帝国主義への道
帝国主義への道
明治元年、日本の総人口はおよそ3,300万人だった。
その内、竜宮人の占める数はおよそ300万人で、割合としては1割程度となる。
日本の総人口は明治37年(1904年)には、5,613万人まで激増し、さらに明治45年(1912年)には、6,000万人を超えることになる。
人口増加の要因としては、明治政府が急いだ西洋医学の流入による公衆医学の発展や、外国からの技術導入による農業生産の拡大、工業化による経済発展に伴う所得水準向上・生活の安定化が寄与したと考えられている。
江戸時代中期以後、100年以上に渡って日本の総人口が殆ど横這いだったことを考えると、明治以降の人口激増は日本という国家のあり方そのものを大きく変容させたと言える。
そして、人口に対して竜宮人の占める割合は一貫して増え続けた。
総人口のうち、竜宮人を占める割合は明治37年には、28%(1,570万人)、明治45年には33%(1,900万人)に達している。
幕末に200万人しかいなかった竜宮人は、明治37年には7倍に増え、明治末には10倍近くまで人口を増やしているのである。
文明開化で流入した西欧由来の技術で、様々な新しい性交が可能になり、竜宮人増加に拍車をかけることになった。
江戸時代では考えられなかった電気を使用した性交などは、明治時代に大流行して竜宮人達を夢中にさせた。
ただし、江戸末期にはオランダから輸入されたエレキテルを使用した性交が行われていたという研究もある。
さらに南方竜宮人の日本編入が竜宮人口の増加を後押しした。
南方竜宮人とは、太平洋の島嶼や、パプワ島などで暮らしていた竜宮人達のことである。
南方竜宮人が日本国に編入されたのは1884年のことである。
19世紀半ばまで、太平洋の島嶼は文明世界から隔絶された場所だった。
オーストラリアなどは流刑地として使用されるほど、何もない場所だったのである。
そんな辺境が注目を集めたのは、産業革命と科学信仰によるところが大きい。
産業革命で蒸気機関の利用が進み、蒸気船が登場すると帆船なら避けてとおりたい赤道無風地帯でも問題なく航行できるようになった。
さらに科学の発展に伴い自然現象から神秘性や神話性が薄れ、世界の全てを科学的に開明できると考えられるようになった。
未知なるものを全て科学で解き明かして征服することは、科学先進国の責務という雰囲気が醸成され、次々と局地探検が計画されることになる。
アマゾン川探検やエベレスト登山、南極・北極探検といった事業もこの内に含まれる。
これらの探検・探査事業には探検して征服した土地を自国の領土に編入するといった帝国主義的色彩も帯びていた。
太平洋には既にムー大陸は存在しないことが明らかにされていたが、それでも未解明の何かを探して欧米列強は探査船を南太平洋に送り込んだ。
結果は芳しいものではなく、殆どの探査船が未帰還になるといった結果に終わった。
なんとか無事に帰還した探査船も、乗員が精神の平衡を失っており、まともに会話ができる状態ではなかった。
特にパプワ島東部からは生きて帰った者はなく、魔境と呼ばれて恐れられ、各国の探査事業は暗礁に乗り上げていた。
原因としては人間の精神に悪影響を及ぼす非常に強力な熱帯性疫病の存在が疑われた。
既にマラリアやデング熱、黄熱病が欧米列強の植民地では猛威を奮っており、未開の非文明地域にはどんな疫病が蔓延していてもおかしくはなかった。
そんな魔境に海援隊が足を踏み入れたのは、1872年のことだった。
サンフランシスコに初の海外支店を構えた海援隊は、西海岸で不足する農業労働力の不足を見て移民事業を開始し、同胞を合衆国へと呼び込んだ。
移民事業に応じたのは主に竜宮人だった。
移民こそ、開国性交の王道と考えていた竜宮人は次々と西海岸に押し寄せた。
海援隊は主に竜宮人のリクエストに応えるために、他の地域への移民を拡大を図ったが、候補地に悩むことになった。
明治初期の世界で、竜宮人と向き合ってSAN値チェックをクリアできるのは、英米仏蘭の4か国だけだった。
