竜宮人世界一周
竜宮人世界一周
1868年3月11日、日本で陸軍総裁・勝海舟と大総督府下参謀・西郷隆盛との間で江戸城開城交渉が行われていたころ、サンフランシスコ湾に見慣れない旗を掲げた船団が入ってきた。
白地の中央を赤い丸で染めた旗を掲げるその船団は、蒸気船3隻と帆船2隻という組み合わせで、速度を落とすために東洋人らしき小柄な水夫達が少々危なっかしい手つきで畳帆を行っているのが見て取ることができた。
19世紀半ばの海では、蒸気船といえども長距離航海では燃料節約のために帆走することは珍しいことではなかった。
水夫たちの足が8本に見えたりしたが、昨日の晩に飲みすぎたと考えれば、不自然な要素はどこにもなかった。
甲板には大勢の東洋人がごった返しており、初めて見る外国の姿に目を輝かせていたが、同じぐらいの数の人々が重度の船酔いで死んだ魚のような目をして陸を見ていた。
港町のサンフランシスコに住む人々にとっては、それはよくある日常の一コマに過ぎず、旗以外に珍しい要素はなかった。
しかし、誘導の水先案内人達が船に乗り込むと悲鳴があがった。
「乙女を見て、悲鳴をあげるとは失礼な奴らだ」
と、フランス訛りの英語で語りかけるフランス軍日本派遣軍事顧問団中尉ジュール・ブリュネに対して、
「竜宮には男も女もない。タチかネコじゃ」
と坂本竜馬は答えている。
以上が竜宮人による初訪米、そして坂本の世界一周の序章となる。
近江屋事件で辛くも暗殺の凶刃から逃れた竜馬は、1868年2月9日に浦賀を出航し、日本を脱出した。
日本の竜馬から、世界の竜馬への飛躍といえば聞こえはいいが、実態としては国外逃亡だった。
なにしろ竜馬は戊辰戦争を進める薩長土肥にとって知りすぎた男になっていた。
また、竜宮人勢力の指導者的な地位に祭り上げられ(本人も困惑気味だった)、身の危険を感じた竜馬は国外逃亡を選んだのだった。
もっとも本人の意識は逃亡や亡命などとはほど遠いところにあったとされることが多い。
この時に竜馬と共に日本脱出を選んだのは、海援隊の同志と旧幕臣やその他大勢あわせて約2,000名だった。
これに軍事教練のために日本へ派遣されていたフランス軍事顧問団の9名を加えて、竜馬達は遥かな北米大陸西海岸を目指して船をこぎだした。
竜馬の恩師である勝海舟の狙いは、主君・徳川慶喜の助命交渉や江戸城無血開城の邪魔にしかならない血の気の多い連中(主に榎本武揚や新選組残党)を竜馬に預けて国外追放することだった。
勝は血の気の多い連中を追放するために策を巡らし、慶喜のフランス亡命という駄法螺をでっち上げた。
慶喜の影武者を使って行われた偽装亡命作戦は見事に成功したが、太平洋上で嘘が露顕したため、船内で戦闘になった。
そのため、日本を出発したとき8隻だった船団は、サンフランシスコに入港したときは5隻に減っていた。
ちなみに新選組の近藤勇や土方歳三といった新選組の面々は重度の船酔いと国外追放されたショックで心神喪失状態になっていたので戦闘には参加していない。
反乱を起こした渋沢成一郎や天野八郎らの最後は明らかではないが、慶喜の影武者を殺害した後に船を乗っ取り日本へ引き返そうとして失敗、全滅したと思われる。
渋沢らは急進強硬派が日本に残っていたら、上野の寛永寺に籠って新政府と一戦を交えていたかもしれない。
竜馬と共に国外追放になった榎本は幕府艦隊を盗んで蝦夷地へ逃亡して新国家樹立を考えていた節があり、もしもそうなっていたら最悪、外国の介入を招いて国家分裂の危険さえあった。
そのような可能性を考慮すると勝海舟に、明治政府は大きな借りを作ったと言えるだろう。
それはさておき、竜宮人としては初めてアメリカ合衆国の土を踏んだ竜馬一行は、直ぐに警察や沿岸警備隊に包囲され、アルカトラズ島に収容された。
アルカトラズ島とは、サンフランシスコ湾に浮かぶ面積0.076km2の小島である。
命名当初は無人島で、地元のインディアン達はこの島を呪われた場所だと考えていた。
当初は灯台や沿岸要塞として使用されていたが、竜馬訪米時には軍刑務所として使用され、1960年代まで一般刑務所として使用された。
別名は監獄島である。
脱出不可能な監獄として、後の時代にマフィアのボスが収容されることになる。
また、映画の舞台としても度々、使用されている。
