものの、翌年から日竜経済は全体として上向き、1907年の上半期からは好景気となった。
戦後に、政府が軍縮を推し進めて減税を行ったことも経済発展を促した。
日竜海軍は半分ぐらいは沈むはずだった六六艦隊の大半が生き残ってしまったため、膨大な軍事予算を浪費するようになっており、軍縮は不可避の情勢だった。
しかも、鹵獲したバルチック艦隊の艦艇(石見)などもあって、下手をしなくても世界最強級の艦隊戦力とみなされるようになっており、英米のいらぬ警戒心を招きかねない代物になっていた。
特にド級戦艦の香取と鹿島は、英海軍のドレッドノートが就役(1906年)するまで世界最強の戦艦であり、日本海海戦でも2隻だけでバルチック艦隊の戦艦の半数を撃沈する火力を発揮した。
日本海海戦の結果を受けて、前ド級戦艦ではド級戦艦には手も足もでないことが明らかになり、世界各国海軍はド級戦艦の建艦競争に狂奔することになる。
仮想敵のロシア海軍は壊滅し、英米は満州利権を分け合うステークホルダーだったから、戦後の軍備は明らかに過剰だった。
軍縮が議論されるのは当然の流れである。
そのため、一部の”軍神”となった軍人達の中には、新たに得た権威を使ってポストや予算を守ろうと画策した。
しかし、衰えたとはいえ元老も多くは健在で、特に伊藤博文や坂本竜馬は持論の国際協調主義から、軍縮を支持した。
また、多くの犠牲を払った国民に何らかの報償を与える必要もあり、減税のために軍備削減が進められた。
六六艦隊の半数(特に前ド級戦艦)は、海外へ売却された。中には、ロシア帝国海軍に売却された船もあった。
同盟国のイギリスは、日竜が賢明にも自ら海軍拡張競争から降りたことを高く評価した。
番犬に必要なのは、噛みつく相手をきちんと選ぶことができる躾の良さだった。
自分の力を見誤って主人に噛みつくような狂犬など、あってはならなかった。
戦時の財政出動と減税によって経済が上向き、ロシアから賠償金が得られなかったことで、今後も耐乏生活が続くと予想していた人々の不安は、よい意味で裏切られた。
特に海援隊などの竜宮企業は日露戦争遂行のために様々な軍需物資を生産したことから、資金が集中しており大きな発展をとげた。
日露戦争で軍需輸送のあり方を大きく変えたトラックは、軍需のみならず民生用としても世界中から引き合いが来て、笑いが止まらなかった。
飛行機や自走砲も同様だった。
機関銃も日露戦争を経て世界中に輸出された。
戦時中には正面兵器の影に隠れてあまり注目されなかったが、竜宮企業が開発した抗生物質は日露戦争で初めて大規模に利用された。
抗生物質そのものは、実は日露戦争以前に既に完成していたのだが、製造元の咲清研究所が梅毒治療薬として販売していたので、殆ど注目されていなかった。
梅毒のような感染症に効果があるのなら、そのほかの感染症にも効果があると考えられ、前線に送られたところ、劇的な薬効が認められたという経緯がある。
日露戦争後に、結核患者にも治験が行われ、抗生物質は不治の病だった結核に対する特効薬であることが判明した。
抗生物質の輸出やパテント料は、咲清研究所を一躍、世界規模の製薬会社へと押し上げる原動力となった。
医療に対する多大な功績が認められ、ノーベル賞の選考対象となったが、
「なにがノーベル賞ですかぁああ!!こんな媚薬中毒者のたまり場に権威なんてありませぇええん!!今更、ノーベル賞貰ったぐらいで、たいして変わりませんよぉぉおおお!!」
などと開発者が述べて断ったため沙汰止みになった。
こうした事例は他にもあり、日露戦争で防疫活動に使用されて大きな効果があったDDTは、性病の一種であるケジラミ症対策に開発されたものだった。
ケジラミに効くのなら他のシラミに効果があると考えられ、不衛生な環境でシラミに苦しめられていた前線に送られ、強力な殺虫効果を発揮した。
シラミが媒介する発疹チフス対策にも効果があり、DDTの使用によって日竜では発疹チフスが撲滅されることになった。
マラリアが蔓延していた台湾やフィリピンでもDDTが使用され、マラリアを媒介するハマダラカ蚊を制圧し、マラリア撲滅に貢献している。
また、農薬としても有用であり、全世界で農業生産力を画期的に高めた。
DDTは薬効成分が高く、長期間に渡って効果が続くうえに、非常に安価という特徴があり、販売当初は夢の化学物質として歓迎された。