移民先として英領オーストラリアも検討されたが、これは完全な失敗に終わった。
イギリス人が大丈夫ならオーストラリア人も大丈夫と考えて接触を持ったところ、オーストラリア植民地政府の担当者が急性RRSを発症するなど、重篤な反応が出たため、オーストラリア移民は完全に頓挫した。
仮に急性RRS発症がなくとも、本国イギリスよりも人種差別が苛烈なオーストラリアでの移民は無理があった。
次の候補地となったのがパプワ島や南太平洋の島嶼領土だった。
パプワ島に上陸した海援隊の調査隊は、そこで南方竜宮人の熱烈な歓迎を受けることになる。
調査の結果、竜宮人には竜宮城壊滅後に日本へ脱出した者のほかに南太平洋へ逃れたグループがいたことが判明した。
1780年代に南太平洋へたどり着いた竜宮人達は、殆ど文明を失って原始の生活へ後退しながらも、いつの日か同胞が救援に来てくれることを信じて生き延びていたのである。
海水から直接水分を摂取できる竜宮人は絶海の孤島で漁労・採集生活を送っていた。
しかし、食料生産が乏しい島嶼部では深刻な食糧難が発生し、かなりの長期間にわたって主食がプランクトンという状態が続いた。
南方竜宮人が、
「プランクトンを食べたことがない奴はダメだ」
と内地の竜宮人を否定するのも、厳しい生活を潜り抜けてきた自負が故と言えるだろう。
南方竜宮人が正月にクロレラを食べるのも、苦しかった時代を忘れないための習慣である。
もちろん、単純にクロレラがお肌にいいという理由もある。
ちなみに竜宮人に人気のある食材はオクラ、山芋、もずくで、最も人気があるのは山芋で、次点がオクラ、もずくは主食扱いしている人が多い。
関東地方で製造されていた納豆が、全世界に広まったのも竜宮人が主食としているためである。
話が逸れたが、孤島に島流しにされた竜宮人達は時折、訪れる外国船舶を熱烈歓迎し、逆に彼らを急性RRSで死に至らしめてしまっていた。
例外的に発症を免れた欧米人もいたが、彼らは囚われの身となっていた。
竜宮人しかいない絶海の孤島に若い男がほいほいとやってきたら、何も起きないわけがなかった。
ちなみに竜宮人同士ではダメだった。
この感覚について竜宮人は、
「自分で自分をちゅぱっ・ちゅぱっする感覚」
と表現している。
この話を聞いた男性諸氏は、見て見ぬふりをすることにした。
21世紀現在でも、竜宮人同士の恋愛は極めてアブノーマルな趣味とみなされており、竜宮人の人気アイドルユニットが熱愛関係であることが発覚して、芸能プロダクションがパニック状態に陥ったほどである。
その後、二人はイリーガル系に路線変更して、再びブレイクすることになったのだが、これは例外中の例外と呼ぶべき出来事で、普通なら謝罪会見か、引退である。
なぜそこまで竜宮人が同種婚を忌避するのかは分かっていない。
まるで深宇宙から飛来した侵略的外星人が、地球での居住権を主張するために現地生物との遺伝子的融合を図ったかのように思えるほどである。
話を19世紀の南太平洋に戻すと、孤島に竜宮人しかいない環境は、非常に強いストレス下にあった。
欧米の調査隊は暴走状態の竜宮人に囲まれて急性RRSを発症して全滅するか、そのままお持ち帰りされていたのである。
ある意味、嬉しい恐怖のお持ち帰りだった。
一度、自宅に引きずりこまれたら、脱出は極めて困難だった。
竜宮人は一般的に非力とされるが、それは物を持ち上げたり、動かしたりする場合の力であって、8本の足を使って全力で張り付かれると成人男性の力でも一人では引きはがすことは極めて困難である。
お持ち帰りされた人々は、南太平洋の孤島で残りの一生を何もかもお世話をしてくれる理想の嫁と爛れた生活を送ることになった。
そのため、状況が判明したあとも欧米列強は文句が言いにくい状況となった。
本人は割と幸せにしていることが判明すると関わり合いになりたくないとさえ考えるようになった。
事情を把握した海援隊総帥・坂本竜馬は南太平洋の島嶼領土の領有権の主張し、明治政府に南方竜宮人が住む島嶼の目録を送り付けて、「自国民」を保護するように建議した。