現代ではカリフォルニアの観光名所の一つだが、当時は前述のとおり軍刑務所であり、要するに竜馬一行は逮捕・投獄されたのだった。
罪状は不法入国である。
竜馬は後にアルカトラズ島の待遇はそれほど悪いものではなかったと述べている。
よいとも言っていないが。
カリフォルニア州政府としては、突然やってきた正体不明のおぞましき者の扱いを決めかねて、何かしでかす前にアルカトラズ島に収容した形だった。
ただし、同行したフランス軍顧問達から激烈な抗議を受けて、直ぐに竜馬達は釈放されることになった。
また、幕府が発行した正式な海外渡航許可書や大君・徳川慶喜の親書を携えていることが判明したので、カリフォルニア州政府は正式に謝罪して補償を行っている。
投獄された竜馬の代わりに合衆国の出先機関と解放交渉をしたのは、旧幕臣・小栗上野介(忠順)だった。
横須賀海軍工廠の前進となる横須賀製鉄所をひらいた小栗は、幕府随一の能臣と知られており、その能力を危惧した新政府に消されかねないため、半ば無理やりに船に乗せられて竜馬一行に加わることになっていた。
幕府崩壊を目の当たりにした小栗はすっかり厭世的になっていたが、太平洋横断中もその能力をやむを得ず発揮し、船を乗っ取り帰国しようとする榎本武揚を説得するなどしていた。
竜馬解放交渉でも、やむを得ずその能力を発揮して交渉を成功させ、さらに謝罪といくらかの賠償金を巻き上げているのだから、只者ではない。
ちなみに小栗の
「やれやれだぜ・・・」
という口癖は、竜馬の世界一周旅行に無理やり付き合わされた頃に染みついたものだと言われている。
将軍の親書によって、海外視察団(費用は自己負担)ということになった竜馬一行は、海路組と陸路組に別れて南北アメリカ大陸を西から東へ横断することになる。
海路組(組長・陸奥宗光)は、サンフランシスコから沿岸沿いに南下し、パナマ地峡や見て、日本人としては初めてマゼラン海峡を回ってアルゼンチン、ブラジルに寄港。仏領ハイチを経由してニューヨークにいたる26,000kmの大航海に挑戦することになった。
陸路組は竜馬を団長として、鉄道でアメリカ大陸を横断してワシントンD.Cへ赴き、合衆国大統領に将軍の親書を渡すこととなる。
ただし、2,000名全員を連れていくことは困難であるため、シアトルに海援隊株式会社を開設することになった。
これが日本初の総合商社の創設となる。
竜馬はサンフランシスコやサンディエゴで中古船を物色し、西海岸で目についた物産や生産機械を片っ端から買い付けて、船で日本に送るように手配した。
ちなみに買い付けや本店開設資金には、竜宮遺臣が蓄えていた埋蔵金が使われた。
海底の竜宮城が壊滅したときに持ち出された財宝の半分は幕府への献金として使われていたが、残りの半分は竜宮藩が隠匿し、万が一に備えて蓄えられていた。
埋蔵金は竜宮藩が改易処分された後も隠匿され続け、竜馬の日本脱出でついに日の目を見ることになった。
金額としては400万両という大金だった。
竜宮埋蔵金は、現代でも度々詐欺事件のネタや好事家向けの雑誌や、テレビ局のバラエティー番組のネタでも使用されることになる。
竜馬一行は、合衆国の好意でアメリカ各地を回り、初めて見る列強国の豊かさに圧倒されながらも、次々に出資者を獲得していくことになった。
合衆国当局は、竜宮人が国内をうろつくことでパニックが起きることを危惧していたが、それは杞憂に終わった。
むしろ各地で竜馬一行は歓迎され、物珍しさに人々が殺到することになった。
合衆国各地で歓迎された竜宮人は、欧米人にはおぞましい印象を放つ下半身を巧妙にロング・スカートで隠し、顔立ちは合衆国人好みの完璧な女性に化けていた。
同行した榎本は、
「女は化粧で化けるというが、竜宮人は本物の化生だ」
と後に振り返っている。
竜馬の北米旅行は、竜宮人の歴史において一つの転換点となった。
黒船来航から15年余、徹底的に外国人から嫌われ続けた竜宮人は膨大な時間と多くの犠牲を経て、遂に外国人の”好み”を把握することに成功したのである。
ただし、それは19世紀半ばの白人の好みに留まった。
黒人やインディアンといった竜宮人に全く接触したことがない人々からは、相変わらず忌み嫌われていた。
白人達が竜宮人にミス・パーフェクト!と賛辞を送って熱狂していたとき、解放されたばかりの黒人や居留地に暮らすインディアン達はそれを白けた目で見ていたのである。
