北太平洋戦争
北太平洋戦争
1941年12月8日、日竜軍は太平洋全域で宣戦布告同時攻撃を開始した。
最初に火の手が上がったのは、大方の予想どおりフィリピンだった。
フィリピンは、日竜本土と英連邦の資源地帯を結ぶシーレーンを扼する位置にあった。
フィリピンの合衆国海軍基地には多数の潜水艦が配備されていたから、合衆国海軍が何を考えていたかは明らかだった。
さらにマニラ郊外のクラークフィールド飛行場は、長距離爆撃機のBー17が100機以上も展開していた。
戦闘機や中型爆撃機などを合計すると300機以上の作戦機がフィリピンには集結しており、合衆国軍が迫りくる戦争を前に決して手を抜いていたわけではないことは明らかである。
これらが通商破壊戦に投入された場合、日英のシーレーンにとって大きな脅威だけではなく、台湾への空襲も必至だった。
そのため、宣戦布告同時攻撃で速やかな地上撃破が図られた。
もちろん、合衆国も宣戦布告同時攻撃を警戒しているはずなので、日竜は空母機動部隊を投入し、予想外の方向から攻撃を行うことで奇襲を図った。
攻撃開始は、フィリピン東方海上に展開した小沢機動部隊による艦載機一斉発進攻撃で、装甲空母の瑞鶴、翔鶴から発進した零戦隊がレーダーをかいくぐる超低空高速侵入で、クラークフィールド飛行場へ突入した。
あえて低速のレシプロ機を攻撃隊から除き、ジェット機の零戦隊のみで構成された奇襲部隊は、見事に合衆国軍の警戒網をすり抜けて払暁を迎えたばかりの飛行場に突入、機関砲による地上襲撃を行った。
ちなみにジェット機の零戦は、レシプロ機の円盤翼機に比べて、より完全な円盤型に近い形状をしており、奇襲を受けた合衆国軍はまるで異星人のUFOを見るような目で零戦隊を見上げることになった。
本当に異星人のUFOが混ざっていたという俗説もあるが、割愛する。
さらに余談だが、この奇襲攻撃を目撃したとある青年が、後にハリウッドの特殊撮影技術者となり、宇宙人との戦争を描いたSF映画作品において、自身の経験を反映させた飛行場奇襲攻撃シーンを撮影することになる。
大統領の反撃演説がやたらカッコいいあの映画は合衆国で大うけしたが、竜宮人を中傷する内容であるので日竜では上映されなかったのが筆者としては残念なことである。
零戦隊が飛行場を制圧し、台湾から飛来した空軍の九七式重爆が飛行場への爆撃を行った。
この奇襲攻撃で、合衆国が集めた作戦用航空機の半数が地上で失われることになった。
日竜軍による航空撃滅戦はその後の72時間で、合衆国軍の航空戦力をほぼ壊滅させた。
ソ連との2年に渡る戦争で砲火の洗礼を潜り抜けてきた日竜軍に対して、合衆国軍は経験不足としか言いようがなかった。
航空撃滅戦と並行して、合衆国海軍基地への爆撃も行われた。
地下に貯蔵された潜水艦用の魚雷倉庫を破壊するため、戦艦攻撃用の800kg徹甲爆弾を使用した絨毯爆撃が実施され、これを完全破壊した。
合衆国海軍の極東艦隊は、潜水艦主体の小規模なものだったが、母港の壊滅で作戦能力を早々に喪失した。
米潜水艦によって数隻の商船を沈められたが、大半は対潜部隊の反撃を受けて自らが撃沈した商船の後を追うことになった。
日竜の対潜部隊は、世界最高の練度と装備を持つ日竜の潜水艦部隊を相手に訓練を積み上げてきたこともあり、同盟国の同業者からも模範とされる水準に達していた。
ロケット推進の前方投射爆雷や、短波探知機(HF/DF)、音波探信儀や対潜誘導魚雷などは、日竜で開発されて同盟国に提供されたものである。
合衆国軍の空海戦力を無力化した日竜軍は、各地の離島に先遣隊を上陸させて前哨を確保するともに、12月22日にリンガエン湾に本間雅晴中将の第14軍主力を上陸させた。