明治政府は聞いたことがないような太平洋の島々の領有を半ば強制され、欧米列強を相手に国境線画定交渉を行うことになった。
不平等条約の改正交渉であれこれ神経をすり減らす明治政府にとっては、竜馬の建議は殆ど嫌がらせだった。
しかし、海外植民地をもつことが一等国のステータスという風潮から、無視することもできなかった。
1884年には領土確定交渉が終了して日本領南太平洋が成立した。
最大の領土獲得はパプワ島(面積約78.6万km2)の領有で、一気に日本の国土は3倍にも広がることになった。
各地は深刻な嫁(婿)不足であり、多数の日本人が南太平洋に移民として渡ることになる。
なお、パプワ島は中央は山脈でそれ以外はジャングルや泥湿地。しかも、ジャングルは熱帯病の宝庫という場所で、土地が極めて瘦せていて農業は極めて困難だった。
殆ど不良債権処理で、公衆衛生の確保のために膨大な公共投資が必要な土地であり、植民地経営としては完全な赤字だった。
いっそのことイギリスや合衆国などに売却してはどうかという意見もあった。
しかし、どちらも竜宮人付きで魔境を引き取るほど物好きではなかった。
ドイツ帝国はかなり本気で南太平洋の植民地化を狙っており、自国の天才宰相の名前を地名に採用する寸前までいっていたが、竜宮人が暮らしていることが分かると手を引いた。
明治政府は買い取り交渉を提示したのだが、竜宮人退去が条件とされたため、諦めるしかなかった。
1885年には南洋開拓使が設置され、ラバウルで業務を開始している。
開拓使による人口調査が行われ、南方竜宮人およそ20万人が日本に編入された。
内地の竜宮人は遥かな時をこえて同胞に巡り合えたことを喜んだが、開国性交という点では不本意な結果だった。
南洋開拓使の実態は、海援隊の出先機関であり、日領南太平洋の実態は海援隊の植民地経営だった。
日領南太平洋の成立が、海援隊の国家内国家化の始まりとする説もある。
1893年には、アメリカ人居住者が起こした反乱を海援隊が鎮圧すると竜馬はハワイ王家に娘を嫁がせ、婚姻同盟を築いた。
実態としては、海援隊によるハワイ王国の政治・経済の掌握だった。
ただし、ハワイ王国の独立と王家は護持された。
SAN値チェックの危機に直面したアメリカ人居住者が起こした反乱は、むしろ逆効果だったと言える。
女王のリリウオカラニは、合衆国の圧迫に対抗するためには、海援隊の力を借りるしか方法がないと考え、竜馬と取引したのだった。
ハワイは海援隊と共生関係を築く以前は、明治政府と接触をもち、日本の力を借りようとしていたが、これは上手くいかなかった。
1881年カラカウア国王は訪日し、カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁組や日本・ハワイの連邦樹立などの大胆な提案を行っていたが、明治政府が合衆国からの反発を恐れたため、国王の合邦提案は幻に終わっていた。
竜馬は、かなり早い段階からハワイの立地条件の良さに目をつけていたと言われている。
ハワイを掌握した海援隊(竜宮人)が、日米の間にたってその仲を取り持ち、架け橋となることを夢見ていたのである。
もちろん移民先の確保という側面もあった。
ただし、移民先としては、ハワイは完璧とは言えなかった。
人口がそれほど多くないためである。さらに島嶼であるため、抱えられる人口には制限があったのだ。
いくら竜宮人にとって住みやすい環境であっても、竜宮人が集まりすぎるのは問題だった。
前述のとおり、同族同士では自分で自分をちゅぱっ・ちゅぱっする感覚にしかならないためである。
ある意味、太平洋での移民先探しは、
「開国性交は一人ではできない」
という当たり前の事実を竜宮人に示したといえる。
そのため、人口の多い中華大陸を目指して開国性交を推し進める必要性が再認識された。
最初の標的にされた朝鮮は殆ど恐慌状態に陥った。
生理的な嫌悪を催す化け物が、食指(性的な)を向けてきたのだから、怖気が走る思いだった。