こうした現象は以後、竜宮人が世界進出を拡大する時に、しばしば繰り返されることになり、学術的な研究対象となった。
所謂、不気味の谷である。
外見と動作が「人間にきわめて近い」竜宮人と「人間とまったく同じ」竜宮人は、見る者の感情的反応に差がでるだろうと想定し、この二つの感情的反応の差をグラフ化した際に現れる強い嫌悪感を表す谷を「不気味の谷」と呼ぶ。
人間と竜宮人が共同作業を行うためには、人間が竜宮人に対して親近感を持ちうることが不可欠だが、「人間に近い」竜宮人は、人間にとってひどく「奇妙」に感じられ、人間に近いことが生理的な嫌悪感をつくりだして逆効果となる。
竜宮人は無意識のレベルで、相手から愛される外見を作ろうとするが、対象に対する知識や文化的な理解が不足していると微妙な齟齬が生じて、「人間に極めて近い」という不気味の谷へ落ちることになる。
これは竜宮人が人間のような骨格・皮膚や筋肉組織を持たない構造のため顔の細かい凹凸が人間と異なることが原因に挙げられる。
黒船来航まで、日本人とだけ向き合ってきた竜宮人は、欧米人が認識する「人間」に対して「人間にきわめて近い」ものしか作ることができなかったのである。
おそらく日本人も、最初は竜宮人に対して嫌悪感を抱いていたと考えられている。
そう考えると竜御前をドブから助け上げた徳田新之助(仮名)の持っていた度量の大きさに心打たれる。
おそらく、徳田氏の心は太平洋よりも広かったのだろう。
坂本視察団は、1869年に開通したばかりのユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道(大陸横断鉄道)を利用した最初の日本人となった。
榎本は、車窓を流れる合衆国の広すぎる耕作地帯に衝撃を受け、帰国後に北海道で開拓事業を興すことになる。
東海岸でも坂本視察団はおぞましき者の襲来として当初は警戒されたが、直ぐに打ち解けてしまった。
15年前に竜宮人をジュラル星人と書き立てたゴシップ紙は坂本視察団を淫乱・色情狂・サキュバスの売春旅行と書き立てたが、それは概ね事実だったので誰も問題視しなかった。
視察団の中には旅の途中で脱落(永久就職)する者も現れたが、それは竜宮人的にはむしろ賞賛されるべきことだった。
坂本視察団は竜宮人の長年の夢だった開国性交を存分に満喫したと言える。
竜馬がホワイトハウスを訪問してユリシーズ・グラント大統領に慶喜の親書を渡したのは、1869年5月7日のことだった。
既に戊辰戦争は終わっており、幕府は崩壊して慶喜は江戸を離れて静岡に移り、江戸は東京と名を変え、元号は慶応から明治に変わっていた。
それに併せて坂本視察団の渡航許可書の法的根拠も消滅していたが、当時は大らかな時代だった。
グラントは新政府を承認する意向だったので、旧幕府の親書の受け取りを躊躇った。
しかし、親書の内容が新政府成立後の日米修好を願うものだったことから最終的に受け入れた。
滅亡した政権権力者のラスト・メッセージが、軍事援助や亡命の要請ではなく新政権との修好の願いというのは異例のことであり、グラントに深い感銘を与えたのである。
グラントは竜馬に強い親近感を持ち、過去に合衆国が竜宮人に抱いていたイメージが完全に誤りだったことを率直に認めた。
竜馬は親睦を深めるためにより良い方法があると提案したが、同席したファーストレディの顔面が怖いことになったので諦めた。
ただし、諦めていなかったという説もあり、竜馬は後でそれを匂わせる発言を残している。
後にも先にも、合衆国大統領を公的にナンパしたのは坂本竜馬ただ一人だけである。
ちなみに合衆国大統領と会見した最初の竜宮人というタイトルホルダーにもなった。
グラントの好意で、引き続き合衆国各地を視察できることになった坂本視察団は、ニューヨークやボストン、さらに合衆国海軍のノーフォーク基地を視察した。
19世紀の日本人にとっては、サンフランシスコでも十分に大都会だったが、ニューヨークやボストンは殆ど異次元空間だった。
1870年時点で既にマンハッタン島は近代的にビルディングやアパートメントで埋めつくされており、都市経済拡大に伴って市街地は郊外へと広がっていこうとしていた。
セントラル・パークやイーストサイド、ブロードウェイを歩いた近藤勇は、
