幕末と開国
幕末と開国
1850年代の日本における主要な政治的なテーマは、開国と攘夷だった。
黒船来航(1853年)でアメリカ合衆国から軍事恫喝を受けて、日本は開国を迫られた。
即ち、日本の開国論は自発的に発生したものではなく、外部圧力によってやむを得ず生じたものと言える。
しかし、やむを得ず生じたものであっても、国防の危機から開国論は大きな力をもった。
市井においては佐久間象山・横井小楠らの貿易や外国からの文物導入を通じて国防を達成する道を説き、薩摩藩といった西国雄藩や譜代の彦根藩も通商による富国に前向きだった。
さらに竜宮人勢力は開国論に全身全霊を投じた。
竜宮人達が開国論にかける情熱は、もはや宗教的な色彩を帯びていた。
メリケン人がはるばる太平洋を越えて、言い寄ってきたのだから、これを受けないという選択肢は竜宮人の発想にはなかった。
「向こうから言い寄ってきた以上は、合意とみなす」
然らば、即ち性交であり、四方の国々に股を開き、性交を通じて好を図ることが竜宮人にとっては当然の理だった。
それまで極東の弧状列島で日本人とイチャイチャすることで満たされていた竜宮人に世界の広さを教えたのは、合衆国だったと言える。
そのため、合衆国は後に世界中の歴史家から余計なことをしたとボロクソに言われることになった。
開国に向けて動き出した幕府は大船建造の禁も解除し、各藩に軍艦の建造を奨励すると竜宮藩はただちに洋式帆船の建造に乗り出し、外洋航行技術の取得に向けて操船伝習所を設けた。
外国語の習得のためにカリキュラムも組まれたが、これはあまり熱心ではなかった。
机の上で勉強するよりも、閨で覚えてしまう方が早いからだ。
しかし、端緒をつくったメリケン人が、なぜ妙に腰が引けた対応を取り始めたので、竜宮人はいきり立った。
竜宮人にとって、腰は引くものではなく、ぶつけ合うものだったからだ。
なお、腰が引けているという表現は竜宮人に対する最大の侮蔑語であり、場合によっては刃傷沙汰になりかねないので注意が必要である。
1854年10月に、オランダを通じて開国の是非を確認してきた合衆国は、幕府から開国受諾の回答を得ると、オランダを仲介者とした条約交渉を提案してきた。
幕府をはじめ、殆どの日本人は再び黒船が江戸に押し寄せてきて軍事恫喝を行うと覚悟していたので、合衆国の迂遠と思える対応に首を傾げた。
しかし、幕府としては本来の外交ルートに近い形で交渉を求める合衆国の提案を拒否するわけにもいかなかった。
ここで拒否すれば、再び合衆国が軍事恫喝に及ぶのは目に見えていたからだ。
合衆国と交わした外交文書を素直に読むと、なぜか開国を拒否してほしそうしている文面になっていたが、何かの陰謀であると判断された。
話し合いを持ちかけて、それを拒否したとなれば、非を打ちならし、開戦口実とするのは、戦の常道と言える。
少なくとも幕閣達はそのように考えていた。
幕閣の危惧を裏付けるように、長崎の出島で行われた日米交渉は、極めて奇妙なものとなった。
メリケンの全権大使タウンゼント・ハリスは、出島のオランダ商館で日本側の全権となる長崎奉行の川村修就と面会し、以下を要求した。
・日本とアメリカは修好通商条約を締結し、正式な国交と通商関係を結ぶ。
・ただし、当面の間は準備期間中として相互の領事館設置は見送る。
・通商は長崎の出島にかぎり、貿易も合衆国が船を手配した分に限り、自由貿易は認めない。
・日本の法律が前近代的であるため、法典整備が済むまでお互いの邦人保護が困難であるから、最低限の人員を除き、相互入国を禁止する。
・アメリカ人犯罪者の処分は、領事に一任する(領事裁判権)。
・関税は従価税方式とする。
といったものだった。
領事裁判権については、江戸時代を通じて長崎では外国人の犯罪者はオランダ商館長に処分を一任されている前例に習ったものであり、治外法権ではなかった。
関税についても、輸入税20%は世界的にみれば平均値である。
そして、当面の開港地を長崎の出島に限り、相互の入国禁止措置や、相互の領事館設置を見送るというのは殆ど鎖国体制の継続だった。
交渉にあたった川村は、
「これはメリケンの陰謀にて候」
と江戸に報告書を回送している。
幕閣や攘夷派の徳川斉昭、開国派の竜御前も同じ反応を示した。
わざわざ軍事恫喝をして開国を要求したのにもかかわらず、メリケンの要求はもう一度鎖国せよと言っているのも同然だった。
当時の日本の政治中枢が抱いた困惑を端的にいえば、
「是非もなし(ワケガワカラナイヨ)」