そのうち、竜宮人が朝鮮人の好みを把握して、様々なシチュエーションや容姿に対応できるようになったが、そういう問題ではなかった。
やたら白血病で死にそうになる属性を付与しても、それだけで全てが解決するわけではないのである。
華夷秩序に生きている朝鮮や清は東夷と見下す態度を改めなかったし、日本が西洋文明を進んで受け入れていることも気に食わなかった。
宗教や思想、哲学、さらに漢字や紙といった東洋文明を生んだ中国とそれを日本に伝えた朝鮮にとって、日本が西洋文明を受け入れ、アルファベットを使い、洋服を着こなして、英語やフランス語を話すなど、自国の文明・文化の全否定だった。
海の底からやっていた半魚人などは、人類の範疇に含めるべきではないとさえ考えていた。
江華島事件(1875年)は、そうした朝鮮の頑迷な態度に風穴を空けることになった。
しかし、日本に倣った近代化を進めようとした改革派は、保守派との政治闘争(甲申政変)に敗れて朝鮮を変革することにができなかった。
当初はアジア人同士の連帯を期待していた福沢諭吉などの知識人やアジア主義者は、朝鮮の態度に失望していった。
なお、竜宮人はアジア主義のような連帯には全く期待しておらず、征韓論のころから実力行使ありきの態度をとっていた。
なぜならば愛とは戦って勝ち取るものであり、恋とは基本的に戦争だからである。
恋愛と戦争は手段を選ばないのが竜宮人の基本思想と言える。
人によっては、宗教と表現する場合もある。
勝つためには、ネコ耳だろうと馬耳だろうと何でもアリだった。断崖絶壁やデッサン崩壊でもそれが必要と信じられるのならば用意した。迫真に迫るため、医師免許や教員免許をとることも厭わなかったし、催眠術や睡眠薬を使うことも許されると考えていた。
修道女になるために、修道院を用意したこともあるのだから、確かにそれは宗教と表現するにふさわしかった。
多少の実力行使などは必要悪であり、惑星ごと破壊しないだけ丸くなったと言えなくもなかった。
もちろん、今やったら自分たちが星屑になってしまうという事情もある。
朝鮮国内の農民反乱が起きると日清は双方が邦人保護のために軍を展開し、朝鮮支配を巡る外交交渉を重ね、決裂すると宣戦布告を交わして交戦状態に入った。
日清両軍が展開した漢城周辺の戦いは、兵数差がそのまま戦闘結果となった。
緒戦の勝利で勢いがついた日本軍は清軍を撃破しながら朝鮮半島を北上したが、鴨緑江に近づくに連れて、損害が目立つようになった。
江華島で朝鮮軍を圧倒した日本軍だったが、李鴻章の北洋陸軍は手ごわかった。
日本軍が苦戦した理由は作戦指揮の不味さにあったが、その理由は殆どが指揮官の無能力が原因だった。
というのも、日本陸軍を指導したのは、フランスの軍事顧問団だった。
そのフランス軍は、普仏戦争(1870-71年)でプロイセン軍に大敗していた。
普仏戦争でのフランス大敗の原因は、専らプロイセン王国軍が採用した参謀本部を始めとする優れた軍事制度にあった。
フランスにも参謀本部はあったが、それは指揮官の補佐役でしかなかった。
また、動員制度にも問題があり、フランス軍の高級将校は幕僚の適切な補佐もなく、戦時に編成された能力不明の部隊で戦わなくてはならなかった。
それに対してプロイセン王国軍は分刻みのスケジュールで鉄道を駆使して動員を行い、大兵力を速やかに前線へ送ることができた。
そのために参謀本部内に専門のセクションである鉄道課さえ創設していた。
フランス軍にはそのようなものはなく、戦場にいくには各部隊がそれぞれが私鉄を乗り継ぎ、無秩序に移動するしかなく、軍用鉄道運航を制御する責任者も不在だった。
フランス軍は将校教育にも問題があり、軍事教育よりも語学やバレエ、音楽といった芸術や社交術などヨーロッパの貴族が必要とする教養を教えることを重視した。
また、軍事教育も精神主義や白兵主義に傾倒し、上からの指示を絶対とするもので、プロイセン軍が目指した自主性の発露や現場の創意工夫とは正反対だった。