「こりゃ勝てん」
と心情的に引きずっていた攘夷の無意味さを吐露している。
近藤が壬生狼として駆け抜けた京も日本としては有数の大都会だったが、ニューヨークとは比べるべくもなかった。
ちなみに近藤はニューヨークに来るまで丁髷と帯刀、さらに新選組のダンダラ羽織を墨守していたが、あまりにも目立ちすぎて質問攻めにされることに閉口して帯刀も丁髷も羽織りも止めてしまった。
何もかも明治元年を迎えたばかりの日本とは桁違いだった。
ただし、竜馬はだからこそつけ入る隙があり、戦う相手は建物ではなく同じ人間であると旧敵を励ましている。
近藤は後に海援隊の幹部として辣腕をふるうことになるが、竜馬と和解したのはニューヨーク訪問の時のことだと言われている。
同年7月7日にボストンで竜馬は海路組と合流を果たした。
如才ない陸奥は既にボストンに新たな海援隊の支店を開く準備を進めていた。
ボストンの他にも途中の寄港地となったブエノスアイレスやリオデジャネイロにも陸奥は海援隊の支店を開き、世界の海援隊たるべく着実にコマを進めていた。
陸奥は自身の成果を得意げに報告したが、竜馬が北米横断中に集めた出資金や買い付けた物産、各種不動産契約やリース契約や購入契約を結んだ数十隻の中古蒸気船といった長大なリストを渡されて、卒倒しそうになった。
竜馬のボストン滞在は7年に及び、海援隊北米組織の基礎を固めることに費やした。
坂本視察団は亡命集団扱いとなっており、ヨーロッパ諸国は新政府との関係構築を重視したので受け入れを拒否されてしまった。
竜馬一行が北米に滞在できたのは、グラント大統領の好意によるところが大きかった。
戦争に負けた幕府方の幹部や新選組のように新政府から報復対象とされている人員を引き連れているため帰国することも不可能であり、竜馬はボストンに腰を落ち着けることになる。
ボストン時代の坂本竜馬のポートレート。国際企業として海援隊はボストン時代に原形が完成した。
ちなみに既婚者で、40代である。
ただし、竜馬はボストンで椅子をズボンで磨いていたわけではなく、合衆国中を飛び回って次々と商談をとりまとめ、出資金をかき集めていた。
竜馬には二つの特技があり、一つは交渉事でもう一つは金策だった。
日本にいた頃も薩長同盟をまとめ上げ、若干27歳で神戸海軍操練所設置のために1,000両をかき集めている。
1868年の北米横断旅行は竜馬の才覚が遺憾なく発揮された例として名高く、実務を殆ど丸投げされた小栗などは、
「やれやれだぜ・・・」
とぼやきながら海援隊の組織作りに手を貸した。
ボストンといえば、アメリカ独立戦争のきっかけとなったボストン茶会事件(1773年)の舞台であり、竜馬一行はアメリカ独立記念日(7月4日)のお祭り騒ぎを目撃することになった。
竜馬自身もボストン市主催の独立記念パーティーに招かれ、盛大な打ち上げ花火を見た。
ちなみに花火といえば日本の夏の風物詩だが、江戸時代の花火は基本的に炭火色といわれる橙色の強弱のみしか色表現がなかった。
それに対して西洋の花火は、進んだ化学工業を背景に、塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの化学薬品を使った豊富な色表現が可能となっていた。
西洋花火が日本に持ち込まれたのは1868年のことで、まだ日本では殆ど広まっておらず、大量の西洋打ち上げ花火を見たのは竜馬一行が日本人としては初めてのことだった。
打ち上げ花火を見た小栗は望郷の念に駆られ、
「たーまーやー」「かーぎーやー」
と叫んだところ、合衆国人の中からそれに応じる声が上がった。
21世紀現在でも、ボストンの独立記念日に行われる打ち上げ花火で、
「TA!MA!YA!」「KA!GI!YA!」
という掛け声があがるのは、竜馬一行が伝えたことが始まりとするのが定説となっている。
合衆国で人口に膾炙する日本語、エンポン、ユウカク、シュンガ、ハリガタ、ヘンタイ、ゲイシャ、カワイイといった言葉が広まったのも坂本達を起源とする説がある。
長逗留となったボストンで海援隊と袂を別けた人物も多い。
元新選組の斎藤一は故あって私立探偵事務所を開くことになり、海援隊から離れた。
斎藤が私立探偵になってから暫くするとハドソン川からニューヨークを騒がせていた凶悪犯罪者達の斬殺死体があがるようになったが関係性はない。