と言えるだろう。
しかし、要求を拒否した場合の反応が読めなかった。
日本に有利な条件を提示し、拒否された場合にそれを口実に侵略してくるのではないかという危惧があった。
また、ハリスが竜宮人について異様なほど詳しく情報を集めていることも気がかりだった。
あとからやってきたエゲレス人やおろしあ人などが、竜宮人を見て引き付けを起こして退散したことに関わりがありそうだったが、日本人には全く理解できなかった。
日本では竜宮人はありふれた存在だったためである。
当然、外国にも竜宮人はいるものだと誰もが思い込んでいた。
地球上で竜宮人が暮らしているのが、日本列島のみということが分かるのは、かなり後になってからのことである。
幕府内部で条約締結について激論となったが結論を出すことができず、朝廷に判断を仰ぐことなった。
これは大老に就任した井伊直弼の策戦で、朝廷からのお墨付きを得ることで、攘夷派を説得する意図があった。
基本的に攘夷派の朝廷(孝明天皇)は、条約締結には否定的だったが、条約の内容からして外国人が日本の領土に侵入する心配は少ないとして条約締結に勅許を与えた。
条約に反対していた水戸徳川家は尊王家だったので、勅許が下りた以上は条約締結に反対することは難しかった。
攘夷の対象である外国人がなぜかおとなしくなり、ずっと鎖国していてくれと言わんばかりの態度を取り始めたので、攘夷論は主敵を失って消沈していくことになる。
1858年7月29日、日米修好通商条約は無事、締結された。
なお、合衆国は長崎での通商を求めたが、出島は手狭だったので、過去にオランダ商館が置かれていた平戸が開港地に選ばれた。
条約交渉を仲介したオランダともほぼ同じ内容の日蘭修好通商条約が結ばれている。
合衆国以外の列強諸国も次々に通商条約を結んでいったが、内容は全て踏襲された。
イギリスは志布志、フランスは宇和島、ロシアは函館が開港地に設定された。
なぜか欧米列強は、開港地に竜宮人がいない場所を指定してきたので、開港地は西日本や北日本に偏った。
しかし、いずれも京都や江戸から遠く離れた僻地であり、攘夷派にも開国派にも穏当な受け入れやすい内容だったと言える。
受け入れられないのは、竜宮人だけだった。
これから盛んに開国性交しようと考えていた竜宮人には、原則相互入国禁止など受け入れられるはずもなかった。
各地の開港地には開国性交を求めて竜宮人が集まり大混乱となった。
長崎でアメリカ船に密航を企てて逮捕された長州藩の武士、吉田竜次郎(後の吉田松陰)もその一人だった。
密航船から引きずり降ろされた松陰が、
「開国させろー!!」
とあげた雄たけびこそ、全竜宮人の意見を代弁するものだった。
松陰は逮捕され幽閉の憂き目を見ることになったが、後に私塾(松下村塾)をひらくことを許されて、明治維新を主導する人材を育てることになる。
ちなみに松陰は早い段階から大陸進出の必要性を説いていた人物であり、
「朝鮮半島は、大陸に突き出した男根」
といった発言を繰り返し、当時はまだ思春期を迎えたばかりだった明治日本を主導することになる元老達に多大な影響を与えた。
竜宮人にとって、外国人の態度は全く意味不明だった。
例えるならば、黒船来航が挿入なら、日米修好通商条約は文通の誘いぐらいの後退だった。
竜宮人の常識では、挿入の次は前後運動である。
激高した過激開国派は徒党を組んで竜御前を詰問した。
それに対して竜御前は、
「これは誘い受けである」
と回答して詰問をかわしたとされる。
竜御前も欧米列強の態度豹変を理解できていなかったが、これまでの経験からそう判断するしかなかった。
竜御前は激高する若い開国の志士達に対して、「今日は家に帰りたくない」と言えばどうするかと尋ね、
「泊まっていけばいいじゃない!」
と檄を飛ばして、彼らに奮起を促した。
開国の志士を激励する竜御前の肖像。現代でも竜御前は竜宮人の民族の象徴として深く尊敬されている。幕末の六賢侯の一人に数えられることもあるが、すでにかなりの高齢だった。しかし、外見で竜宮人の年齢を推測するのは不可能である。
結果、多数の竜宮浪人が開港地周辺に集まって攘夷派の志士と衝突する事案が発生した。
京都でも開国性交を求める開国派と攘夷派が衝突し、開国志士が攘夷派公家を襲撃するなど、著しく治安が悪化することになった。
大老の井伊直弼は、攘夷の不可能性から開国派を標ぼうしていたが、基本的に保守派であり、自由貿易や出入国の自由化までは求めておらず、現状の開国で十分だった。