フランス軍の兵士も、世界初の国民皆兵と徴兵制の軍隊とは思えないほど職業化が進んでおり、徴兵制は抜け穴だらけで国民皆兵からほど遠い状態になっていた。
当時のフランス軍が陥っていた様々な問題は、責任を追及すれば殆どがナポレオン三世の第2帝政に行きつく。
何の軍事的実績もないままクーデタで皇帝になったナポレオン三世は、軍事の素人であり、しかも軍がクーデタを起こすことを極度に警戒していた。
ナポレオン三世にとって、軍部は自分の知らない専門知識を持った潜在敵だったのである。
そのため、第2帝政においてフランス軍はできるだけ無能力化が進められた。
上からの指示に従順なだけの、自主性の欠片もない無気力な軍隊をお手本にした日本軍が強いわけがなかったのである。
フランスの骨抜き徴兵制も士族の軍隊を辞めたくない日本軍にとっては都合がよく、将校は士族で、兵は卒族(足軽)に限られており、国民皆兵からはほど遠かった。
徳川250年のうちに旧僻を極めた武家社会において重視されるのは実力よりも、血筋や家柄、格式であり、そうした欠点を日本陸軍は多分に引き継いでしまっていた。
一応、明治政府も普仏戦争でのフランス軍の大敗ぶりをみて、ドイツ帝国に指導教官派遣を打診するなど方針転換を図ろうとしていたが、指導者の西郷隆盛は不平士族をなだめるために国民皆兵には後ろ向きだった。
明治六年の政変で、木戸孝允が失脚すると長州閥の大村益次郎や山県有朋は下野して、近代陸軍の建設はさらに迷走していった。
ドイツ帝国も明治政府が求めた指導教官派遣には後ろ向きだった。
おぞましき者達が暮らす極東に派遣されることなど誰も望まなかった。
一時期、大モルトケの直弟子とも言えるクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルの派遣が取り沙汰されたことがあったが、これは誤報だった。
メッケル少佐は大の竜宮人嫌いで知られており、極東派遣などありえなかった。
結局、日本陸軍は普仏戦争後も引き続きフランスモデルでいくことになった。
フランスも普仏戦争後は、プロイセン型軍制を導入しており、それを学べばいいという理由だった。
直接、ドイツから学ぶのは困難だったし、日本陸軍のフランス派は自分たちの地位を脅かしかねない軍制変更には否定的だった。
黄海海戦(1894年9月17日)で勝利するなど、西郷従道、山本権兵衛といった西郷派が推進したイギリスモデルの直輸入が上手くいった日本海軍に比べて、陸軍は陣容に不安を抱えていたのである。
装備では清を圧倒しているはずの日本軍が、不味い指揮で損害を重ね、補給体制の不備で自壊していく中で行われた鴨緑江渡河戦は、日本軍の大敗に終わった。
日清両軍は鴨緑江を挟んで持久戦に突入し、そのまま冬が来て戦争は膠着状態になった。
当初は新聞各社の勇ましい報道でいきり立っていた国内世論も、積みあがった損害と鴨緑江渡河の失敗で、すっかり意気消沈していた。
1894年11月には、イギリスから白紙和平の提案があるなど、清が期待していた欧米列強の介入が近づいていた。
日本にとって最悪の展開は、膠着状態のまま欧米列強の介入で戦争が終わり、何も得られないまま振り出しに戻ることだった。
海外から戦争の推移を見守っていた竜馬は、明治政府に援軍派遣を申し入れた。
海援隊は日本軍の後方兵站や後方警備を受注するなど、既に参戦状態だったがあくまで後方支援のみで、前線での戦闘参加はなかった。
私軍の戦線投入に難色を示した明治政府だったが、イギリスからの白紙和平提案を受けると背に腹は代えられないとして竜馬の提案を受け入れた。
もはや面子に拘っていられる状況ではなかった。
海援隊の海上護衛部門から戦闘要員を引き抜いた海援隊陸戦隊(1個旅団)が、朝鮮半島に送られ、鴨緑江に着陣したのは、1895年1月のことだった。
士気が低下していた日本軍は援軍の到着を歓迎したが、見慣れた八本足に混ざって黒人や白人がやってきたのには面食らった。
黒人兵はサンフランシスコで海援隊に参加した者たちで、彼らは自分たちが白人の奴隷ではないことを証明するために、この戦争に参加していた。