ちなみに新選組の治安維持活動は基本的に生け捕りであり、悪・即・斬のような物騒なポリシーは創作の産物であることを念のため申し上げておく。
同じく元新選組の野庭一臣はニューヨークで日本語教室を開き、海援隊から独立している。
野庭がペンシルバニア駅の前に開いた駅前留学の野庭は、教える言語を増やしながら外国語教室のチェーン店として、アメリカ中に広まっていくことになる。
ボストンで足止めになった竜馬一行は、海援隊の仕事があったので特に金銭面での苦労は感じずに済んだが、文化や生活の違いに苦しめられた。
特に風呂文化の違いは深刻だった。
19世紀のニューヨークにも銭湯はあり、ボイラーで作ったスチームを提供する設備はあったが、日本の銭湯とは全く形式が異なるものだった。
もちろん、男女は別である。
日本の銭湯は基本的に混浴であることを考えるとこれは大きな問題だった。
特に竜宮人にとっては深刻だった。
竜馬は日本式銭湯(混浴)をニューヨークに開こうと画策したが、ニューヨーク市警から大目玉をくらって断念したという経緯がある。
ただし、地元のマフィア組織に話を通して特殊公衆浴場という名目で日本式銭湯を建設した噂があり、現物が1960年代までは稼働していた。
なお、特殊公衆浴場は混浴であることは当然として、なぜか入浴客同士の恋愛が突然始まるという不思議な現象が観測されており、それが事実ならば大変に興味深いことである。
また、海援隊(日本人)が関与したことが分からないように偽装するため、ターキッシュ・バスハウスという名称が使われていたとされる。
食文化の違いも大きな問題で、米と醤油と味噌が恋しくなる瞬間があった。
一応、合衆国でも米は入手可能だったが、日本のジャポニカ種ではないため食味が異なり、日本式の炊飯には耐えられなかった。
しかし、発酵原料として使うことは可能で、竜馬達がボストンでどぶろくめいたものを醸造していた記録が残されている。
ただし、品質管理は劣悪の一言で、しばしばただのお腐れ水と化した。
醤油や味噌の入手は不可能で、竜宮人のソウルフードである長芋やもずく、なめこ、納豆を入手することもできなかった。
代用品として食べられるようになったのが、オクラである。
オクラはエチオピア原産の多年草で、黒人奴隷と共にアメリカ南部に持ち込まれて、栽培が広まっていた。
海援隊の手によってオクラ栽培が日本でも広く行われるようになり、品種改良で多種多様なオクラが生まれることになった。
しかし、どうしても日本的粘性食物が食べたかった竜馬達は、1872年にボストンで大豆から納豆生産に挑戦し、これを成功させた。
これが北米での納豆生産の始まりとなる。
所謂、ボストンナットウである。
ただし、製造工房の密閉が不十分だったことから異臭騒ぎになってしまいボストン市警から厳重注意されている。
しかし、竜馬や海援隊創成期のメンバー達にとっては、それも良い思い出だった。
後に竜馬は、
「あの頃が一番生きている気がした」
と語るなど、自由と可能性に満ちた外国生活を満喫していた。
第一子に恵まれたのもボストン生活中のことだった。
日本風にもアメリカ風にも読めるように、花蓮と名付けている。
ちなみに生んだのは竜馬自身で、相手はアメリカ人のジャック・ダニエル(25歳)という若いアメリカ人の実業家だった。
ボストンの酒場にテネシー・ウイスキーを売り込みにきた若きジャックは、一人で飲んでいた竜馬に一目ぼれした。
実業家仲間として意気投合した二人は、そのまま朝まで飲み明かし、二人してベットの中で目覚めたというわけである。
竜馬曰く、
「まさか、酔いつぶされるとは思わなかった」
とあっけらかんとして言われているが、妻のお竜婦人が激怒したことは言うまでもない。
土佐人は酒豪が多く、竜馬もウワバミだったが、若きジャックの情熱が一枚上手だったということにしておこう。
ジャックの恋は竜馬が妻帯者だったことから破れることになった。
しかし、愛娘の名を冠したテネシー・ウイスキー「カレン・ブラック」は1904年開催のセントルイス万国博覧会に出品され、世界各国の一流ウィスキーを退けて金賞を獲得して、ジャック・ダニエルの名は世界に広めた。
ジャックは生涯独身を貫いて一生をテネシー・ウイスキーに捧げ、蒸留所を甥に譲った。