そのため、完全開国を求める過激開国派の取り締まりに乗り出した。
当初の取り締まり対象は主に不逞竜宮人だったが、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で対立した一橋慶喜を推す前水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派も弾圧の対象となった。
彼らは、幕府改革と雄藩の国政参与を求めており、体制護持を図る直弼と相容れなかった。
弾圧の手は朝廷にも及び、100余名が逮捕されて死刑など厳しい処罰を受けた。
所謂、安政の大獄である。
開国・攘夷で大激論を交わした斉昭と竜御前はそろって蟄居謹慎処分とされた。
さらに竜宮藩は、治安騒擾の咎で領地没収となり、お家断絶の憂き目を見ることになる。
二人の蟄居処分は、竜虎相堕として開国派・攘夷派の双方から憤慨を買った。
そして、高齢の二人はそのまま帰らぬ人となってしまう。
なお、竜御前の死は憤死であり、抗議のために食断ちを行った。
家臣たちは追跡不可能な海底に逃亡して捲土重来を図るべきだと説いたが、竜御前は裁きは裁きとして受け入れるとして、逃亡論を退けて憤死を選んだ。
衰弱していく主君を見かねた家臣たちは、せめて最後は安らかであることを望み、陳毒(ヒ素)を溶かした酒を差し入れた。
竜御前は別離の盃を仰いでこの世を去った。
竜御前の憤死は竜宮人を激高させると共に指導者不在という大混乱を引き起こした。
井伊直弼はこの難局を乗り切るには、幕府の独裁強化しか道はないと考えていた。
朝廷や西国雄藩、さらに竜宮人勢力の介入によって幕府の方針が揺れ動く状態は異常であり、将軍を中心とした譜代と旗本による幕府政治=幕府の本来のあり方を取り戻そうとする直弼の姿勢は保守反動政治だった。
しかし、直弼は弾圧に反発する水戸浪士と竜宮浪人の襲撃に遭い、桜田門外で敢え無く落命することになった。
大老は非常事態にのみ置かれる特別職であり、その大老が江戸城の目と鼻の先で暗殺されるなど前代未聞のことだった。
また、犯行を主導した水戸藩は親藩・副将軍格であり、事件の責任追及によって藩内は大混乱に陥り、徳川家は重要な藩屏を失うことになった。
さらに事件後に復権した一橋派の報復で、彦根藩は国政専横の罪で大幅に減封させられた。
彦根藩=井伊家は、譜代大名の筆頭格で、徳川四天王から続く重臣の中の重臣だった。
その彦根藩を処分するということは、幕政を譜代・旗本が担うという幕府体制を根本から覆すことになる。
さらにこれまで開国派であっても佐幕の立ち位置にいた竜宮人勢力を倒幕開国派へと追いやるという余禄までついてきた。
桜田門外の変で、幕府の権威は著しく低下することになり、日本史は本格的な幕末を迎えることになる。
そうした中央政治の激変を坂本竜馬は土佐で迎えた。
坂本竜馬は、1836年1月3日に土佐で生まれた下士(下級武士)だった。
血筋的には上士の家系なのだが、土佐藩では竜宮人は下士という決まりがあった。
坂本家は、土佐藩のお抱えの豪商「才谷屋」の分家で、かなり裕福な家庭だったことから、自費での江戸遊学が許され、偶然にも留学中の江戸で黒船来航を迎えた。
竜馬は防備強化のために、江戸の土佐藩邸に招集されており、守備隊に編入されている。
若き竜馬が黒船来航から様々な影響を受けたことは、想像に難くない。
竜馬は江戸で北辰一刀流を学びながら、兵学や西洋砲術、漢学、蘭学、国際情勢など幅広い教養を深めた。
短期間だが、当代随一の知識人だった佐久間象山からも学んでいる。
言わば、地方のプチブル出身で、首都へ留学して学問を修めたインテリだった。
ただし、竜馬は北辰一刀流長刀兵法目録の本主で、長刀術の扱いにも優れていた。
ちなみに江戸時代の武士階級の竜宮人が好んだ武器は、刀よりも長刀である。
理由は簡単で、刀のようなリーチの短い武器では、振り回すと下半身に刃が当たって自傷する可能性が高く、柄の長い長刀の方が安全だからである。
ただし、全く竜宮人が刀を使用しなかったわけではなく、刃を短く詰めた刀を用いて、3~6刀流と言った変則剣術を用いるものが多かった。
江戸で創始された爾来流は、多肢の竜宮人の特性を生かした4刀流剣術で、幕末の江戸や奥羽で大流行している。
爾来流は非常に実戦的な剣術で、右腕・左腕の2刀を防御の形、第1足と第2足の2刀を攻撃の形とし、地面を這うように刀をふるって相手の腱や太ももを狙って仕留める剣法である。