リンガエン湾上陸は、合衆国軍の激しい抵抗に遭遇したが制空権の確保と海軍艦艇の艦砲射撃によって抵抗は粉砕された。
上陸阻止に失敗したダグラス・マッカーサー元帥(比軍)は、バターン半島とコレヒドール要塞への撤退を決意し、マニラは無防備都市を宣言した。
日竜軍は、マニラ決戦で野戦軍を捕捉殲滅する見込みをしていたので当てが外れることになったが、フィリピンの海空戦力を殲滅できたことにおおむね満足した。
フィリピン戦の目的は、日英シーレーン防衛であり、海空戦力を失って要塞にこもった合衆国軍には何の価値もなかった。
どのみち、彼らにはどこにも逃げる場所がなく、日竜と反共同盟を結ぶ仏蘭の植民地や、英領に逃れることなど不可能だった。
まさに雪隠詰めの状況だったといえる。
ちなみにこれは余談だが、日竜軍の隠語として雪隠詰めは営内のトイレで隠れて性交に及ぶという意味があるので、言葉の用法には注意が必要である。
それはともかくとして、フィリピン戦はその後、包囲された合衆国軍と日竜軍の間で禅問答のような降伏交渉が行われ、3か月後に食料備蓄が尽きた合衆国軍が降伏して終わることになる。
日竜が対ソ戦では考えられないほどのんびりとした交渉を行ったのは、夏まで太平洋戦線ではこれ以上の攻勢が難しいという事情があった。
というのも、日米間にまたがる太平洋には、侵攻作戦に適当な拠点が北方にしかなかった。
そして、冬の北太平洋での戦争は非現実的だった。
あまりにも海象が険しく、大規模な上陸作戦を実施する余地がないからである。
凍てつく波涛で全てが凍る海で、上陸作戦など悪夢でしかない。
戦闘可能になるのは、5月以降から10月に限られ、その時期であっても濃霧が度々、発生するという悪条件が続く海域だった。
他のルートは使用不可だった。
太平洋中央にあるハワイ諸島は永世中立国であり、接続海域には10,000t以上の軍艦は入ることができなかった。
合衆国も日竜も永世中立国ハワイを攻撃する意思はなかったし、オアフ島の全域を射程に収める16インチ要塞砲を突破して上陸作戦を行うことは非現実的だった。
ハワイの永世中立を保障するために建設された16インチ要塞砲は、海軍休日下で日米がそれぞれ金と資材を出し合って建設したもので、日竜製の16インチ砲を厚さ12mのべトンで固めた砲台に設置したのは合衆国企業だった。
南太平洋の島嶼は、日竜の領土や或いは英仏の領土であり、戦争とは無関係だった。
そのため、フィリピン戦が落ち着くと戦争は小康状態になった。
例外は海面下の戦いだった。
日竜海軍は開戦同時に西海岸に進出させた潜水艦艦隊による通商破壊戦を実施した。
参加した潜水艦は2,000tクラスの伊号潜水艦17隻で、殆ど無防備だった合衆国商船隊は1941年12月から翌年3月までに、200万tの船舶を撃沈された。
どれくらい無防備だったのかといえば、戦時下でありながら灯火管制なしで商船を単独航行させるほど無防備だった。
当然、無線封鎖も行われていなかった。
あまりにも無防備だったので、多くの潜水艦艦長が罠の存在を疑ったほどだった。
特に最新鋭の伊二百一型潜水艦は猛威を振るった。
水滴型と呼ばれる水中速力を重視した船体に、大容量のバッテリーと高出力モーターの組み合わせることで水中速力18ktを達成した伊二百一型は、同時に投入された聴音魚雷と合わさって自軍の対潜部隊ですら手の付けられないモンスターとなっていた。
合衆国の駆逐艦は、8kt以上の速力を出すと自己雑音で潜水艦を探知できないため、水中18ktの伊二百一型なら、余裕で振り切ることができた。
また、合衆国海軍は伊二百一型の潜航可能深度を過少に見積もっており、見当違いの深度を攻撃した。
実際の潜航可能深度は、合衆国海軍の予想の倍以上もあった。