ただし、最高傑作の「カレン・ブラック」の製造・販売権はカレンに遺産として残した。
愛娘に捧げられたテネシー・ウィスキーは合衆国を代表するウイスキーとして、海援隊の手によって世界中に輸出され、21世紀現在もジャック・ダニエルを代表するブランドとして君臨している。
話は少し前後するが、1871年に訪米した岩倉使節団と坂本視察団は道を交えた。
岩倉使節団は、明治新政府が派遣した大規模外交使節団で、進んだ欧米の文明を視察すると共に幕府時代に結ばれた不平等条約を改正交渉するという任を帯びていた。
残念ながら、1871年時点では日本側の法典未整備を理由に条約改正交渉は失敗に終わっている。
しかし、政府首脳が長期外遊によって欧米列強の実情を知ることができたことは大きな成果であり、あわせて留学した多くの子弟が明治の文明開化に果たした役割は多かった。
竜馬は特命全権大使の岩倉具視、副使の桂小五郎(木戸孝允)や大久保利通と非公式会談をもち、帰国と明治政府への合流を打診されている。
即答を避けた竜馬だったが、かなり迷ったことを後に明かしている。
ただし、会談中に武装した土方歳三が乱入して、斬りあいになってしまったので、竜馬の明治政府参加は幻に終わった。
竜馬はこの時、久しぶりに北辰一刀流の腕を振るって、岩倉らが逃走するまでの時間を稼いだ。
木戸や特に大久保には竜馬も含むところがあったが、明治政府の首脳部が暗殺されたとあっては国の一大事だった。
幸いなことに死傷者がでなかったことや非公式会談だったことから、暗殺未遂事件そのものがなかったことにされたが、帰国が大きく遠のくことになった。
事件をおこした土方のその後は不明だが、一説によるとフロリダに逃亡した後は、キューバ島へと渡ったとされる。
キューバに土方の墓とされる墓石が残されており、1998年に発掘調査とDNA鑑定が行われて、土方本人の墓であることが確認された。
辛くも窮地を脱した岩倉使節団は、合衆国に次いでヨーロッパを歴訪し、地中海からスエズ運河を経てインド洋を横断して、アジア各地にあった欧米列強の植民地を訪問して、1873年9月13日に帰国した。
土方からの襲撃から生き延びた木戸や大久保だったが、留守政府を預かる西郷隆盛と征韓論を巡って激論となり、最終的に大久保らが失脚することになった。
朝鮮は日本開国後も鎖国政策を続けており、新政府からの呼びかけにも答えず、頑迷な主張を繰り返していた。
また、朝鮮半島に上陸した竜宮人を殺害するなどしたため、邦人保護の必要性が浮上した。
そこで武力をつかってでも朝鮮を開国させる征韓論が出てきたのだが、大久保は対外戦争は時期尚早として征韓論を主張する同郷の西郷隆盛と大激論になった。
最終的に新政府に参加していた竜宮人勢力が賛成に回ったことで征韓論が国策となった。
幕末において熱狂的に開国主義を推し進めた竜宮人は、日本の完全開国に成功すると次は隣国に開国性交の情熱を向けていた。
大抵の竜宮人は、朝鮮が鎖国を続ける理由や目的を理解しておらず、幕末のノリで朝鮮と開国性交しようとしていた。
もちろん、100%の善意である。
むしろ気持ちいいことを教えてあげるのだから、ご褒美ぐらいの意識を持っていた。
強いて言うなら精通前の少年に、性教育を施すお姉さんぐらいの感覚である。
これは児童性犯罪という指摘にはあたらないと竜宮人は考えていた。
明治政府は邦人保護を名目に朝鮮への軍派遣を決意し、江華島事件(1875年)が起きる。
江華島事件は日本軍が首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島を急襲し、占領した事件である。
江華島には首府防衛のための砲台があったが、洋式大砲を備えた日本海軍の雲龍(蒸気フリゲート)や甲鉄(同型艦)、龍驤(同型艦)の前には無力だった。
上陸した陸軍部隊も容易く朝鮮軍を撃破して敗走させた。
首府の喉元に刃を突きつけられた朝鮮は、宗主国の清に救援を求めた。
しかし、内乱で疲弊していた清は日本との全面戦争は望んでおらず、日本が要求を押し通して日朝修好条規が結ばれることになる。
日朝修好条規は所謂、不平等条約で同種の条約を日本以外の諸外国と結ぶことになった朝鮮王国は、体制の動揺が抑えられなくなり、動乱期を迎えることになる。