後に生物濃縮などの問題から、販売・使用が禁止されることになるが、それまでの間に全世界で数十億tが使用された。
DDTを開発した竜宮企業のタイマニ化学は今日でも世界有数の化学工業メーカーだが、その基礎を築いたのはDDTの販売益とパテント収入である。
日露戦争は、ある意味で竜宮企業の先端技術を示す展示会だった。
戦争という巨大な破壊行為が、それまで殆ど無視されてきた竜宮の科学力を示すコマーシャルとなり、戦後の発展に導いたと言える。
当時の竜宮人の勢いを示す指標として、全世界の特許出願の40%が竜宮企業関係で占められたことがあげられる。
「目新しいものを見たければ、竜宮企業に行け」
というのは、世界中の好事家や商売のネタを探すビジネスマンの合言葉になったほどだ。
各国は竜宮人が次々と生み出す先進技術に驚愕し、首を捻ることになった。
19世紀半ばまで東アジアの弧状列島に引きこもっていた人々が、欧州列強さえ持っていない先進技術を次々とものにしていくのは、控えめに言っても異常だった。
しかし、竜宮人のエンジニアや研究者などは、
「FTLまではチュートリアル」
「落ちぶれても元星間種族」
とでも言わんばかりの態度で、高度先進技術を次々と開発していった。
アインシュタインが1906年に特殊相対性理論を発表すると、いち早く取り入れた応用研究や実用品開発に着手したのも竜宮企業だった。
決して、相対(男女)とか、性とかが、心の琴線に触れたからというわけではなく、科学技術に対する高度な理解がなせる技である。
しかし、科学力がどれほど優れていても、日竜には資本力がなかった。
20世紀を迎えたばかりの頃、世界の富の大半を抑えていたのは、欧米列強だった。
幸いなことにその内の2国を日本は、日露戦争で獲得した満州の鉄道利権を使って、味方に引き込むことに成功していた。
大英帝国とアメリカ合衆国である。
ロシアから賠償として得たハルビン以南の東清鉄道が、日英米共同経営の満州鉄道株式会社となり、日英米がそれぞれ1億円ずつ出資することになった。
英米は競い合うように新たに手に入れた経済利権への投資を行った。
金余りの英米にとって、植民地への投資こそ最も確実なリターンが見込める利殖だった。
特に合衆国の満州進出にかける意気込みは凄まじいものだった。
何しろ1853年の黒船来航は日本を開国させて、対中の貿易の中継地点化するために行われたものだった。
その後に南北戦争で対中ビジネスは暗礁に乗り上げたが、日露戦争のおかげで中華市場進出が可能になった。
合衆国のウォール街は、膨大な犠牲者を出した日露戦争を神に感謝したほどだった。
日本人や竜宮人が旅順で血みどろの死闘を演じていた時、合衆国人はこれでようやく中国市場進出という悲願が達成されると祝杯をあげていたのである。
日竜の戦争遂行と講和において、合衆国人として重要な役割を果たしたのがエドワード・ヘンリー・ハリマンとなる。
既に合衆国で鉄道王として成功をおさめていたハリマンは、世界を一周する鉄道網の完成という遠大な野望をいだいていた。
そのために満州鉄道に多額の投資を行ってロシア帝国と交渉して、シベリア鉄道との相互乗り入れを実現した。
さらにイギリスの所有する揚子江鉄道との相互乗り入れもハリマン主導で進められた。
1912年には、上海からフランスのカレーまで続くユーラシア大陸横断鉄道の切符が発売され、世界最長の鉄道路線が開通した。
残念ながらハリマン自身は1909年に亡くなっており、自身の夢の究極形を見ることはなかった。
しかし、第27代合衆国大統領に就任したウィリアム・ハワード・タフトが、強力にドル外交を推し進め、亡きハリマンの夢を叶えた。
ドル外交は、前任のセオドア・ルーズベルト大統領が進めた軍事力を背景とした棍棒外交に対する反発への反省に基づくもので、経済力による平和的な外交を目指したものだった。
実際には、合衆国企業による経済支配強化であり、中南米の地域経済を不安定化させたため、武力介入を行わざるを得なくなり、逆効果になった。
しかし、満州においては日英米のバランス・オブ・パワーが実現し、大成功をおさめた。
とにかく日竜には金がなかったので、合衆国のドル資本投下は渡りに船だったのだ。
企業進出も盛んに行われた。
しかし、さすがに地球を半周して現地に人を送りこむのは効率が悪いことや、日本との関係維持のために、進出企業の多くは日本との合弁会社となった。