唯一の弱点は、水滴型船体による艦内容積の圧迫から来る航続距離の短さで、魚雷を使い切る前に燃料限界で哨戒を終えることが多かった。
同じ理由で居住性も低く、軟体の竜宮人でなければとても勤務できなかった。
竜宮人でも長距離作戦は忍耐の限度を超えていると言われていたほどである。
しかし、性能は素晴らしかったので伊二百一型による長距離作戦は継続された。
合衆国海軍は、空母を中心とした艦隊を投入し、航空対潜作戦で反撃を試みたが、空母サラトガを雷撃で大破させられ、ヨークタウンとワスプを立て続けに撃沈されると潜水艦の待ち伏せが予想される海域から空母を撤収させた。
4月以降、撃沈される合衆国商船は減少したが、これは対策が功を奏したわけではなく、損害の大きさにたまりかねた合衆国が商船の運航を一時停止したためである。
当然、西海岸の物流は大混乱に陥った。
カリフォルニアやシアトルといった大都市では買占め騒動が起きている。
また、新聞紙などは西海岸へ日竜軍が侵攻するといったセンセーショナルな記事を書きならしたので、地元の漁船の灯火を上陸船団と誤認して州兵が出動する騒ぎになった。
これぐらいならまだ可愛いもので、中立国のカナダ軍機を日本機と間違えて撃墜したりもしている。
カナダ軍の機体に描かれたラウンデルが、日の丸に似ていることから起きた悲劇だった。
こうした混乱が起きたのは、合衆国の市民社会が、日米戦争に対して驚くほど無関心だったことが大きかった。
多くのアメリカ人は、驚くべきことに日米関係の悪化に殆ど気づいておらず、開戦にいたってもそれが何なのか殆ど理解していなかった。
むしろ、なぜ日竜が合衆国に攻めてくるのか理解に苦しむほどだった。
日竜がソ連と戦っていることは知っていても、それがなぜ合衆国との戦争に結びつくのか誰も説明ができなかった。
日竜が繰り返し求めたソ連への武器売却停止や日米交渉についても、国内では全くといっていいほど知られていなかった。
わかることは、突然、戦争が始まり、八本足の変態が攻めてくるということだけだった。
当時のアメリカ人の実感からすると火星人やイルカが攻めてくると言われてたぐらいに現実感がないことだった。
前線に立つ軍人の意識も似たようなもので、米領グアム島では上陸した日竜軍に対して海兵隊の指揮官が、手の込んだ演習だと思い込んでいたほどである。
彼らは銃を水平に向けられても、手を挙げるのではなく、安全規則違反だとして抗議するほどだった。
そのため、日竜軍の第1段作戦はほぼ完全な奇襲となり、90%以上の成功を収めた。
あまりにも上手く行きすぎたので、日竜海軍では勝って当然という増上慢が広がり、綱紀粛正に苦しむことになる。
龍宮内親王も古巣の増上慢には苦言を呈して、
「一度の性交で、夫婦面するが如し」
と日記に書き残している。
初戦を制した日竜軍は、さらなる攻勢のため、艦隊を択捉島の単冠湾に集結させた。
単冠湾は冬季でも流氷が接岸しない天然の良港で、対ソ戦の拠点として整備され、日米関係の緊張と共にトラック環礁に並ぶ根拠地へと昇格した。
1942年時点では、戦艦が入渠可能な浮きドックや艦艇用の燃料タンクや乗員向けの宿舎や潜水艦の整備施設なども完成していた。
連合艦隊主力の前進に伴って、空軍も第3航空艦隊を展開した。
第3航空艦隊は、洋上飛行の訓練を積んだ対艦攻撃部隊であり、対ソ戦においても長距離攻撃作戦を担当するエリート部隊だった。
北太平洋では、日米双方が夏季決戦に向けて兵力移動と阻止を図って、3月末から遭遇戦が頻発した。
多くの戦いでは電子兵装に優れる日竜海軍が、先に合衆国海軍を発見して先手をとった。
