二重帝国成立と日露戦争
二重帝国成立と日露戦争
まことに小さな国が開花期を迎えようとしていた。
という歴史小説の冒頭は、今日では聊か適切さを欠ける表現であると考えられるようになっている。
なぜならば日本列島の面積は、大英帝国の本拠地であるブリテン島よりも遥かに広かったし、少ないと言われる資源(鉄や石炭)も産業革命を進めるに十分なほど埋蔵されていた。
さらに人的資源に関しても、他の列強国よりも恵まれていたことが今日では分かっている。
竜宮人のもつ旺盛な性欲と高い科学技術は驚異的としか言えなかった。
前者については、一部の社会学者からは性欲ではなく、コミュニケーションの一つの在り方であるという指摘もある。
しかし、挨拶代わりに性交というのはどこまで妥当なのか疑問である。
コミュニケーションといった末端の話ではなく、竜宮人の世界観そのものが歌麿という考え方もあり、筆者としてはまるで青年雑誌の世界に生きているような印象を受けるところである。
そうした有利な諸条件があったとしても、19世紀末を迎えた日本は、半世紀前まで極東の弓状列島に閉じこもっていた国とは思えないほど、領土を広げていた。
むしろ、広げすぎていたと言えるだろう。
東京の宮城におわす明治天皇でさえ、日本という国家の領域が正確にどこまで広がっているのか分かりかねていたほどだった。
19世紀末の日本が抑えていた領土は、日本列島から始まり、沖縄、台湾から南回航路で南太平洋の各地へと広がっていた。
日本列島の2倍も広いパプワ島さえも日本の領土に組み込まれていた。
パプワ島からさらに東へ進むと日領太平洋植民地の中心地となる三日月島とラバウルがあり、四方にはマーシャル諸島ソロモン諸島や、パラオ、マリアナ諸島(グアム島を除く)が広がっていた。
さらに東へ進んで太平洋の中心にいけば、実質的には竜宮人の国家となっていたハワイ王国がある。
環太平洋帝国を名乗っても不思議ではないほど、日本という国家がもつ領域は広大だった。
ただし、海外領土の大半に住むのは日本列島に古来から住まう民ではなく、海底からやってきた竜宮人達だった。
竜宮人との協力で急速に海外領土を獲得した日本だったが、広がる領域に付随して増える竜宮人の扱いについてお手上げ状態で、国家内国家と化していく海援隊に丸投げするしかなかった。
幸いなことに同じ祖をもつ竜宮人は日本語を話すことができたから、意思疎通に問題はなかったが、開国性交を掲げて世界中に散らばって増え続ける竜宮人の扱いには苦慮した。
日本国の歴史において、竜宮人という日本人以外の異民族を抱えているということ自体が、イレギュラーな状態なのである。
このイレギュラーがなぜ日本人が全く問題とせず受け入れているのかは、当の日本人にも分からなかった。
「是非もなし(ワケガワカラナイヨ)」
と言うしかなかった。
しかも、この調子で竜宮人が増え続ければ、日本国において日本人が過半数を割る可能性があった。
可能性というよりは、それは100年以内に訪れる確定的な未来事実というべきだった。
竜宮人は日本国内に留まることを良しとせず、どれほど宗教的な理由による偏見や人種差別に遭おうとも、ありとあらゆる手段を使って移民と異人種婚姻を推し進めた。
まるでそうすることが、民族に組み込まれた明白な天命であると確信しているような熱意だった。
フィリピンなどはアメリカ人の努力にもかかわらず、次から次へと上陸してくる竜宮人によって、下からの竜宮化が始まっていたほどである。
日清戦争で獲得した台湾も最初に入植したのは竜宮人だった。
どれだけ現地人から忌み嫌われようとも体当たり(裸体)を繰り返して、いつの間にか確固たる地歩を確保しているので、ある意味で恐るべき侵略的外来生物と言えた。
本人達には悪意はなく、むしろ気持ちいいことをしているのだからご褒美というぐらいの認識だったので、非常に性質が悪いと言えた。
19世紀末までに竜宮人はフィリピンのみならず、仏領インドシナや蘭領インドシナにも広がりつつあり、各地では日僑や竜僑と呼ばれる現地社会を築いていった。
こうした移民事業に熱心に取り組んだのが海援隊で、総帥の坂本竜馬は全ての竜宮人にとって水先案内人、指導者に例えられていた。
海援隊も竜僑を取り込むことで組織の厚みを増し、販路や傘下企業を増やして組織拡大を図っていた。
海援隊が準軍事組織を保有していることを考えると、海援隊は竜宮人にとって国家に等しい存在だった。
日清戦争後は、軍事組織をさらに拡大して、明治政府から外地(日領太平洋)の警備や海上警察権を委託され、陸軍・海軍に次ぐ第3の軍として正式に認められるほどになった。
既に幕末においてさえ日本の国政を左右した竜宮人勢力は、世界規模で勢力を拡大しつつあり、日本という国家そのもののグランドデザインに介入するようになる。
特に自由民権運動で、竜宮人勢力が果たした役割は大きかった。
当初、日本の自由民権運動を主導したのは長州藩で、木戸孝允などは死の間際まで自分を追放した明治政府に復讐するために、議院内閣制導入と民主憲法制定を主張していた。
死の床において
「小五郎死すとも自由は死せず」
と木戸が叫んだことは広く知られている。
木戸の政治資産を引き継いだのが伊藤博文で、そのパトロンを務めたのが坂本竜馬(海援隊)だった。
竜馬は渡米経験から合衆国流の民主主義を理想とし、憲法や選挙を通じた竜宮人の政治参加を求めていた。
明治政府を動かしたのは薩長土肥といった藩閥であり、明治政府の意思決定から竜宮人は排除されていた。
憲法問題、立憲主義の採用は日本のグランドデザインを定める大きな政治課題であり、西郷隆盛を中心とする明治政府は、早期の議会制民主主義導入には否定的だった。
西郷は、武力で江戸幕府を打倒して成立した明治政府が、武力以外の方法で政権交代を受け入れることはないと考えていた。
列強国に並ぶために憲法導入は急務であるとしても、民主化は可能なかぎり先送りする方向だった。
明治政府は、当初の計画では憲法制定はフランス流を模索していた。
当時のフランスは、第2帝政期(ナポレオン三世)にあたり、皇帝=天皇という図式を思い描いた明治政府にとって、フランスモデルの導入はいろいろと都合がよかった。