合弁会社でなくとも、現地のスタッフは日本人であることが多かった。
植民地人の挑戦を受けた大英帝国も満州に多くの資金を投じた。
満鉄の蒸気機関車なども英国製の最新型が導入された。
当初はリーズナブルなアメリカ製中古品が検討されていたが、鉄道発祥地のイギリスがプライドと技術試験をかねて最新型の売却に応じた。
最新型といっても、AI制御でしゃべったり、表情が変わるわけではなく、当時の技術水準における最新型という意味である。
その整備を担当するのは日本企業で、下請けであっても英米の最新技術に触れられることは大きな経験だった。
こうした英米資本の参入を先導したのは、国際企業の海援隊だった。
外資導入には日本国内から慎重論もあったのだが、会社創設時点から国外で活動してきた海援隊が間に入ることで、円滑な外資導入が可能となった。
もしも海援隊がなければ、日竜経済界は門戸を閉ざしたまま自己資金だけで満州開発を行おうとして、遅々とした歩みを半世紀以上も続けることになっただろうと言われている。
海援隊傘下の米国企業の殆どが満州に軒を連ねることになり、その中でもN.W.Iは満鉄を除けば、満州における最大の企業となった。
N.W.Iが開発した丁型自動車は、ベルトコンベアを使った流れ作業による大量生産による価格低減を前提としており、価格低減のために1円でも安い労働力を求めていた。
中国市場や日本市場で販売するなら、合衆国から輸送するよりも現地生産するほうが安上りなため、奉天にはN.W.Iのプラントがつくられた。
ただし、エンジンなどのコア技術をいきなり移転するのは不可能なため、ノックダウン生産から始まり、10年かけて徐々に部品を現地生産化して最終的に全てを現地生産で賄う計画だった。
N.W.Iの下請けに参加した企業のほとんどが、以後、何らかの形で自動車産業に関わるか、自ら自動車生産を手がけることになる。
産業史の研究においてはN.W.Iの満州進出こそが、日本の自動車産業の始まりとすることが多い。
自動車生産に必要な高品位な鋼板も、鞍山に進出した海援隊系のセラ鉄工が、八幡製鉄所が子供のように見える巨大製鉄所をつくって大量生産した。
さらに1913年には、黒竜江省で合衆国企業の探査によって油田が発見され、日竜が必要とする石油100年分が吹き出すことになる。
石油探査に成功した合衆国企業の、スタンダード・オイルだった。
さらにイギリス系のロイヤル・ダッチ・シェルも油田開発に加わって、黒竜江油田の開発は急速に進められた。
日竜でも海援隊が出資して竜宮石油を設立し、シェルから技術提供を受けて1916年から操業を開始した。
満州で発展する重工業では教育を受けた労働者が大量に必要になり、明治維新後の義務教育を受けた日竜の労働者が大量に雇用された。
20世紀初頭、多くの移民が満州に渡った。
なお、特に推奨しなくても竜宮人はやたら移民しまくるので、この場合の移民は日本人を意味する。
明治時代の主な移民先は、合衆国や中南米だった。
しかし、合衆国では徐々に日本人移民に対する流入制限が議論されるようになっており、政府にとって新しい移民先の確保は、日米関係の安定化のために急務となっていた。
ちなみに排日移民法の施行は1924年だが、竜宮人の北米移民制限は1912年から始まっていた。
ただし、移民した日本人の配偶者という形で合衆国に移民する抜け穴が存在しており、1912年以後も合衆国内の竜宮人人口は増え続けている。
それが東海岸の保守的なエスタブリッシュメントの警戒感を呼び起こすことになった。
合衆国内での竜宮系企業の躍進も竜宮人排斥運動を盛り上げていた。
また、日露戦争の勝利で、日竜二重帝国の軍事力が侮れないレベルに達したことも理由の一つにあげられるだろう。
「和合を以て貴しとなす」
という思想のもとに、幕末の開国以来、竜宮人は宗教的な情熱で、異人種間の融和と性交を推し進めたが、20世紀に入って大きな曲がり角にさしかかったと言える。
多くの竜宮人は、合衆国の移民制限に衝撃を受けることになった。
合衆国人の好みを完璧に把握して、爆乳やオーラルセックスやら、ハードコアなのを覚えたのに、なぜ排斥されるのか理解できなかった。
そういうプレイなのかと考えて、暫くの間は胸をときめかせたりもしたが、直ぐに本気で排斥されていることに気づいて愕然とするのだった。
多少なりとも我が身を振り返って、世論からの評判が悪い過激な道祖神崇拝を控えるようにもしたが、事態は改善されなかった。