論争に敗れ下野した大久保は鹿児島に帰郷したが、西郷とは異なり人望がなかったことから、周囲から冷たくあしらわれ、生活に困窮することになった。
同じく帰郷した木戸孝允が地元で盛大に歓迎され、やがて山口県から全国に自由民権運動を展開していく中心人物となるのとは大違いだった。
大久保は非常に優れた能力の持ち主だったが、陰謀家で歯に衣着せぬ物言いが目立ち、物わかりの悪い人間を軽蔑するなど、好悪の分かれる人物だった。
要するにバカが嫌いだったと言える。
失脚せずに新政府の中心にいたら、その内暗殺されていたと考えられており、失脚したため長生きできたとしたら皮肉な話である。
ちなみに征韓論争で大久保の論敵となった江藤新平も似たような性格をしており、大久保を追い出した江藤は泥酔するまで飲んで勝利を喜び、明治天皇から顰蹙を買っている。
江藤は、帰郷した大久保が巻き返しを図って反乱を起こすと予想し、こっそり刑法を改正して反乱罪の刑罰を死刑に書き換えていたのだが、大久保に人望がなく、鹿児島で不平士族が暴発することもなかったので不発に終わった。
それはさておき、竜馬を危険視していた大久保や木戸の失脚で、竜馬には正式に帰国命令が降りると共に他の面々(土方は除く)も赦免を得た。
坂本視察団が合衆国を離れたのは、1875年8月17日となる。
次の目的地はイギリス・ロンドンだった。
全盛期の大英帝国の首都を訪れた竜馬一行は、明治政府の正式な視察団として迎えられた。
竜馬はヴィクトリア女王にも謁見しているが、合衆国で大統領をナンパしたことが知れ渡っており、関係者は竜馬が何を言い出すのか気が気ではなかったという。
竜馬はロンドンやポーツマス、マンチェスターなど各地を視察する傍らで、商売の種になりそうなものを片端から借金で購入し、日本へ送った。
海援隊ロンドン支店が開設されたのもこの時だった。
海援隊日本支店を切り盛りしていた岩崎弥太郎は、次々に送られてくる列強国の最新技術の塊に目を白黒させながらも、如才なく捌いて多大な利益を生み出した。
ただし、どうしても使い道がわからず、倉庫に死蔵されてしまったものもあった。
電話もその一つである。
漸く電信の敷設が始まったばかりの明治初期の日本で、音声通話を可能とする電話などは想像することすら困難な高度先進技術だった。
しかも、まともな説明書もなかったのだから、明治の日本では完全に意味不明だった。
イタリア人発明家のアントニオ・メウッチが発明した電話機を竜馬が入手した経緯は不明であるが、おそらく1874~75年ごろにニューヨークで買い取ったものと思われる。
殆ど即座に電話事業の未来を確信した竜馬は、メウッチから電話機一式を買い取り、200ドルを支払って特許を合衆国で申請していた。
そのため、アレクサンダー・グラハム・ベルの電話に関する特許は却下された。
ベルはメウッチの特許を回避した電話を開発して改めて特許をとり、それを以て自身を電話の発明者と自称したが、流石にそれは無理があった。
合衆国以外の歴史教科書には、メウッチが電話の発明者として記録されている。
なお、ベルは電話の発明者になり損ねたが、電話事業には大成功しており、後に電話事業独占のために竜馬に取引を持ちかけている。
ちなみに竜馬は電話機を買い取ったことを完全に忘れており、ベルから取引を持ちかけられて初めて思い出したほどだった。
岩崎は電話事業で儲けそこなったことを非常に後悔し、
「我、誤れり」
と日記に書き残している。
しかし、明治初期の日本の社会資本で電話事業を興して、ベルほどの利益をあげることができたかは疑問である。
19世紀末までに合衆国の電話普及台数は100万台に達していたが、日本がその数字に達するのは1930年代のことである。
坂本使節団のイギリス滞在は8カ月に及び、その後はフランス・オランダを訪問した。
フランスで、竜馬達は先に帰国していたブリュネ(当時は大尉)と再会し、華の都パリを性的な意味で満喫している。
「フランスの女性とワインは素晴らしい」
という手紙を竜馬はパリから日本の岩崎弥太郎に送った。
ほかはどうなのかは触れないでおくべきだろう。
竜馬はパリに海援隊の支店を開くと共に様々なフランスの物産を日本に送り、出資者にも恵まれた。
しかし、坂本使節団が歓迎されたのはここまでだった。