また、ナポレオン民法典はヨーロッパで評価が高く、そのまま直訳することで、一気に日本の法体系を西欧化するというシナリオだった。
しかし、普仏戦争(1870-71年)でフランスが破れ、第2帝政が崩壊して共和制に転換すると方向転換を迫られた。
また、フランス法の模倣は竜宮人から強い反発を受けた。
フランス法に規定された重婚禁止は、日本文化に即していないと主張したのである。
「法律はその国の文化や慣習、風土によって構成されており、重婚禁止は日本の美風(側室文化)を損なうものである」
と竜宮人の識者が主張し、圧力に屈した新政府は重婚禁止を取り下げた。
さらに南方系竜宮人は、近親相姦も合法化するように迫ったが、さすがにこれは日本文化・慣習に反しており、認められなかった。
ただし、日領太平洋では自治体によって条例で認めている場合もある。
南方系龍宮人は長い間に渡って閉鎖的な環境で暮らしていたので、経験則で近親相姦でも生殖に問題がないことを把握していた。
この理由は長らく謎だったが、ゲノム解析技術が進展すると竜宮人が選択的に無性生殖を行っていることが判明した。
自然界でも、ギンブナや二枚貝は発生に雄の遺伝子を必要とせず、無性生殖で増えることはよく知られているが、人類で無性生殖を行うのは竜宮人だけである。
よって、竜宮人の生殖に必要な精子は、遺伝子を受け取らないため近親者が提供しても問題がないことが科学的に立証されたので、2004年に竜宮人の全般に対して近親相姦する権利が認められた。
同年9月1日から施行された改正民法にあわせて市役所の戸籍係に兄妹や姉弟、母子、父娘がずらっと並んだことはまだ記憶に新しいだろう。
日本では、仮に12人の妹がいても全員と合法的に結婚できるのである。
もちろん、本人の身が保つのかは別問題であるが。
それはさておき、当時の問題としては、政府が竜宮人の圧力に耐えられず、婚姻制度といった国家のグランドデザインへの介入を余儀なくされたことそのものが為政者たちに危機感を抱かせた。
日本人と竜宮人の意見が一致しない場合、紛争となり国家の一体性が損なわれる事態がありえることがありえると示されたのである。
西郷は、日本人と竜宮人の意見が対立し、竜宮人の武力で政府が打倒され、天皇制が破壊される易姓革命を極度に警戒した。
そのため、立憲主義と穏健な形での竜宮人の政治参加、即ち公選制度の導入に同意することになった。
1885年に内閣制度が発足し、西郷は初代内閣総理大臣に就任して、憲法制定(立憲主義)と帝国議会開設(公選制度導入)を発表した。
1889年に公布された大日本帝国憲法は、明治天皇から4代目首相の江藤新平に手渡される欽定憲法の体裁をとった。
江藤新平が大役を授かったのは、大日本帝国憲法を起草したのが江藤だったためである。
憲法調査のため欧州に派遣された江藤は、ウィーンに拠点をおいて、欧州諸国を回って各国の憲法を調査し、日本国が直面する課題に対する処方箋を探した。
江藤の持ち帰った資料を元に大日本帝国憲法は起草された。
大日本帝国憲法は、前述のとおり天皇から君主主権の原理に基づいて、君主の一方的意思により恩恵として国民に与えられる欽定憲法だった。
天皇は日本の主権者であり、竜宮の主権者を兼務するものとされた。
つまり、日本・竜宮の同君連合であり、憲法上では日本=竜宮二重帝国(ジャパン・ドラグーン・デュアル・エンパイア)となる。
ただし、これはあくまで憲法の規定から推定したものであり、正式な国号というわけではなない。憲法も大日本帝国憲法であり、大日竜帝国憲法とは書かれていない。
ただし、帝国憲法公布後は、公式文書では日本という表記が少なくなり、日竜国や日竜帝国といった記述がなされるようになる。
大日本帝国憲法の起草にあたっては、オーストリア・ハンガリー二重帝国の憲法を参考にしており、日本人と竜宮人の平等が憲法に明記された。
ただし、あくまで主権者は天皇(君主制)であり、統帥権を始めとする様々な天皇大権を持つ万世一系の天皇(日本人)が、統治権の総攬者として統治する体制がつくられた。
明治政府、特に西郷隆盛にとってはこれが譲歩できる限界点といえた。
帝国憲法に対する竜宮人の反応は概ね良好だった。
これは世界的にみて異例のことである。
オーストリア・ハンガリー二重帝国において、ハンガリー人が度々、ハプスブルク家の皇帝が定めた憲法に反発し、デモ活動やサボタージュ、暴動などで対応したことを考えれば、竜宮人の歓迎姿勢は異例といえる。
ただし、一部の識者は憲法に首相や内閣に関する規定がないことや、統帥権の取り扱いについて問題があると後に指摘している。
当時としては西郷隆盛といった超法規的な権力をもつ元老や元勲がいるため、首相や内閣の権限が弱く、統帥権が独立していたとしても問題はなかった。
それが問題となるのは、昭和に入って元老や元勲が退場したあとの話である。
1890年7月1日に行われた第1回衆議院議員総選挙では、海援隊の後援を受けた竜宮人の民族政党である竜和党が25議席を獲得している。
大日本帝国憲法の制定によって、日竜はアジア初の近代憲法をもつ国家となった。
欧米列強は、極東の島国がハプスブルク家のまねごとを始めたことに驚きながらも、その実力がどれほどのものか図りかねた。
ロシア帝国も同様であり、日本人とスキュラ(タコの化け物)の同盟に何ができるのか分かっていなかった。
日竜と友好関係を築いたイギリスでさえ同様だった。
英露という二大帝国さえ評価不明だったのだから、日竜とロシアの間に挟まれた朝鮮王国などは完全に理解不能だった。
そして、彼らは分からないものをできるだけ排除しようとした。
それ自体は人間の自然な反応だと言えなくもなかった。
未知なるものを恐れるのは、穴居人だったころからホモサピエンスの習性だった。
毎回、会うたびにSAN値チェックが必要になる隣人なら猶更だった。
問題は、今は19世紀であり、それが周辺国にとって、どのような意味をもつかを判断、予測できなかったことだった。