過激道祖神崇拝とは、竜宮人の宗教で18世紀から19世紀の長野県や東北地方など、竜宮人が入植地した地域で生まれた生殖器崇拝である。
道祖神自体は、日本の古来からある信仰であり、村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神である。
竜宮人の間では専ら夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」として扱われており、男根石と女陰石を崇拝する形で信仰を集めた。
穏健な道祖伸信仰は炉端に男根石や女陰石を設置して参拝することや、神棚に祭る程度のものであり、竜宮人の素朴な信仰の現れと言える。
問題となった過激道祖伸信仰は、信仰のために男根石を局部に挿入し、一体化したまま日常生活を送るというもので、警察による取り締まりの対象となった。
単なる変態行為という指摘もあるが、竜宮人の多くはその指摘には当たらないと考えていた。
竜宮人にとって性癖は、経典のようなものであるからだ。
1906年11月3日付け第193号大審院判決でも過激道祖伸信仰は宗教行為と認められている。
しかし、いくら宗教行為だったとしても満員電車の中でお経を唱えるようなことが、世間の理解を得られるとは限らない。
筆者も先日、通勤電車内で過激道祖伸信仰に遭遇したが、声の大きさがやや気になった。
静かに悶えている程度なら許容できるが、声をあげるなら竜宮人専用車両に移るべきだと思う。
さらに余談だが、神奈川県にある金山神社は、性の神として竜宮人から特別の信仰を集めており、毎年4月の第2日曜日に催される「かなまら祭」に大勢の竜宮人が集まる一大イベントとなっている。
かなまら祭は、御神体の男根石を醜女が社まで運ぶことで神力を授かって神女となるという儀式である。
この時、醜女に触れると触れた者の厄が醜女に移るとされており、膨大な数の竜宮人が厄を落とすために醜女に触るため金山神社に集まり、くんずほぐれつすることになる。
ちなみに参加者は全裸であることが原則となっており、愛知県の国府宮はだか祭りと並び、秋田県のなまはげ柴灯祭、長野県の御柱祭と共に日本四大奇祭の一つに数えられている。
なお、国府宮はだか祭は近年になってテレビ放送されるようになったが、金山神社のかなまら祭りがテレビ放送される予定はなく、見学するには現地に赴くほかない状況である。
多くの場合、見学するだけでは済まないので注意が必要である。
これもまた余談であるが、金山神社に並んで竜宮人の信仰を集めているのが埼玉県の蓮田神社で、7月の蓮田祭の期間中には、日本全国から45万人の竜宮人が集まり、蓮田市の一大イベントとなっている。
蓮田神社に信仰が集まった経緯は諸説があるが、蓮田祭では黄色のレインコートのような衣装に身を包んだ竜宮人が溢れかえり、町全体が異様な雰囲気に包まれる。
祭の期間中は、参加者の一人が蓮田の化身となり、蓮田の化身を見つけて願い事を告げるとそれがどのような願いであっても叶うと言われている。
蓮田祭は、海援隊の手によって合衆国に持ち込まれた。
マサチューセッツ州のインマス市では毎年ハスター・フェスティバルとして蓮田祭が開催され、大勢の観光客でにぎわっている。
話が逸れたが、竜宮人は、合衆国が幕末に開国を迫ってきたことを忘れておらず、裏切られたと考える者も多かった。
20世紀初頭から排斥が強まる竜宮人の移民先として満州は重要で、英米企業の進出と求人は、日本政府にとっては渡りの船と言えた。
日本がロシアから得た遼東半島の大連は、英米の企業進出によって急速に発展し、日本人の都市計画によってモダニックな大都会に成長していった。
華やかな大都会を闊歩するのは、白人と日本人と八本足の竜宮人達である。
ポーツマス条約のときには、講和反対や利権分割反対で暴動まで起こしてたことを人々はすっかり忘れて、アメリカ・マネー万歳を叫んでいた。
英ポンドの存在感も小さいわけではなかったが、香港や上海に力を入れているイギリスに比べて合衆国の満州への資本投下は桁が違った。
イギリスの経済政策立案者は、早ければ10年以内に大連が上海や香港のような中国の経済中枢都市になると予想した。
それに伴って、中国市場のかなりの部分に合衆国企業が食い込み、イギリス企業の市場シェアを低下させるのは不可避とし、英米の経済対決に備えなければならないとしていた。