完全に使いこなすことができれば、並みの剣士なら2人までは同時に相手どることも可能な恐ろしい剣術で、幕末の京都で猛威を振るうことになる。
ただし、一般的に竜宮人は地上での戦いは不得意であり、非力なことが多く、組み伏せるのは容易である。
組み伏せたあとで、引きはがすのが異常に困難なことには留意する必要があるが。
それはさておき、江戸修行を終えて土佐に帰国した竜馬は土佐勤皇党に所属して、尊王開国運動を開始した。
尊王開国運動とは、安政の大獄以後に竜宮人勢力で拡大した国家改革思想である。
思想の要諦は、竜宮人の勢力が結集して朝廷を動かし、鎖国体制を続けようとする幕府に改革を迫り、完全開国するというものである。
ただし、幕府への対応は人によって振れ幅があり、朝廷と幕府の連携による完全開国を目指すのか、幕府を軍事力で打倒して完全な体制転換を目指すのか、確固たる方針はなかった。
しかし、改革なくして開国なし、というのは殆どの竜宮人の共通認識だった。
桜田門外の変(1860年)時点では、竜馬はまだ無名の存在だった。
しかし、江戸修行時代に目撃した黒船を通してみた外の世界へのあこがれは強まるばかりだった。
竜馬にとって幸運だったのは、フランスの開港地として開かれた宇和島が土佐から近く、土佐勤皇党の連絡員として度々、宇和島でフランス人と接点を持つことができたことである。
竜馬も、竜宮人の英雄である竜御前から薫陶を得ていたが、現実がそれほど単純ではないことを直ぐに知ることができた。
「これは誘い受けではなく、本気で嫌われているのでは?」
という自覚を早期に得ることができたことが、竜馬と他の過激開国主義者を分かつことになった。
闇雲に開国性交を求めたところで、拒絶されるだけということに気づくことができた竜馬は、宇和島通いを続けながら開国のあり方を土佐から考え続けた。
外国との付き合い方を模索していたのは竜馬だけではなく、日本と国交を持つことになった欧米列強も同じだった。
合衆国だけは、南北戦争(1861ー1865年)に突入して、日本どころではなくなってしまったが、英仏露は開港地を通して徐々に通商関係を拡大させた。
特にフランス第2帝国は大英帝国への対抗上、幕府との関係を深めた。
幕末に来日して通商条約締結交渉を担当したフランスのレオン・ロッシュは竜宮人にはビビったものの冷静に祖国の利益を計算できる優れた外交官だった。
ロッシュは、近代的軍隊建設のために必要な軍事顧問団の派遣や製鉄・造船技術者の派遣、設備投資に必要な資金の貸付や設備の輸出などを幕府に提案している。
見返りは、さらなる開港地の追加や江戸や京都、大阪といった主要都市の開市だった。
ロッシュは、竜宮人が異界神の眷属でもなければ、深き者でもないことに気が付いた最初の西洋人だったと言われている。
竜宮人との交流を記述したロッシュの日記は、幕末の日本を知る第1級の資料として名高いが、任期の後半になると私生活に関する書き込みが多くなり、歴史資料としての価値が低くなる傾向がある。
しかし、近年になってヨーロッパ人として初めて竜宮人とスカートの組み合わせを試した記述が発見され、その筋では先駆者として高い評価を得ることになった。
ロッシュは着物よりもむしろ洋服の方が竜宮人には適性があると考えており、様々な組み合わせを試した結果として、領事館に勤務していたフレンチメイドの制服を使用することで最もよい反応を得ることができたとしている。
カタツムリやカエルも調理法によっては美食になることから、タコも例外ではなかったと言えるだろう。
ほぼ同時期に来日したイギリス駐日総領事ラザフォード・オールコックも同じ認識に達していた。
ただし、オールコックはタコは食べ物ではないとしている。
このあたりは英仏の文化性の違いと言える。
ただ単にフランス人の女癖が異常に悪いとする説もがあるが、それはさておく。
オールコックは性的な目ではなく、竜宮人のもつ経済や科学技術力といった観点から評価した最初の西洋人で、本国に詳細な報告書を送っている。
イギリスの開港地となった志布志湾は薩摩藩の領地で、開港時の藩主島津斉彬は幕末の四賢侯の一人である。
斉彬は藩営の集成館事業を進め、アジア初の西洋式近代工業を興した先見性のある名君だった。
集成館では、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設が行われ、地雷・水雷・ガラス・ガス灯などが製造された。
通商にも前向きで志布志湾の薩英貿易で多額の利益を得ていた。