朝鮮王国は、日竜が三国干渉で遼東半島を手放すと露骨にロシア帝国にすり寄った。
国王がロシア領事館に居を移して1年近く政務をとるなど、王権も国の独立もかなぐり捨てた態度には朝鮮のみならず日本国内でさえ悲憤が渦巻いた。
当初は日竜が提案する満韓交換に前向きだったニコライ2世も、朝鮮の態度を見て与しやすいと見るや朝鮮半島征服に色気を見せるようになる。
義和団事件(1900年)で宗教秘密結社が北京を占領して、清が全ての列強国に宣戦布告するなど支離滅裂な行動に出ると、ロシア帝国は大兵力を派遣して満州全域を軍事占領した。
遼東半島はロシアに割譲され、旅順港はロシア帝国海軍の基地となった。
極東に広がるロシアの脅威に対して、日竜は本土防衛のための予防戦争を決意し、中華利権防衛を画策する英国に接近した。
1902年1月30日、日英同盟が結ばれる。
大英帝国が、栄光ある孤立という単独主義を捨てて同盟政策に舵をきったことは、列強各国を驚かせた。
しかも相手は、極東の得体の知れない黄色人種とタコの混ぜ物だったから、猶更だった。
日英同盟は、一種のショック療法という側面があり、センセーションを巻き起こしてロシア帝国に南下を思いとどまらせるという意図があった。
実際、明治政府を率いた元老達も、ロシアが日英同盟を警戒して南下を思いとどまることを期待していた。
世論は開戦一色に染まっていたが、修羅場を潜ってきた元老達はまだ慎重だった。
何しろ、日竜とロシアの国力差は10倍以上あり、陸軍兵力の差は考えるのもばかばかしいレベルだった。
相手はナポレオンを打ち破った世界最強のロシア帝国陸軍であり、それに対して日竜の陸軍力は老大国の清との戦いでも苦戦したレベルだった。
海軍力は、日竜海軍の全力を投入してロシアの旅順艦隊・ウラジオストク艦隊とようやく同等になる程度だった。
日英同盟を結んだイギリスも、日竜が勝利するとは考えておらず、ロシアの戦力をある程度削減できれば十分だと考えていた。
むしろ、日竜が土壇場で臆病風に吹かれて戦争を避けるのではないかと危惧していた。
国力差を自覚していたのは日竜だけではなく、ロシアも同様であり、イギリスの直接参戦がなければ敗北はないと考えていた。
他の列強国もほぼ同意見で、ロシア必勝という見方をしていた。
日竜が勝つ、あるいは善戦するという意見は殆どなく、戦争は1カ月程度でロシアの勝利に終わるか、日竜に合理主義精神があれば戦争を回避するだろうと考えられていた。
世界中が、ロシアの軍事力を過大に評価し、日竜の軍事力を過少に評価していたのである。
第3者的な観点からは進退窮まったように見えた日竜だったが、実は不利なことばかりでもなかった。
世界規模に広がった竜宮人の連帯は、一筋の光明だった。
特に海外の竜宮系企業の躍進は目覚ましかった。
海援隊傘下で、マサチューセッツ州に本社を構えたネオワールドインダストリー社(以後「N.W.I」という)は、ベルトコンベアによる流れ作業方式を利用することで、大衆の手に届く自動車”大衆車”を世界で始めて製造・販売することに成功していた。
N.W.Iが4番目に量産化した丁型自動車(甲乙丙”丁”)は最終的に1,500万台が製造され、単一車種としては世界最多量産車となった。
丁型は生産時期によってバス型や小型トラック型など様々な派生型が生まれた。
トラック型は救急車や消防車にも転用されるなど、丁型本体が生産終了後も少数生産が続けられるほど息の長いモデルとなった。
丁型自動車の世界最多量産のタイトル獲得や多数の派生型や改造型が生まれたのは丁型の簡素な構造とサスペンション設計の優秀さが寄与していた。
サスペンションの開発は社長自らが最適なセッティングを探したと言われており、激しい前後運動でショックを与えても機能を失わない堅牢な設計となっていた。
ちなみに、この場合の前後運動はおおむね二人で行う場合を想定しているが、一説によれば一人で行う場合もあると言われている。
竜宮人には少なくない割合で、自動車全般に性的な興奮を覚える人がいるからだ。
性癖を経典か何かと勘違いしている竜宮人でも、自動車に性的興奮を覚えるのはアブノーマルな領域に属する。
それはさておき、N.W.Iは、革新的な丁型ベースの軍用トラックを日竜陸軍に納入するなど、竜宮系米国企業として様々な便宜を図っていた。
自動車生産に必要な鋼板も、五大湖周辺で豊富に生産されていた。
海援隊企業のセラ鉄工は、空気の代わりに酸素を直接噴射する酸素直噴転炉法を開発し、良質な鋼板を大量生産する体制を整えていた。
日竜初の大規模製鉄所である八幡製鉄所を建設したのもセラ鉄工で、最新式の酸素直噴転炉が据え付けられた。
八幡製鉄所の完成で、開国以来の懸案だった鉄鋼の自給自足の目途が立ち、ようやく兵器の国産化が進むことになった。
対露戦のために日竜海軍が編成した六六艦隊の半数は、海援隊傘下企業で建造された。
受注したボストンのラブ&クラフト造船所は、戦艦1隻分の予算で既存戦艦2隻分の戦力価値がある画期的戦艦として、ドラゴン級戦艦を建造した。
ドラゴン級は最新技術である重油専燃缶と蒸気タービンを搭載することで機関スペースを小型化し、浮いたスペースを活用して30.5センチ連装砲4基を艦の中心線上に配置することで、従来型戦艦の2倍の火力を発揮する新世代戦艦だった。
列強の既存戦艦はドラゴンの完成で、一気に旧式化してしまうほどの性能だった。
所謂、ドラゴン・ショックである。
日竜海軍の六六艦隊も建造したばかりの戦艦や装甲巡洋艦が全て旧式化するなど、被害は甚大だった。
しかし、その性能は竜宮人にとって国号に等しい名を与えるにふさわしかった。
伝説のモンスターの登場にロイヤル・ネイヴィーは半ばパニック状態で、ドラゴン級と同等性能のドレッドノートを1906年に進水させ、ドイツ帝国やフランス、合衆国も乗り遅れまいとして激しいドラゴン級の建艦競争を繰り広げることになる。
建艦競争は、やがて竜級を超える超竜級戦艦や、超超竜級戦艦などを生み出すことにつながった。
1904年時点で、竜級戦艦を持っていたのは、日竜海軍(鹿島・香取)のみだった。