1942年4月11日におきたアッツ島沖海戦では、合衆国領のアッツ島を封鎖していた第5戦隊(重巡:那智、羽黒、妙高、足柄)が、増援輸送のために接近した合衆国海軍の重巡ヴィンセンス、クインシー、アストリア(3隻ともニューオーリンズ級重巡洋艦)を殆ど一方的に撃沈した。
この戦いでは、日竜海軍の追撃が不徹底的で合衆国の増援船団を撃ち漏らすという不手際があったが、第5戦隊の損害は軽微であり、文句のつけようがない完勝だった。
合衆国海軍部隊は、レーダーによって捕捉されていることに気が付かず、20km先から対艦誘導弾攻撃を受け、火だるまになった後で接近砲撃を受けた。
この海戦は、世界初の対艦誘導弾実戦使用として記録されている。
接近砲撃時も、合衆国海軍艦艇はレーダーを装備していないため、正確な反撃は不可能で、殆ど一方的に撃ちすくめられた。
これによって霧中の戦いで自信を深めた日竜軍は、アリューシャン列島に沿って潜水艦と水上艦による封鎖作戦を実施した。
同月25日には、小沢機動部隊が北太平洋の各拠点を空爆し、増援も撤退もままならないままで合衆国は日竜軍の夏季攻勢を迎えることになる。
第2段作戦として、1942年5月7日、11日にはアッツ島、キスカ島に日竜軍が上陸し、合衆国軍守備隊を降伏させて島を占領すると飛行場を整備した。
日竜軍の次なる攻略目標は、アリューシャン列島東部のアマクナック島、ダッチ・ハーバーだった。
その先には、アラスカがあり、太平洋の彼方にある合衆国西海岸への侵攻を日竜軍は見据えてた。
攻勢目標を隠しようがないため、合衆国海軍の反撃は必至で、艦隊決戦は不可避と言えた。
1942年6月2日に、日米主力艦隊は北太平洋で激突し、北太平洋海戦が勃発した。
海戦は、ダッチ・ハーバーを空襲した小沢機動部隊と迎撃に出動した合衆国海軍空母機動部隊の間で行われた。
小沢機動部隊の陣容は、
・第一部隊(小沢竜三郎中将)
空母:《翔鶴》《瑞鶴》《千鶴》
戦艦:《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》
軽巡:《最上》《三隈》
防空巡:《阿賀野》
駆逐艦:12隻
・第二部隊(山口多聞少将)
空母:《飛龍》《蒼龍》《白龍》《幡龍》
重巡:《高雄》《愛宕》《摩耶》《鳥海》
軽巡:《熊野》《鈴谷》
防空巡:《能代》
駆逐艦:12隻
となっており、2群に分かれて行動していた。
これはジェット艦載機で固めた翔鶴型とレシプロ機用の蒼龍型では、艦載機の巡行速度が違いすぎて協同作戦が難しく、分離した方が航空作戦が立てやすいためである。
また、これまでの戦闘経験を踏まえて空母が正式に艦隊主力と位置づけられ、十分な護衛艦艇が手配されることになったことも大きかった。
戦艦部隊も出動していたが、機動部隊の後方に配置され、上陸船団の護衛を甘んじる状況だった。
小沢機動部隊を迎え撃った合衆国海軍第16任務部隊は、空母エンタープライズを先頭に、空母レキシントン、サラトガ、ホーネットの4隻を擁した。
合衆国海軍のもつ全ての艦隊型空母を預けられたレイモンド・スプルーアンス少将は、正面から日竜軍のUFOと戦っても勝ち目がないことを理解しており、最初から上陸船団に的を絞って一撃離脱を狙っていた。
これは臆病ではなく、冷静な戦術的判断といえる。
戦略的にも長期戦に持ち込めば国力差で圧倒できる合衆国にとって、戦力的に不利な決戦を回避するのは当然の判断だった。
直近の戦力差も大きかった。
同時期、英海軍が大西洋やカリブ海で大規模な演習を行っており、合衆国海軍の主力戦艦隊はその対応に駆り出されていたから、スプルーアンス少将の手元には戦艦が1隻もなかった。
英海軍が日竜への側面支援として行った北大西洋大演習は、カナダへの英陸軍5個師団の海上輸送とその護衛という内容であり、合衆国は気が気ではなかった。