斉彬は1858年に急死したが、その前に多数の竜宮遺臣を受け入れるという重要な決断をしている。
竜宮遺臣とは安政の大獄で改易処分となった竜宮藩の家臣団である。
黒船来航から改易処分までの短い期間ながら、竜御前は西洋のもつ軍事力に対抗するためには日本の理化学振興が急務という認識をもち、様々な技術振興策を推進した。
その成果が出る前に竜宮藩は安政の大獄を迎えることになったが、日本各地に散らばった遺臣団によって技術は保存され、各地に伝播した。
斉彬は竜宮遺臣の持つ優れた科学技術を取り入れることが、集成館事業のさらなる発展をもたらすと考えたのである。
オールコックは、竜宮人が器用に電信柱を上って鹿児島と志布志湾を結ぶ電信線を敷設する様子や、鉄工所で八本の足を器用に使って竜宮人が小型の蒸気機関を組み立てているところを見学している。
竜宮人が建造した蒸気船は、大英帝国でも実用化されたばかりのスクリュー推進式となっており、最新兵器であるガトリング砲まで装備していた。
さらに夜になると大英帝国でさえ実用化できていない白熱電球の灯りで領事館が明るく照らされたので、オールコックは竜宮人のもつ技術力を極めて高く評価した。
オールコックは清よりも日本との貿易拡大こそ、大英帝国の国益にかなうとして本国に訓電を送ったが、殆ど精神異常者扱いされて失敗に終わっている。
極東の果てに、大英帝国を超える科学技術があるわけないというのがその理由だった。
来日して実情を把握しているオールコックとは異なり、ロンドンの認識では、日本はおぞましき者の生息地であり、これ以上の通商拡大や相互入国禁止解除などは全く考えられなかった。
また、竜宮遺臣達も薩摩藩の藩論を開国倒幕へ傾けることには失敗していた。
斉彬の後を継いだ島津久光は、公武合体運動・雄藩連合を支持していた。
あくまで大名の一人である久光は、自身の権力基盤である幕藩体制を転覆させる意図はなかった。
竜宮遺臣が頼った幕末の四賢侯、福井藩(松平春嶽)、宇和島藩(伊達宗城)、土佐藩(山内豊信)のいずれもが、竜宮遺臣のもつ技術に価値を見出して登用したものの、藩論として開国倒幕に立つことはなかった。
唯一の例外は長州藩だった。
長州藩は攘夷論が強い地域だったが、竜宮遺臣達の説得や開港地をもつ他藩が貿易で莫大な利益をあげるのを見て開国論への転換が進んだ。
開国論への転換は、毛利家が反徳川の家風だったことも大きく作用した。
毛利家の正月行事には非公開の部分があり、元旦になると家老が藩主の前に進み出て、
「もはや徳川討伐の準備ができましたがいかがはからいましょうや」
と、言上すると、
「いやまだ時機が熟せぬ」
と、毛利家当主が返事をするのが儀式化された問答になっていた。
上記のノイローゼになりそうな儀式は関ケ原の戦い直後から始まったとされており、それが事実ならば江戸時代250年間も怨恨をたぎらせてきたことになる。
戦いは当然のごとく怨恨に根ざしているとも言えるが、それにしても気の長い話であるため、作話という説もある。
長州藩が開国論に転換したのも、安政五か国条約で、幕府が緩やかな開国、あるいは緩やかな鎖国の継続で満足しているという面が大きく作用していた。
徳川が開国するとならば攘夷を叫び、徳川が鎖国をするなら開国を叫ぶのが長州藩の習いだった。
ただの逆張りとはいえばそれまでだったが、倒幕の旗をあげるには何らかの大義名分が必要だった。
それが尊王であり、開国だったと言える。
長州藩は独自に開国を宣言し、1863年4月1日に下関を開港した。
しかし、これは欧米列強から完全に無視された。
下関に入港する外国船は1隻もなかったのである。
長州藩を頼った竜宮遺臣たちもこうした反応は全くの想定外だった。
開港さえすれば、外国船が向こうから続々とやってくると考えていたのである。
しかし、列強諸国は示し合わせて下関を通り過ぎ、条約で開港が決まった港のみに入港した。
列強諸国は、開港地の条件として竜宮人がいない場所を指定しており、多数の竜宮人が集まっていた下関は論外だった。
また、幕府と交わした通商条約を無視した開港地へ入港することは、条約違反となる。
敢えて例えるならば、下関は色街に突然に開店した風俗店で、
「風営法違反上等!うちは性病検査もしません!」
と叫んでいるも同然の状態だった。
例えどれだけ料金が格安だったとしても、まともな人間が寄り付くわけがなかった。
まともな人間どころか、密輸業者さえも避けて通ったのだから、失敗の具合は極めて深刻だったと言える。