白人は大抵の場合は、フランス人やイギリス人の退役将校だったが、中には冒険野郎のアメリカ人なども混じっていた。
戦力を増強した日本軍は、酷寒に苦しみながらも鴨緑江を渡河するため攻勢に出て、守りを固める清軍との間で鴨緑江会戦が勃発した。
日本軍は、渡河に先だって対岸への猛砲撃を実施し、極寒の中で水中呼吸ができる竜宮人(主に海援隊)が水底を歩いて対岸に渡り橋頭保を築いた。
清軍は 海援隊が守る橋頭保に殺到したが、機関銃の弾幕の前に大損害を出して後退した。
機関銃は海援隊の自社製品で、海援隊参戦は自社製品のデモンストレーションという意味もあった。
海援隊式機関銃は、軽量化のために当時としては珍しい空冷式で、既出のマキシム機関銃のような反動利用式ではなくガス圧式を採用するなど非常に先進的な設計だった。
海援隊式機関銃は3種類あり、4脚装備で重い重機関銃型と、2脚装備で軽量な軽機関銃型。そして、拳銃銃弾を使用する短機関銃型があった。
これは100年先まで各国陸軍が戦場で使用する機関銃の始祖鳥と言って差し支えなかった。
1895年時点では、あまりにも先進的過ぎて採用国がなく、海援隊のみに配備されていた。
海援隊は各国軍に売り込みを図っていたのだが、八本足の作った怪しげな新兵器に誰(日本軍を含めて)も見向きもしなかったのである。
開発は、海援隊傘下でボストンに拠点を置くダゴンファイアーアームズ社で行われた。
D.F.Aは、海援隊に買収される前にはショットガンなどを製造していた小規模なガン・メーカーだった。
その技術力は竜宮人技師を受け入れたことでさらに高められ、合衆国を代表する銃器メーカーへと成長することになる。
なお、開発にあたって竜宮人の技師たちは、弾丸の発射にレーザーパルスシステムを利用したケースレス弾を採用し、自動照準システムや残弾を電光掲示させるスマートガンを目指していたが、当時の技術では実現不可能であり、火薬式に落ち着いたという経緯がある。
それはさておき、海援隊の獅子奮迅の戦いぶりは、日本陸軍に大きな感銘を与えた。
海援隊の将兵は全て志願者で固められているため士気が高く、現場の創意工夫と当意即妙さに優れていた。
上からの指示で動く操り人形ではなく、自分で考えて戦術を駆使する兵隊と将校団は、小規模ながらも当時の各国陸軍が理想形としたプロイセン型軍隊の戦いといって過言ではなかった。
実際に海援隊の1個旅団を率いていたのは、ドイツ帝国陸軍退役将校のエーリッヒ・フォン・バウアー大尉だった。
エーリッヒ大尉はドイツ人では珍しく竜宮人への忌避感がない人物で、普仏戦争で負傷し、退役を余儀なくされたのちに、海援隊に加わった。
バウアー家が子沢山で金に困っていたからだった。
一時期、指導教官として極東派遣も検討されたが、本人の性格が専ら前線指揮官向きだったので教官は務まらないと判断された。
どれぐらい前線指揮官向きだったかと言えば、竜宮人と共に最も危険な渡河第1派に参加して、最前線で砲撃を浴びながら指揮を執るほど勇猛な性格をしていた。
エーリッヒ大尉は、指揮官が兵の後ろにいる限り決して兵士からの尊敬を得られず、勝利もないとして率先陣頭の教えを海援隊に叩き込んだ。
ただし、当初は率先陣頭という言葉は使わず、
「俺のケツを舐めろ!」
と非常に荒っぽい表現を使っていたが、竜宮人から怪しい視線を向けられるようになったので、少し反省して率先陣頭という上品な言葉に改めたという経緯がある。
ただし、その表現は海援隊に定着して、本来の意図を超えて様々な場面で使われることになった。
それはさておき、北洋陸軍の歩兵や騎兵達は、簡単に潰せると思った小さな橋頭保から放たれる弾幕になぎ倒され、恐慌状態となった。
海援隊は防衛のために塹壕を掘り、最新兵器の鉄条網を敷いて待ち構えていた。
運よく切り込みに成功しても、刀剣をふるう間もなく短機関銃でハチの巣にされた。
海援隊が守り抜いた橋頭保に仮設橋が架けられ、主隊が前進すると戦線は崩壊し、戦いは追撃戦に移った。