そのため、海での戦いでは日竜海軍は相当の自信をもっていた。
しかし、陸の戦いでは日清戦争の不手際もあって、どこまで戦えるかは分からなかった。
日清戦争後に、フランス式からプロイセン式軍制への変更や参謀本部改革にも取り組んでいたが、付け焼刃という評価は否めなかった。
そもそも島国の陸軍がいろいろと残念な存在であることは、大英帝国がボーア戦争で散々に証明していた。
それでも日竜の指導者達は、戦争を決意した。
シベリア鉄道が完成して、満州にロシア軍が溢れるようになってからでは、勝ち目がないからだ。
満州に船で大量輸送ができる日竜に対して、遠いヨーロッパ側から単線のシベリア鉄道ではるばる兵隊と弾薬を送らなければならないロシアは、距離の壁があった。
英仏との協力で実現したロシア軍の満州撤兵の約束は全く反故にされており、外交努力も限界だった。
1904年2月6日、日竜は国交断絶をロシアに通知し、仁川で交戦状態に突入した。
緒戦は準備を整えていた日竜側が有利に展開し、仁川では巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを自沈に追い込んだ。
さらに旅順港への奇襲も成功し、日竜海軍の人間魚雷部隊が、戦艦ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、防護巡洋艦パラーダの爆破に成功した。
日竜海軍は竜級戦艦の鹿島・香取を含む第1艦隊で旅順を封鎖して黄海の制海権確保に成功し、陸軍の朝鮮半島上陸を助けた。
事実上の先制奇襲攻撃を受けたロシアは卑怯な不意打ちとして抗議したが、開戦前に宣戦布告が必要とする国際法上の規約がなく、国交断絶後の戦闘であったため問題ないとされた。
この問題については、日露戦争後の1907年に開戦に関する条約で初めて国際的なルールとして成文化されることになる。
日竜陸軍は、日清戦争では失敗した鴨緑江突破を成功させ、満州に攻め込むなど順調に駒を進めた。
遼東半島には第3軍(3個師団基幹)が上陸し、旅順を包囲した。
旅順は、ロシア旅順艦隊の拠点として周囲の山々に永久要塞を構えていた。
日竜軍は満州での戦争を行うために、補給港として大連の利用が不可欠であり、旅順攻略か、旅順艦隊の無力化が必須条件だった。
そのために、開戦奇襲で人間魚雷部隊が投入されたが、一撃で艦隊全てを撃滅するのは不可能だった。
さらに旅順艦隊が港内に退避して警備が厳重になると竜宮人の特殊工作員でも接近することが困難になった。
旅順港は水深が浅く、干潮時は大型艦艇の多くが陸に乗り上げてしまうほどだったので、満潮時にしか水中から接近できないという不利があった。
侵入してくる時間が分かっていれば、待ち伏せするのは容易だった。
旅順艦隊の指揮を引き継いだマカロフ中将は、軍艦塗装用に大量にあったペンキ缶に爆薬と時限信管を詰めた対竜宮人爆雷を自作し、効果的な対水中戦闘を行った。
海軍は竜宮人の挺身攻撃で、旅順艦隊を撃滅できると考えていた。
しかし、攻撃が成功したのは開戦奇襲の一度だけで、以後は全て失敗に終わった。
水中爆破が失敗すると次は機雷の敷設や閉塞船突入作戦が実施された。
しかし、いずれも敷設艦や閉塞船が陸上砲台の攻撃で撃沈され、失敗した。
閉塞作戦に投入された21隻の商船は当時、日竜が保有する1,000t以上の商船の1割にあたる量であり、被害は甚大だった。
日竜海軍は何の戦果をあげられないままに、ロシア軍の機雷敷設で戦艦2隻(初瀬、八島)を失い、更に困難な状況に陥った。
ロシア軍は、ウラジオストク艦隊を通商破壊戦に投入するなど、封鎖戦力の引き離しにかかったので情勢はさらに悪化した。
海援隊は通商防衛のために商船を改造した仮装巡洋艦を投入して、ウラジオストク艦隊を撃退したが、私軍扱いしてきた海援隊にフォローされた海軍の面子は丸つぶれだった。
協議の結果、陸からの旅順攻略が決定し、第3軍が投入されることになった。
これまで第3軍は、旅順を包囲するだけに留めていたのは、海軍が単独での旅順艦隊封殺に拘ったこともあったが、永久要塞への正面攻撃が極めてブラッディになることが予想されていたためだった。
開戦前の作戦検討でも、旅順は攻略か、封鎖か結論が出ていなかったが、どちらかといえば封鎖論の方が優勢だった。
できるだけ決戦前の消耗を避けたい陸軍も、この構想には同意していた。
しかし、封鎖作戦は失敗に終わり、旅順包囲は長期化した。
第3軍を欠いたまま行われた遼陽会戦(1904年8月30日)で、陸軍は大損害を被り、戦争の雲行きが怪しくなりつつあった。
日竜陸軍は、日清戦争の失敗を受けて士族の軍隊から、国民皆兵への転換を図り、将校教育の見直しや軍制改革に取り組んでいたが、旧僻の完全な払拭には至っていなかった。
改革したはずの参謀も主体性がなく、依然として書記や伝令の役割に甘んじており、満州軍総参謀長を務めた児玉源太郎が頭を抱えた。
なんとか遼陽を攻略したものの大損害を出した日竜軍の穴埋めに、第3軍の主戦線投入が急がれ、旅順は封鎖から早期攻略へ変更された。
できるだけ速やかに、しかもできるだけ少ない損害で旅順要塞を攻略するという無理難題を押し付けられた乃木竜典大将は天を仰いだ。
もちろん、途方にくれていたわけではなく、軍事的に意味がある行動だった。
第3軍は、旅順包囲直後からある新兵器の実戦テストを実地で行っていた。
その新兵器とは、飛行機だった。
19世紀半ばから、様々な形で有人飛行への挑戦が繰り返されてきた。
熱気球や飛行船は既に実用化されていたが、どちらも風任せの部分が大きく、イカロスのように自由に空を舞えるわけではなかった。
自由に空を飛びたいという夢は航空工学の発展を促し、机上の計算によって羽ばたきでは人類が空を飛ぶことが不可能と判明すると機械動力を使用した飛行が模索された。
ただし、その種の活動は個人発明家が趣味で行うものだった。
ドイツのオットー・リリエンタールや、フランスのアルベルト・サントス=デュモンも個人レベルで活動していた。
海援隊のような企業が事業として飛行機を作るのは当時としては極めて異端だったと言える。