しかし、失敗の原因が分からない、あるいは分かろうとしない長州藩や竜宮人達はさらに無軌道な開国主義へと傾向していき、下関海峡封鎖という暴挙に出た。
長州藩は下関海峡を通過する外国船舶に対して、下関港への寄港を強制し、命令を受け入れない民間船舶を砲撃したのである。
下関海峡封鎖によって、列強国の対日貿易は大混乱に陥った。
敢えて例えるならば、客が入らない風俗店が道路を封鎖して、足止めした歩行者を無差別に拉致・監禁してサービスを強要するようなものと言えば、長州藩の開国主義がどれほど常軌を逸していたかが伝わるだろうか。
江戸幕府を開いた神君徳川家康公の遺訓に、
「及ばざるは過ぎたるよりまされり」
という言葉があるが、行き過ぎた開国は攘夷運動と同じだった。
攘夷論者の孝明天皇は困惑し、
「これは攘夷か開国なのか?」
と岩倉具視に下問したところ、
「・・・たぶん攘夷と思われます」
さすがの岩倉も苦し紛れの回答をするしかなかったとされる。
薩摩藩や長州藩を頼った竜宮遺臣達の失敗を目の当たりにしてしまった竜馬は、藩という単位で日本を改革するのは不可能だと考えるようになり、脱藩を決意した。
脱藩は、当時としては犯罪であり、国許に残された家族も連座する重罪である。
よほどの覚悟と行動力がなければ脱藩に踏み切るという選択肢はなく、竜馬は法の外に身を置くことで自分の道を見つけたと言える。
脱藩後、竜馬は江戸で勝海舟の門下になって、航海術を学んだ。
神戸海軍操練所の設置にも関わり、神戸海軍塾塾頭に任ぜられている。
しかし、それも竜馬にとっては下準備の一つに過ぎなかった。竜馬が求めてたのは、産声をあげたばかりの日本の海軍での栄達ではなく、様々な経緯や背景、能力をもつ多様な人々とのコネクションだったと言える。
藩という小さな領国の規範を超えた人々の紐帯こそが、竜馬が思い描く新しい国家のヴィジョンだった。
その具体的な展開が、1865年5月に結成された亀山社中(海援隊)だった。
亀山社中は、日本発の近代的な株式会社(に近いもの)であり、物資の運搬といった海運業や貿易の仲介といった商社活動を行った。
薩摩藩が独自に建造した蒸気船の運航を任された竜馬は、イギリスのグラバー商会と関係を深め、外国からの武器密輸も手がけるようになる。
武器密輸を通じて、薩摩藩や長州藩の幹部と関係を深めた竜馬は、薩長同盟の仲介役を務めることになった。
下関開港宣言から長州藩には大逆風が吹き荒れた。
1864年7月8日は池田屋事件が発生し、長州・土佐の志士達が新選組の襲撃で倒れ、京都政局において勤皇開国勢力はほぼ壊滅状態となった。
池田屋事件に激高した長州藩は、逆転を図ってついにクーデタをおこし、禁門の変(1864年8月20日)に至ったが、わずか1日で失敗に終わった。
この時、長州藩兵は孝明天皇の身柄を確保するため御所に攻め上がり、御所を守備する会津藩兵と激戦となった。
一部の兵士は御所内に侵入し、銃撃戦を行っている。
京都が戦場になるのは、戦国時代以来250年ぶりのことで、天皇の住居である御所内での戦闘は、応仁の乱に遡る大事件だった。
御所内での戦闘には長州藩兵からも異論があったが、
「挿入にいたっても、心は本番ではない」
として、竜島又兵衛らの主戦派の主張がまかり通ってしまった。
妊娠しなければ本番ではないという理論である。
これは竜宮人にとっては、かなり説得力のある主張だった。
それはさておき、失敗したクーデタは国家に対する反逆であり、御所に攻め込んだ長州藩は朝敵となった。
さらに下関には、下関海峡封鎖の報復で英仏蘭米の4か国連合艦隊が押し寄せて、長州藩が築いた砲台を木っ端みじんにして次々と占領した。
イギリス軍艦に搭載されたアームストロング砲は、日本の大砲の4倍以上の射程距離があり、一方的にアウトレンジされた。
さらに上陸してきた陸戦隊も新式のライフル銃で武装しており、火縄銃や刀剣、弓矢で武装した長州藩兵では全く対抗できなかった。
竜宮人民兵の一部は、4か国連合軍に遜色ない装備を持っていたりもしたが、数が少なすぎる上に散漫に運用されて壊滅した。
竜宮人は地上戦について理解が不足しており、初歩的なミスが非常に多かった。
よい武器があれば、勝てるほど戦争は甘いものではなかったと言える。
捕虜になった竜宮遺臣の一部は、真空宇宙での大規模宇宙艦隊戦なら負けないなどと叫んだとされるが、負け犬の遠吠えにもならなかった。
連合軍は、初めて見る竜宮人に恐れおののいた。
しかし、軍事力で打倒できることが分かると今度は逆に高圧的な態度をとるようになり、捕虜にした竜宮人を見世物にするなど辱めを与えた。