追撃戦においても、海援隊はプロイセン流の分進合撃と独断専行で逃げる清軍をなぎ倒した。
さらに海での戦いでも日本軍の優勢が確定した。
威海衛に立てこもった北洋水師の定遠・鎮遠が日本海軍の水中破壊工作によって撃沈されたのである。
清は黄海海戦後、有力な装甲艦(定遠・鎮遠)を含む残存の北洋水師(艦隊)を威海衛にとどめていた。
日本海軍の艦隊は陸上砲台があるため近づくことができず、何度か水雷艇による港湾突入・夜襲を試みたが、ことごとく失敗に終わっていた。
そこで日本海軍は水中挺身部隊を送り込み、定遠・鎮遠を撃沈する作戦をたてた。
水中挺身部隊は、水雷艇で夜間に威海衛へ隠密接近すると、人間魚雷に乗って威海衛に侵入した。
人間魚雷とは、魚雷を改造して操縦可能にしたもので、水中呼吸が可能な竜宮人ならではの特殊兵器である。
威海衛に侵入した挺身部隊は、人間魚雷で運んだ時限爆弾を定遠・鎮遠の艦底にセットすると泳いで威海衛から離脱した。
各120kgの爆薬が仕掛けられた定遠・鎮遠は、竜骨をへし折られて威海衛に沈んだ。
この作戦に参加した竜宮兵は僅かに12人で、損失は0人だった。
たったの12人の特殊工作員と水雷艇1隻で、巨大な装甲艦2隻を撃沈したことは、近代海軍の常識を覆す快挙と言えた。
定遠・鎮遠の沈没後、世界各国海軍は港湾警備体制を抜本的に見直すことになった。
いつ水中からタコ人間が襲ってくるか分かったものではなかった。
清は竜宮人の水中攻撃の洗礼を浴びる最初の軍隊となったのである。
戦いが遼東半島に移ると海援隊は陸軍と共同して、半島付け根の南山に上陸作戦を実施した。
この時も水中を歩いて移動できる竜宮人が大活躍して、清軍の後背に奇襲上陸を繰り返して、散々に打ち破った。
水中に潜んで、どんな場所からでも上陸戦を仕掛ける竜宮兵は、清軍を恐怖のどん底にたたき落とした。
上陸してくる竜宮兵を見ただけでSAN値が振り切れて卒倒するもの兵が続出して、もはや戦争どころではなくなっていた。
以後、竜宮兵を中心とした水陸両用作戦は日本軍のお家芸として発展していくことになる。
しかし、それ以上に重要なことは、竜宮人が可愛いだけではなく、きちんと戦争ができることを示したことだった。
もっとも、本人たちは恐れられるよりも、可愛がられた方が幸せ(性的な意味で)だったので、これは不本意な変化だった。
何人も思ったように生きられるわけではないということだろう。
遼東半島の喪失と北洋水師の壊滅によって、清は黄海の制海権を喪失した。
首都北京への直接攻撃が迫ると、清は戦意を喪失した。
以後、戦いはテーブルの上に移ることになり、日本側の全権大使・西郷隆盛と清の全権大使・李鴻章が下関で講和交渉を行った。
日清戦争の講和条約である下関条約によって、清は朝鮮の独立国と認め、日本は賠償として台湾や澎湖諸島、さらに3億両を得ることになる。
しかし、日本が軍事占領した遼東半島は清に返還された。
ドイツ帝国を中心に、ロシア帝国とフランスが、日本が清から多くの賠償を取りすぎているとして、干渉を図ったためである。
欧米列強に睨まれては、当時の日本には何もできなかった。
国内世論は、友好国イギリスの擁護を期待したが、イギリスも仏・独・露を敵の回すリスクなど犯せるものではなかった。
また、イギリスはロシアに日本が敵愾心を燃やしてイギリスとさらに接近する効果も期待しており、敢えて三国干渉の情報を日本に知らせていないという裏事情もあった。
明治政府も、イギリスの意図を承知した上で、外敵を造ることで国論統一を図った。
清はさらなる干渉で、台湾の割譲撤回や賠償金の減額などを期待していたが、三国が問題としたのは遼東半島のみで、台湾割譲や賠償金については日本が得るのは当然という立場だった。
むしろ列強国は、賠償金の貸付を行って債務の罠に清を嵌めて、領土の割譲や経済利権の搾取を狙っていた。
敗戦で眠れる獅子ではなく、死んだ獅子であることが明らかになった清はいよいよ列強の植民地へ堕ちていくことになった。