自動車メーカーのN.W.Iが自動車用のガソリンエンジンを転用して空飛ぶ車を作ると発表したとき、報道関係者は珍しいジョークを聞いたような反応を示した。
ちなみにN.W.Iの竜宮人技師が描いたラフスケッチでは、飛行機は大小の円盤を2つ重ねた形状をしており、飛行機というよりはフリスビーに近い形だった。
技師達はこれで空を飛べると力説したが、初期の航空工学を用いた計算でさえ、その形状では離陸すら不可能と断じられた。
それでもN.W.Iは、特殊な粒子を使用することで飛行可能と言い張ったが、仮定の存在を持ち出せば羽ばたきでさえ飛行可能であり、真面目に相手にしてもらえなかった。
当然のことながらフリスビー型飛行機は散々な失敗に終わり、現実に負けたN.W.Iは今日的な飛行機の形式に回帰することになる。
N.W.Iが完成させた最初の飛行機は、空飛ぶ自動車の名前で発表され、1903年9月11日にシアトル郊外でマスコミの前でお披露目された。
観衆の前で人類初の動力飛行を成功させたのは、N.W.Iの技師でイタリア人のマリオ兄弟だった。
人類初の動力飛行を行ったのは、弟のルイージで、約15分の飛行を行った。
二人は技師になる前は、配管工という異色の経歴の持ち主だった。
機体の構成に軽量でしなやかな鉄パイプを用いるというアイデアに職歴が生かされており、ジェラルミン製のモノコックボディが一般化するまで、マリオ兄弟の用いた鋼管フレーム設計は広く航空機機設計に活用されることになった。
なお、N.W.Iは飛行機をあくまで、空飛ぶ自動車と扱っていた。
そのため、着陸後は羽を取り外してプロペラ推進する自動車として使用できるように設計されており、飛行機としては無駄が多く、飛行機としても自動車としても微妙だったため、セールスは完全な失敗に終わった。
竜宮人はなぜか空飛ぶ乗り物は円盤型をしているという信念があり、さらに大気圏離脱能力があることが当然だと考えている節があった。
「宇宙が飛べないなんて、こんなの飛行機じゃないわ! 羽の付いたカヌーよ!!」
という竜宮人の叫びを聞いた航空エンジニアは数多い。
大気圏内で使用する飛行移動物体について、竜宮人は妙な偏見から逃れることができず、日竜の飛行機づくりはその後も迷走を重ねていくことになる。
マリオ兄弟も純粋な飛行機を作ろうとして会社として対立して、独自にマリオ・ブラザーズ社を立ち上げ、N.W.Iと特許を巡って訴訟沙汰になった。
それはさておき、日露戦争に投入された飛行機は、ガソリンエンジンと鋼管フレーム、そして帆布の翼をもつ初歩的な凧の仲間で、飛行時間は長くても1時間程度だった。
「蛸が凧に乗って攻めてきた」
と余裕を見せていたロシア人たちは、すぐに着弾観測射撃の雨を浴びることになった。
初期の飛行機に無線機を搭載する余地はなかったが、簡単な略号を組み合わせた旗旒信号でも地上の砲兵に弾着の誤差を知らせることは可能だった。
港内にいられなくなった旅順艦隊は慌てて出航し、湾口に潜んでいた日本海軍の第7号潜水艦の魚雷攻撃によって、戦艦ツェサレーヴィチとマカロフ中将を失った。
ツェサレーヴィチを撃沈した8月8日は、日竜海軍の潜水艦記念日に指定されている。
世界で初めて竜級戦艦を建造するなど、近代大艦巨砲主義の始まりを告げた日本海軍だったが、海軍全体としては意外なことに潜水艦を重視していた。
水中呼吸ができる竜宮人は、水上艦よりも潜水艦の方が性にあっていた。
むしろ、なぜ今まで水中に潜れる船がなかったのか疑問に思うほどだった。
他国の潜水艦乗りはしばしば窒息の恐怖にさいなまれたが、竜宮人にその種の心配は無用だった。何しろ水中で呼吸ができるのだ。
敢えて艦内を浸水させることで、バッテリーが尽きるまで潜水することさえあった。
ツェサレーヴィチを撃沈した第7号潜水艦は、潜水艦というよりは潜水艇に近い大きさで、輸送船に乗せられて遼東半島まで送られ、旅順の湾口で待ち伏せていた。
初期の魚雷の射程距離は短いものだったので、戦艦ツェサレーヴィチを雷撃したとき、第7号潜水艦は僅か50mの距離から攻撃を敢行した。
魚雷2本を被雷した戦艦ツェサレーヴィチは弾薬庫に誘爆し、殆ど即座にマカロフ中将と共に黄海へと沈んだ。
雷撃を免れた旅順艦隊も、日竜海軍の阻止線を突破することができず、旅順に逃げ帰った。
しかし、湾内に安全地帯はなく、全艦が乗員や武器を陸にあげて自沈処分された。
旅順艦隊の無力化に成功した第3軍は、航空偵察で確認した防備が薄い箇所に塹壕線を伸ばし、坑道爆破などを併用することで旅順要塞を慎重に解体していった。
乃木将軍の慎重な攻撃には、臆病という批判が集まったが、兵力の消耗を避けるという命題がある以上は已む得ない戦法だった。
また、日竜軍は攻城砲が不足しており、砲弾の性能もお粗末だった。
設計や理論、あるいは試験では十分だと考えられた場合でも、実戦で使ってみなければ分からないことは多かった。
特に秘密兵器の自走砲が役に立たなかったことは深刻な問題だった。
自走砲とは、海援隊が開発した履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両で、鉄板で覆われた車体に、固定式の火砲(75mm砲)を備えていた。
後に戦車と呼ばれることになるアーマード・ヴィークルは、自走できる大砲ということで、発明された当初は自走砲と呼ばれていた。
自走砲は秘密兵器扱いとなっており、海援隊では開発を秘匿するために、水槽と呼んでいた。
もちろん、機関銃を跳ね返す装甲は水槽どころではなかった。
旅順要塞攻略に投入されたのはその極初期の戦車で、塹壕を乗り越え歩兵の小銃射撃や機関銃の攻撃を跳ね返しつつ前進して、要塞攻略の突破口を開くことが期待されていた。
しかし、高地の取り合いになった旅順攻略戦では、自走砲は重すぎてまともに前進できず、格好の標的になってしまった。
ロシア軍は初めてみる自走砲にショックを受けたが、動きが鈍いことや野砲の水平射撃で簡単に撃破できたため、拍子抜けとなった。
各国の観戦武官も、自走砲の勇ましい姿とは裏腹の脆さを本国に報告している。