なお、捕虜になった竜宮人は、煉獄本のような展開に股間を熱くするなどしていたので、直ぐに見世物は中止された。
ちなみに煉獄本とは、女性に性的な辱めを与える展開を常とする艶本の一流派で、幕末には上方を中心に流行していた。
それはさておき、下関戦争は日本の軍事力では欧米列強に全く太刀打ちできないことを天下に知らしめ、攘夷論に止めを刺すことになった。
陸では、幕府の長州征伐軍に包囲され、海からは4か国連合艦隊に攻められた長州藩は降伏し、開国・倒幕派の三家老は責を負って切腹。開国を煽った竜宮遺臣達も斬首となった。
藩主親子は幕府に詫び状を提出することでかろうじて切腹は免れた。
さらに英仏蘭米から、多額の賠償金支払いを要求された長州藩は、支払い能力がないため一時は領土割譲も止む無しというところまで追い詰められた。
完全に絶望的な状況だったが、高杉晋作や桂小五郎らはまだ諦めていなかった。
ここから彼らは奇跡的な巻き返しを見せるのである。
高杉は若干24歳の若さで通訳の伊藤博文を引き連れて4か国連合艦隊に乗り込み、長州藩代表として4か国連合に対して領土割譲を絶対拒否した上で賠償金支払いを確約した。
しかし、賠償金の支払い原資として貿易・関税収入が必要であるため、下関開港を認めるように逆提案した。
各国は、下関開港は条約で認められていないとして提案を拒否したが、高杉はそれを条約を結んだ幕府のせいであると責任転換した。
幕府からすると殆ど意味不明の暴論だったが、なんと高杉はこれを4か国連合に認めさせ、領土割譲も賠償金支払いも有耶無耶にしてしまう。
さらに高杉は返す刀で功山寺にて挙兵した。
この時、高杉の武装蜂起に賛同して集まったのは、伊藤ら力士隊や義侠心から集まった任侠を含めて僅か84人だった。
しかし、84人から始まったクーデタは、自発的に集まった民兵の活躍によって勝利に終わり、高杉は長州藩を開国・倒幕でまとめ上げてしまう。
ちなみに高杉自身で編成した奇兵隊は、指揮官の山県有朋が慎重論を唱えて挙兵には参加せず、大勢が決まってから参戦するという状況だった。
内乱状態となった長州藩を包囲する幕府軍は、内戦を回避するために介入を見送った。
介入見送りには内戦による国力消耗を避けようとした薩摩藩の西郷隆盛の尽力があり、高杉の勝利は薄氷を踏むよりも尚、際どいものだった。
もはや奇跡か、神がかりの領域と言える。
肺結核に侵されていた高杉は余命いくばくもなかったが、燃え尽きる寸前の流れ星のように才気を爆発させ、不可能を可能として明治維新への道筋をつけた。
筆者としては、最後の数年間で覚醒した高杉晋作に比肩する日本史の人物は、全盛期の豊臣秀吉か、足利義満ぐらいしか思いつかない。
政治的な才覚や軍事的な実績で高杉を上回る人材は他にもいるが、不可能を可能にしてしまう魔術的な才覚となると中国大返しからの明智討伐、賤ケ岳の戦いから関白就任までの秀吉か、南北朝という二つの天を一つにまとめた義満の異常政治力、そして第1次長州征伐後から死亡するまでの高杉晋作の3人と考える。
なんとか窮地を脱した長州藩だったが、取り巻く状況は大凶が、凶に変わった程度であり、回天にはほど遠かった。
幕府は長州藩を完全屈服をさせるため藩主親子の引き渡しを求めて圧力を強め、第二次長州征伐軍の編成を進めていた。
対する長州藩はクーデタで活躍した民兵を大村益次郎が近代軍として再編成し、西洋式戦術を教育するなど軍制改革を進め戦争準備を整えた。
しかし、長州藩は武器が不足していた。
下関は開港を許されておらず、列強国も長州藩との交渉を拒否しており、武器輸入は不可能だった。
幕府の強気も、長州に武器なしという認識から発しており、簡単に踏みつぶせると考えていた。
そこで外国からの武器輸入を薩摩藩が代行し、その代わりに兵糧が不足する薩摩藩に長州米を融通するという裏取引を持ちかけたのが竜馬だった。
桂小五郎と西郷隆盛の直談判で、薩長同盟が結ばれた。
ただし、この時の盟約は武器の裏取引と第二次長州征伐時に薩摩藩が中立を保つという内容であり、軍事同盟と呼べるものではなかった。
薩摩藩としては長州の金で武器を買って、米を手に入れ、さらに戦争を傍観するという極めて有利な裏取引だった。
もちろん、長州藩がしくじれば、容赦なく見捨てる腹積もりだった。
なお、第二次長州征伐の幕府軍の参加戦力は15万、対する長州藩は3,500である。
どう考えても幕府が負けようがない戦争だった。