ドイツ帝国からは入国を拒否された。
スイスやスペイン、ベルギーやイタリア、オーストリアも同様だった。
これらの国々では竜宮人は未だに生理的な嫌悪感が先立つおぞましき者であり、安全が保障できないとして入国を拒否された。
交渉にあたったドイツ外務省の職員が竜馬を見るなり、RRSを発症して精神病院に送られたのだから、極めて深刻だった。
先行した岩倉使節団がドイツなどに入国できたのは、こうした事態を想定して竜宮人抜きで使節団を編成していたためである。
置いてきぼりをくらった竜宮人が怒り狂って、留守政府を任された西郷を担ぎ上げて朝鮮に開国性交を迫ったのが征韓論と言える。
米国や英国などであっさりと警戒心を解いてしまった竜馬達は、他の国でも上手くやれると考えていたが、現実は厳しかった。
当時はまだ不気味の谷といった概念もなく、竜宮人達もなぜ国や民族によってここまで対応が異なるのか理解できていなかった。
ただし、入国を拒否した国々が日本との関係が浅い国や国交を開いて間もない国であることは経験則で理解できたため、いずれ関係が深まれば入国も可能になるだろうと思われた。
明治の初め頃、開国によって世界の広さを知ったばかりの竜宮人は、底抜けに楽天的だったのである。
そのうちに、日本人のように彼らも自分たちのことを受け入れてくれると信じて疑わなかった。
それが無知ゆえの儚い夢だったことを知るのは、もう少し先の話である。
ドイツ訪問を断念した坂本使節団は、マルセイユから海路を進み、スエズ運河を通過してインド洋に入った。
紅海からアフリカの角は海賊が出没する危険地帯だった。
しかし、欧米で中古船舶を買い集め、20隻もの大船団に成長した海援隊に敢えて攻撃を仕掛ける命知らずはいなかった。
この時、竜馬は海賊多発地域でエスコートサービスを行う海の傭兵業というアイデアを思いつき、さっそくアデンに支店を開設している。
元々、海援隊は土佐藩の軍事力を補完する準軍事組織であり、陸上戦闘を行う陸援隊もあった。
陸援隊は明治政府が民兵解体の方針だったため、竜馬が日本を離れている間に解散させられていた。
海の民兵組織としての海援隊も休業状態だったが、竜馬は需要はあると考えた。
日本では、明治維新に続く第2革命とも言える廃藩置県(1871年)によって、士族の多くが失業しており、兵士や将校として新政府に仕えるのは嫌だが、戦士として働きたいと考える士族は多かった。
明治政府としても、危険分子を国外追放するという意味で、竜馬の提案には前向きだった。
不平士族が特に多かった鹿児島や山口には海援隊の徴募事務所が開設され、海外で一旗揚げようとする者達でにぎわった。
ただし、竜馬は海援隊が日本人や竜宮人だけの組織になることは、世界の海援隊としては好ましくないと考えており、外国人も積極的に採用している。
開国性交とは、四方の海に股を開くことだからである。
帰国の途上で立ち寄ったシンガポールや上海でも海援隊の支店や徴募事務所を開いて、兵員募集を行っている。
ただし、中国人やマレー人などは竜宮人に対する嫌悪感が強く殆ど募集は不可能だった。
初期の海援隊軍事部門の構成員は日本人と龍宮人が半々で、将校クラスは英米仏の退役軍人が務めるという状態だった。
なお、海援隊艦隊の初期の装備は買い集めた中古の捕鯨船などに旧式大砲などを装備したものだった。大砲さえなく、甲板から陸兵がライフル銃で攻撃するか、場合によっては強行接弦して斬り込みが唯一の武装という場合も多かった。
相手も武装が貧弱な海賊なら接弦斬り込みはそれなりに有効であり、新選組の生き残りには好んで接弦斬り込みを行う者もいた。
欧米の退役軍人の就職先として、海援隊は一定の評価され、各国軍部や兵器メーカーとコネクションを築くことに成功したのは、経済的な利益を超える成果と言えた。
後にオランダやイギリスは、東南アジアの植民地で行う治安維持活動の経費を節約するために一部の業務を海援隊に委託するようになる。
それを引き受けることは、欧米列強の植民地支配の片棒を担ぐことに他ならないのだが、明治の日本は自分が生き残るだけで精一杯だった。
それさえも本当に可能かどうかは、日本人と竜宮人の努力次第と言えた。
竜馬が帰国したのは、1878年2月3日だった。
慶応の日本脱出から10年の月日が流れていた。