エンジンが非力すぎたことが原因だが、平地試験しかしてこなかったというお粗末な試験体制の問題も大きかった。
自走砲は要塞攻略兵器としての適性がないと判断されて、直ちに前線から下げられた。
これは正解で、戦車は騎兵のような機動兵器として用いるべき装備だった。
砲弾跡や塹壕、鉄条網で埋め尽くされた戦場で役に立った武器は、軽量で迅速に展開できる軽機関銃や短機関銃、手榴弾やスコップといった武器だった。
これらは第一次世界大戦の塹壕戦でも威力を発揮することになるが、旅順攻防戦はその前触れとなる戦いだった。
消耗を避けるための慎重策にもかかわらず、損害は激増の一途をたどり、旅順攻略戦での死傷者は4万人にも達した。
第3軍は世界初の近代要塞攻略戦に対して錯誤を重ねながらも、増援が得られない要塞の予備兵力を少しずつ摺りつぶしていき、1905年1月2日に旅順要塞を降伏に追い込んだ。
要塞陥落後、乃木と旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリは、水師営で会見した。
ステッセリは、人種的な偏見から竜宮人のことを化け物扱いしていたが、乃木がステッセリの名誉を守るために帯剣を許可し、酒を酌み交わすとすっかり打ち解けた。
ただし、自軍を打ち破った乃木が、銀髪美少女だったことには、ステッセリも苦笑するしかなかった。
当時の乃木将軍の姿は、水師営の会見後に撮影された集合写真にも残されている。
203高地に赴く乃木将軍。第3軍の士気は極めて高いものだった。旅順攻略戦で甚大な被害を出した後、僅か半月で再編成を完了させて奉天会戦に参加した。
旅順要塞を攻略した第3軍は再編成もそこそこに北上した。
日竜軍は、4個軍で奉天のロシア軍を半包囲する体制で越冬し、第3軍の到着を待って決戦に挑むことになった。
海援隊は前線に海援隊1個師団を送り込むと共に後方支援業務を受注して軽便鉄道や大量のトラックを使って大連からの補給路を確かなものとした。
特にトラック輸送の活躍は目覚ましかった。
しかし、道路以外は走れず、運転手の確保や整備体制や燃料供給、機械的な信頼性の欠如といった問題も多かった。
それでも軍馬の不足に悩む日竜軍にとって、トラック輸送は画期的だったと言える。
また、自走砲や飛行機も欠点を修正した改良型が可能なかぎり増産され、満州へと送り込まれた。
飛行機は特に偵察に威力を発揮し、黒溝台会戦において重要な役割を果たした。
黒溝台会戦は、ロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将の消極的な指揮ぶりに業を煮やして本国が送り込んだグリッペンベルク大将の指揮で10万のロシア軍が仕掛けた冬季反攻作戦だった。
ロシア軍は事前の騎兵偵察で日竜軍左翼の守備兵力(秋山支隊)の兵力が僅かなものであることを察知していた。
騎兵と歩兵、砲兵を組み合わせた秋山支隊の兵力は僅か8,000名程度で、しかも40kmの戦線を担当していたのである。
常識的に考えればまともな方法では防衛戦闘が成り立たないのは明らかだった。
そこで指揮官の秋山好古少将は、騎兵の利点である機動力を捨てて、野戦築城を施し、纏まった兵力で拠点に立てこもる防御作戦をたてた。
拠点に籠った兵力は容易に包囲されてしまうが、包囲されて孤立しても事前に集積した武器団弾薬に頼って全周防御を実施し、救援が来るまで持ちこたえることとされた。
事前の航空偵察でかなり正確にロシア軍の動向を察知していた秋山支隊は効果的な待ち伏せと防御戦闘を行うことができたのである。
防御戦闘において特に威力を発揮したのは、日清戦争でも使われた各種機関銃だった。
4脚に乗せて使用する重機関銃などは、弾切れになるまでロシア軍の歩兵突撃を寄せ付けなかった。
機関銃の弾薬を運んだのはトラックで、事前の周到な陣地構築と弾薬集積はトラックなしには考えられなかった。
勝利した日竜軍も指揮に不味いところがあり、反撃戦力の逐次投入という失敗を犯していたのだが、先に損害の多さに音をあげたのはロシア軍だった。
また、クロパトキン大将とグリッペンベルク大将の指揮権を巡る政争も戦場に微妙な影を落としていた。
グリッペンベルク大将が手柄を立ててしまうと政治的に困るクロパトキン大将は、大損害を理由に攻勢作戦を中止させたのだった。
ロシア軍の攻勢にもまだ勝ち目は残っていたのだが、クロパトキンはそれに気づかなかったか、あるいは意図的に無視したのだった。
以後、戦線は完全に膠着状態のまま雪解けの春を待つことになる。
日露戦争の天王山となった奉天会戦は、合計60万が激突した大規模会戦となった。
第3軍は右翼に配置され、自走砲を先頭に猛進して、ロシア軍の背後を脅かした。
平地の戦いで、しかも相手が要塞に籠っていない野戦では自走砲は大活躍した。
歩兵の盾として機関銃や歩兵のライフル射撃を跳ね返しつつ前進する自走砲に、ロシア軍はパニックを起こした。
落ち着いて野砲の水平射撃などを当てれば自走砲は撃破可能だったが、動員された兵士の多くは初めて遭遇した装甲戦闘車両に恐怖するのみだった。
第3軍に加えて左翼からも秋山好古少将率いる秋山支隊が戦場を迂回して、後方連絡線を遮断しようとしており、ロシア軍は全軍包囲の危機に陥った。
秋山支隊には、騎兵だけではなくトラックが配備されており、世界初の自動車歩兵/騎兵部隊として迅速な路上機動が可能だった。
航空機の偵察によって戦況をつかんだ日竜軍は全軍総攻撃を開始し、総崩れになったロシア軍を奉天で包囲した。
ロシア軍は市街地に立てこもったが、日竜軍は無理攻めせず包囲に留めて、がら空きになった奉天より北の都市を次々に占領していった。
最終的に秋山支隊はトラックの助けを借りて遠くハルビンまで進出し、パニックを起こして逃げ惑うロシア兵を蹴散らして、これを占領した。
実はハルビンの守備兵力は秋山支隊よりも遥かに多かったのだが、総司令部が奉天で包囲されてしまったロシア軍は殆ど組織崩壊状態であり、まともな抵抗ができなかった。
奉天に立てこもったロシア軍も長春・ハルビン陥落で救援が不可能になったため降伏した。