しかし、長州藩は第二次長州征伐(四境戦争)に大勝利する。
亀山社中が密輸したゲーベル銃やミニエー銃を手にした民兵は、幕府軍を散々に打ち破った。
武器だけなら幕府軍も互角か、あるいはそれ以上の装備を持っていたが、動員された各藩の軍制は中世の残滓を引きずった古臭いもので、近代戦争に対応できなかった。
侵攻軍の先兵となったのは西国の外様大名たちで、手伝い戦ということで士気も低かった。
長州軍は砲兵の運用も巧みで、小型軽量の山砲が大活躍した。
勝利の原動力となった奇兵隊などの諸隊は、農民や町人といった武士階級以外の者達が参加する国民皆兵の雛型というべき組織だった。
幕府軍(武士の軍隊)が、奇兵隊(町民や農民の軍隊)に敗れたことは、幕府のみならず、武士階級の権威を失墜させた。
長州征伐に敗れた幕府はさらに第14代将軍徳川家茂を失うことになる。
家茂の死は、病死ということになっていたが、死のタイミングがあまりにも都合が良すぎるとして暗殺・あるいは自害説がある。
一橋慶喜は将軍薨去を理由に失敗が明らかになった長州征伐を切り上げ、朝廷を動かして勅命講和を引き出し、軍事的な勝敗を有耶無耶にした。
第15代将軍に就任した慶喜は、桑名藩・会津藩と共に朝廷を掌握(一会桑体制)した。
慶喜は慶応の改革を推し進め、フランスの支援を得て横須賀製鉄所・造船所の建設した他に、政治改革として陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁の5局をおいて実質的な内閣制度を創始した。
さらにパリ万博への幕臣・子弟などを派遣するなど、海外渡航を部分解禁し、全面開国に向けて条約改正を表明した。
これは薩長勢力から竜宮人勢力を分離する意味があった。
それだけが理由というわけではないが、竜馬も薩摩藩のひも付きだった亀山社中を土佐藩の外郭団体である海援隊に改組して、武力倒幕をトーンダウンさせた。
改革なくして開国なしとしてきた竜宮人は、改革によって開国されるのであれば、政権を誰が担っても同じだと考えるものが多かった。
大抵の竜宮人は、政治談義よりも褥で事後話をするのを好んだ。
竜馬のように事後話よりも船中八策や大政奉還を建議するほうが異常なのである。
実際には事後話も相当な数をこなしているのだが、立場上、そればかりしていられないという事情があった。
大政奉還(1867年11月9日)は、内戦を回避しようとする竜馬が倒幕の密詔を受けた薩長にしかけたカウンターで、武力討伐の大義名分を失わせた。
そのため、薩長の幹部から竜馬は裏切者とみなされることになる。
また、竜馬自身が為政者達から危険視される存在になりつつあった。
竜馬が立ち上げた海援隊は武器密輸や海運業で勢力を拡大しており、多士済々な人材が集まり、組織拡大が続いていた。
特に竜宮人勢力の中で、竜馬は竜御前の代わる民族の代表者の位置についており、多くの竜宮人が海援隊に集まった。
竜宮人勢力は、竜御前亡き後はこれといった指導者がなく、長州藩の例に見られるようにその動向は混迷を極めていた。
新しい指導者として竜馬は多くの期待を集めることとなり、本人の意思とは無関係に暗殺の危険があるため護衛がつけられることになった。
竜御前に仕えた竜宮遺臣たちは、守り切れなかった主君を竜馬に重ねており、今度こそは何があっても守り抜く決意だった。
その決意は、1867年12月10日に果たされることになった。
竜馬が潜伏していた近江屋を襲撃した京都見廻組と護衛の馬廻衆3名が交戦し、馬廻2名が主君を守って名誉の死をとげた。
竜馬自身もトレードマークである馬耳を切断されるなど、重傷を負った。
竜馬は出血大量で重体となったが、奇跡的に一命をとりとめた。
竜馬が療養のために京都を離れているうちに、鳥羽・伏見の戦いが始まり、日本は戊辰戦争(1869ー1869年)に突入していくことになる。
なお、竜馬が近江屋に潜伏していたことは伏せられており、情報の出所は薩摩藩か、長州藩が有力視されている。
竜馬は密輸や裏金づくりなど薩長の暗部を知りすぎていた。
また、幕末の政治を左右した竜宮人勢力に自分たちのコントロールが効かない指導者が誕生することを大久保や西郷、桂などは危険視していた。
辛くも危機を脱した竜馬は、早期講和のために江戸へ向かったが、既に慶喜は絶対恭順を表明しており、江戸も無血開城に向けて準備が進んでいた。
恩師の勝海舟と面会した竜馬はできることが何もないと知り、
「竜馬は、世界の竜馬たるべし」
と激励されて、国外逃亡を決意した。