極東においてもイギリスの世紀の終わりが見え隠れしつつも、殆どの日本人はそれに気づくこともなく、戦後の繁栄を謳歌していた。
ただし、その繁栄が中国人の犠牲の上に成り立つものだったことは歴史記録に明記しておくべきだろう。
日清戦争で列強国の蚕食が進んだ清は、義和団事件を経て日露戦争では、日竜とロシアの領土分割の対象とされ、完全に止めを刺された。
銃剣の力で土地を奪われた中国人の農民は、都市部に流れて低賃金労働者になるか、馬賊になるか、あるいは革命家になるしかなかった。
辛亥革命(1911年10月-1912年2月)は起こるべくして起きたと言える。
アジア初の共和政体国家となった中華民国だったが、政情は安定からほど遠かった。
何しろ革命家たちは、旧体制を打倒することはできても、新国家を(しかも共和政体という中国の歴史上一度も存在したことのない政体で)再構築する能力はなかった。
革命のリーダーである孫文でさえ、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。
要するに当面は、自分が独裁的な権力を振るうということだった。
革命の軍事的な実行者である袁世凱にいたっては軍閥の首領であり、自らの権力保持しか頭になかった。
最終的に袁は中華皇帝を名乗ることになるので、目指すところは孫文も袁と大差なかった。
要するに、辛亥革命は共和革命を装った中国の歴史によくある易姓革命でしかなかった。
一体何のための共和政体なのかは不明だったが、少なくとも対外的には(特に合衆国には)良性の反応を得ることができた。
ただし、合衆国も既得権益である満州については譲るつもりは全くなかった。
20世紀の大半の期間において、合衆国の対中外交は民主化された中国という夢と満州の特殊権益の護持という両立しがたい命題を抱えて迷走することになる。
合衆国の特殊権益護持が最大に発揮されたのが、満州王国の建国(1913年)だった。
革命政府の混乱や意見対立の隙間を縫うように清朝遺臣達は生き残りをかけて日英米に接近し、満州の特殊権益の護持を交換条件に、ラストエンペラー溥儀を奉戴して満州王国を建国を持ちかけた。
紫禁城に軟禁されていた溥儀の脱出は、イギリスの諜報機関が実行に当たり、新国家建設に必要な費用の諸々は合衆国の銀行団が手配し、細かい実務については海援隊の出先機関が担当したと言われている。
この建国謀略は、あまりにも上手くいきすぎてしまったので、その後に日英米はこの種の謀略を簡単に実行できると考えて、それぞれが別の方面で大失敗を犯すことになってしまうのだが、それは後述することとする。
孫文と袁は、満州王国への対応を巡って対立し、最終的に袁は孫文を追放した。
元は清朝の軍人だった袁世凱にとって、孫文が唱えた溥儀抹殺などはあまりにも刺激が強すぎた。
また、自分が皇帝となり強権政治を行うことを考えてた袁は、孫文と権力を分かち合うつもりなどさらさらなかった。
孫文は権力奪取のために第二次革命を画策し、中国をさらなる混乱の渦へと巻き込んでいくことになる。
中原の混乱によって辺境軍閥の台頭を招くことになり、20世紀初頭の中国は統一を失って、列強国による分割と植民地状態が固定されていった。
日米の満州利権、英の香港利権、仏の広州湾利権、独の山東利権など、列強による中国の分割はそのまま列強による世界分割の縮図と言える。
そして、それは19世紀から始まった欧米列強の帝国主義が最高潮に達した瞬間だった。
アフリカ奥地や太平洋の孤島にさえも列強国の旗が立ち、地図の空白地帯は全て埋め立てられた。
1911年12月14日に南極点にノルウェーのロアール・アムンセンが南極点に到達したのも、帝国主義的運動の一環と見ることができる。
南極点を目指した探検家たちは、多くの場合、帝国の威信を背負っていた。
彼らが最後の地図の空白を埋めたのが、第一次世界大戦の直前だったことは極めて示唆的と言える。
地図の空白が埋まったということは、塗り絵のような帝国主義的な拡張は物理的に不可能になったということだからだ。
それでも帝国主義を捨てられないのなら、次は植民地を持たない帝国が、持っている帝国から奪いとるしかなくなる。
サラエボの銃声が、瞬く前に列強同士の大戦争に発展したのは、帝国主義が限界に達した故におきた論理的な結論と言える。