最終的に日竜軍の捕虜となったロシア兵は15万人にもなった。
これは日竜軍の総戦力とほぼ同数かやや少ない程度で、既に限界を超えていた日本軍の補給体制は完全に破綻することになった。
もう少し早くロシア軍が降伏していたら、ハルビン陥落はありえなかったほどである。
捕虜を放免するわけにもいかず、処分するなど論外だったため、日竜軍は弾薬の輸送を全て食糧輸送に切り替え、自国の兵士の食事を半分に減らしてまで捕虜を養うことになった。
捕虜の面倒を見るために軍隊が戦闘不能になるなど、全体未聞の珍事と言えた。
しかし、日竜の対応は騎士道精神の発露として、マスコミや各国の観戦武官を通じて広く周知されることになり、国際世論を日竜有利に傾けたのだから、悪いことばかりではなかった。
捕虜になったクロパトキンは、昨日まで敵だったロシア兵と食事を分け合う日本人や竜宮人の姿を見て感動したとされる。
しかし、竜宮人が用意した納豆やもずくスープには閉口させられた。
また、捕虜を竜宮兵の性犯罪から守るために非常に苦労することになった。
竜宮兵はしばしば異文化交流などいう名目で、捕虜の連れ去りを図ることがあり、行方不明になったロシア兵が戦後しばらくして日本国内で発見されて国際問題になることがあった。
それはさておき、奉天の歴史的な大敗や、ハルビン陥落、そして日露両軍が共倒れに近い状態になったことから、合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領は講和の周旋に動いた。
日竜は、既に120万人もの兵士を動員し、50億円もの戦費をつぎ込んでいた。当時の日竜の国家予算が約10億円だったから、約5年分の国家予算を使っていた計算になる。
飛行機や潜水艦、自走砲、トラックや機関銃などの新兵器は効果的だったが、とにかく金がかかる代物だった。
これだけの戦費を租税で賄うことは不可能なので、戦時国債で調達されていた。
戦時国債の販売には坂本竜馬が奔走しており、海援隊の番頭におさまっていた高橋是清と共に欧米の銀行団を駆け回っていた。
しかし、竜馬や高橋の努力も限界に達しつつあり、これ以上リスクを引き受けられないイギリスやフランスの銀行団は戦時国債の購入に尻込みし始めていた。
ロシアもこれ以上の戦争継続は不可能になっていた。
奉天でのロシア軍(15万)の降伏は、帝国以前に遡っても空前絶後の規模の軍隊降伏であり、モンゴルのルーシ侵攻以来の壊滅的な敗北だと考えられた。
また、相次ぐ敗北と停滞する経済の不満から革命騒ぎが起きており、1905年1月9日は血の日曜日事件が起きていた。
首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的なデモ活動に対して軍隊が発砲し、多数の死傷者が出た。
これをきっかけにロシア全土で帝政に対する不満が爆発し、ロシア第一革命の嵐が吹き荒れることになる。
ロシア社会の動揺は、日本の謀略(明石工作)といった要因もあったが、それ以上にロシア帝国の権威が対日戦争の苦戦で大きく傷ついたことが大きかった。
事前のプロパガンダ作戦でロシア軍があまりにも過大に評価されており、下駄を履いた状態で転んだため、破壊力は抜群だった。
これまでグレートパワーと吹聴されてきたロシアの軍隊や国家の力が、実は極東の得体の知れない黄色人種と半魚人と連合国家以下であることが暴露されてしまったのである。
ロシア人は基本的に我慢強く、帝国の権力に服従することを良しとしてきたが、その力が虚構に過ぎなかったことを知ったときの態度は、極めて激烈だった。
権威失墜を恐れるニコライ二世やその支持者たちは戦争継続を臨んでいたが、極東の陸上戦力は壊滅状態で、ヨーロッパからの動員はドイツ帝国を牽制するために制限があった。
そのため、継戦派はバルチック艦隊の回航に一縷の望みを託すことになり、日竜とロシアは運命の日本海海戦を迎えることになる。
1905年5月27日、東郷平八郎海軍大将率いる連合艦隊は、通報艦の信濃丸から警報を受けて、朝鮮半島の鎮海湾から全力出撃した。
バルチック艦隊を発見したのは、信濃丸から発進した水上飛行機だった。
当時の洋上飛行は、母艦の周りを飛び回って視界を広げる程度の意味しかなかったが、船上よりも遥かに高所から周辺監視が行えることは有効だと考えられた。
信濃丸と共にバルチック艦隊に接近した水上飛行機は大胆にもバルチック艦隊の上空を飛行して、詳細な情報を集めた。
艦隊司令長官のロジェストヴェンスキー中将を含めて、バルチック艦隊の将兵は初めて見る飛行機には対応する手がなかった。
艦に積んだ小銃で対空射撃を行ったらどうかという参謀の意見も、ロジェストヴェンスキー中将から退けられた。
ひらひらと頭上を舞うだけの飛行機に、手を出すまでもないという判断だった。
水上飛行機がバルチック艦隊上空を飛行したのは15分程度だったとされている。
この直後にエンジン故障で墜落して機体は失われたが、パイロットは信濃丸の短艇に救助され、信濃丸からバルチック艦隊の詳細が連合艦隊に打電された。
情報を得た連合艦隊は万全の状態で海戦に臨むこととなり、バルチック艦隊は情報戦で完敗したことで破滅することになった。
日露艦隊が激突したのは、5月27日午後2時頃だった。
バルチック艦隊に対して反航体制だった連合艦隊は、旗艦の香取を先頭に戦史に残る敵前大回頭(東郷ターン)を成功させ、同行戦砲撃戦でバルチック艦隊に大打撃を与えた。
竜級戦艦は期待どおりの働きを示し、前ド級戦艦主体のバルチック艦隊を火力で粉砕した。
速度においてもバルチック艦隊の各艦に勝っており、逃亡を許さなかった。
夜には水雷艇の襲撃が行われ、待ち伏せていた潜水艦の雷撃でさらに数を減らしたバルチック艦隊は散り散りになって逃亡し、1隻ずつ沈められていった。
最終的に連合艦隊は、水雷艇3隻の喪失で、バルチック艦隊を殆ど一方的に全滅させるという圧倒的な勝利を挙げ、神話となった。
バルチック艦隊全滅で逆転の目がなくなったロシアは、和平交渉に合意した。
日露戦争の講和会議は、合衆国のポーツマス海軍基地で開かれた。
日竜側の全権大使として講和会議に乗り込んだのは西郷隆盛だった。ロシア側は全権大使セルゲイ・ヴィッテが交渉にあたった。
交渉の全権大使として、初代首相が自ら登板したことは合衆国でも大きな注目を集めた。
海援隊の竜馬は交渉の側面支援にあたり、マスコミ戦略に欠ける日本交渉団を補う役割を果たした。
既に合衆国の実業界において神話的存在になりつつあったリョーマ・サカモトの登場に、マスコミ関係者は夢中になり、世論操作で交渉前からロシア代表団を追い詰めた。
なお、実際の講和交渉は、随行した小村寿太郎が行った。
西郷は殆どそれを聞いているだけという状態だった。
しかし、日竜の国内世論は西郷の登板に大きな期待を寄せた。
大西郷なら、ロシアから賠償金を10億でも、20億でもむしり取り、ウラジオストクや沿海州割譲まで狙えると考えたのである。
日竜軍の実情を知っている人間なら卒倒するほど国内世論は日本海海戦の圧勝に酔いしれていた。
西郷が講和交渉の全権大使に名乗りを挙げたのは、この後に待ち受けている世論からの攻撃から、明治政府を守るためだった。
弟の西郷従道を含めて、西郷の側近はそろって反対したが、西郷は全く譲らなかった。
幕末三舟の山岡鉄舟は、
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
と西郷を高く評価したが、今度ばかりは完全なる死地となることが分かり切っていた。
それでも西郷はポーツマスに全権大使として赴いた。
講和条件を巡る交渉は難航した。
特に賠償金の支払いは、白人国家として有色人種とおぞましき者の足元に立つことはできないとして、ロシアは絶対拒否の姿勢を貫いていた。
賠償金の支払いは敗戦国の責任だった。
権威失墜を恐れるロシアは敗北を糊塗するために少しでも敗北を連想させるものに拒絶反応を示した。
賠償金拒否は容易に予想可能だったため、講和会議前にルーズベルト大統領は、日竜側に代替案としてロシアの領土を少しでも占領するようにアドバイスしていた。
そのため、海援隊が樺太に上陸し、講和会議前に占領していた。
ルーズベルト大統領の予想どおりに賠償金は拒否されたため、日本側も講和交渉を進めるために要求を取り下げた。
代わりに領土の割譲で手打ちとなり、樺太全島が割譲されることになった。
さらに日竜が占領中のハルビンまでの東清鉄道、遼東半島の割譲。満州からの日露両軍の撤退。韓国に対する日本の自由処分権が確認された。
当時の大日本帝国の国力を考えるならば、これは望外の勝利だと言えた。
しかし、国内世論は賠償金がとれなかったことに激怒した。
さらにハルビンまでの東清鉄道の経営について、日英米の共同経営が発表されると暴走状態の群衆の怒りは頂点に達した。
しかし、既に50億円もの戦時債務を抱える日竜に、東清鉄道の経営資金をひねり出すのは不可能だった。
日竜の銀行という銀行から資金をかき集めてもまだ足りないことが分かり切っており、早い段階から門戸開放(外資導入)が必要なことが分かっていた。
ただし、それは日本人と竜宮人が血で贖った権益を分割することを意味していた。
資金を提供できそうな資本と外交関係があるのは、大英帝国と合衆国しかなかった。
両国ともに共同経営には前向きで、戦時国債の有利な借り換えや戦時債務の免除や貿易での優遇措置などで取引を持ちかけてきた。
しかし、どちらの提案にも一長一短があり、共同経営者の選択は大激論となった。
最終的に、
「どちらか選べないなら、3人で楽しめばいいじゃない」
という竜馬の提案により、東清鉄道は日英米の共同経営となった経緯がある。
実際にはそれほど単純な話ではないのだが、アメリカとイギリスを巻き込むことで微妙な均衡点を作り出すという意図があった。
門戸開放と東清鉄道の共同経営は世論の激烈な反応を引き起こし、全権大使の西郷はマスコミから集中砲火を浴びせられた。
多くの国民が、親兄弟を戦場で失い、さらに軍備拡張のために増税に耐えて手に入れた勝利の果実を外国人に分け合うことに怒り狂った。
東京では、権益分割に反対する暴徒が日比谷公園に集結して周辺の商店を略奪、交番などの公共施設に放火するなど暴動となった。
同様の暴動は江戸や大阪、神戸でも起きており、東京は無政府状態になったことから戒厳令が布告され、近衛師団が暴徒鎮圧に投入された。
こうした騒乱の中で、西郷は日本の国力は既に限界であり、戦争再開は非現実であることや、東清鉄道の運営には外国の協力が欠かせず、むしろ共同経営は満州を安定化させるとして国民に理解を求めた。
西郷の直言は、状況を理解できる賢者には支持されたが、不満を爆発させる大衆には通じなかった。
怒りに我を失っていた大衆社会は、西郷を売国奴と糾弾した。
多くの政治家が世論の攻撃を恐れて真実を告げることを控える中で、西郷の発言は勇気ある行動と言えた。
しかし、それが西郷の命を奪うことになった。
1905年12月10日、横浜駅のプラットホームに立った西郷は、権益分割に反対する右翼青年の襲撃を受けて刺殺された。
西郷の死に水をとったのは腹心の別府晋介だった。
別府はなんとか西郷を救命しようとしたが、
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」
と制され、泣き崩れることになった。
西郷の今の際は事件現場にいた複数の人物によって記録されており、その態度から暗殺というよりは覚悟の自殺だったと捉えることが多い。
西郷暗殺は、すぐさまトップニュースになった。
怒り狂っていた民衆も、そこまで大それたことを求めてはいなかった。
大西郷の死は衝撃という他なく、怒れる大衆に冷や水を浴びせて冷静さを取り戻させることになり、葬儀には10万人の群衆が押し寄せることになった。
西郷を深く信任していた明治天皇は悲嘆に暮れ、葬儀に勅使を遣わして、西郷の死を惜しむ御製を遺した。
このため、西郷は日露戦争最後の戦死者と捉えられることになる。
そして、多くの人々が西郷の死と日露戦争の勝利によって、明治維新から始まった一つの時代が終わったと知るのだった。