日英同盟は第3次改定時(1921年)に、米州を適用対象外としており、イギリスは中立を保っていたが、中立だからといって何もしなくてもいいことにはならない。
むしろ英海軍は中立であることを盾に露骨な挑発や嫌がらせを繰り返しており、二正面作戦を避けるために合衆国が耐え忍ぶという恰好だった。
海軍卿のダドリー・パウンドと寝食を惜しんで嫌がらせのアイデアを練るチャーチルは、実に楽しそうだったと言われている。
イタリアも親善航海という名目で、戦艦アンドレア・ドーリアとカイオ・ドゥイリオをカリブ海に送っていた。
伊戦艦はカリブ海でのバカンスを楽しんでいるようにしか見えなかったが、無視するわけにもいかず合衆国は、ニューメキシコ級戦艦3隻を送って牽制していた。
これは極めて割のよい取引であり、イタリア海軍を三流海軍と侮っていた合衆国海軍にとって手痛い教訓となった。
戦艦は存在しているだけでも、十分に脅威なのである。
英伊の牽制で戦力を分散した合衆国海軍に対して、全戦力を投入可能な日竜海軍はダッチ・ハーバーを強襲し、同地の航空戦力を無力化すると上陸作戦を開始した。
合衆国艦隊(TF16)は、事前に洋上退避して空襲から逃れており、日竜軍の隙を見て上陸船団へ約160機の攻撃隊を放った。
合衆国の海軍機は、F4FやSBD、TBDといったレシプロ機主体だったが、上陸作戦中で身動きがとれない船団に対しては十分に破滅的な攻撃だった。
上陸船団援護を任されていた山口多聞少将が多数の九六式艦戦を在空させて、守りを固めていなかったら危ういところだったと言える。
九六式艦上戦闘機は、艦載機のジェット化で旧式機とみなされていたが、F4F相手なら十分に圧倒的な性能であり、上陸船団を空襲から守り抜くことに成功した。
また、船団護衛に投入された扶桑型戦艦の高射砲には、日竜海軍が実用化したばかりの近接信管が配備されており、対空砲火によって次々と米軍機を撃墜した。
近接信管は非常に高価で数が少ないこともあって、安定性が高く砲撃プラットフォームとして優れる戦艦に優先的に配備され、レーダー照準射撃と合わさって高い威力を発揮した。
船団を守るため猛烈な対空砲火を放つ戦艦扶桑や山城の姿は、多くの陸軍将兵に目撃されることとなり、恩返しとして後年に記念艦として保存される原動力にもなった。
奇襲に失敗した合衆国海軍は撤退し、追撃する第一部隊との間で激戦となった。
ジェット機主体の第一部隊相手にはスプルーアンス少将も逃げの一手しかなく、空母レキシントンとホーネットを失って、西海岸に敗走した。
合衆国にとって悲報は続き、1942年6月7日には、合衆国守備隊が降伏してダッチ・ハーバーが陥落した。
同地は速やかに復旧、再整備が行われ、日竜軍の新しい前進拠点となった。
6月末までに、日竜軍はアクタン島、ウンガ島、コディアック島に上陸して、水上偵察機を送り込んで前哨地とした。
この時点で、アラスカ救援は絶望的となり、アンカレッジは完全に孤立することになった。
7月11日にアンカレッジ上陸作戦が始まり、合衆国陸軍の絶望的な抵抗を艦砲射撃で粉砕してアラスカに日竜旗が翻ることになる。
合衆国陸軍は内陸に後退してしぶとく抵抗を続けたが、日竜軍の目標はアラスカの大自然ではなく、アンカレッジに飛行場を建設することだった。
日竜軍がまとめた第3段作戦は、西海岸への侵攻と合衆国本土への戦略爆撃であり、その足場づくりのためのアラスカ攻略だった。
7月28日には、早くも空軍の百式重爆撃機の第一陣が展開して、合衆国本土への偵察飛行を行った。
百式重爆は、対ソ戦決戦兵器として開発が進められた戦略爆撃機である。
全幅52m、全長17mという巨大な全翼機で、6基の5,000馬力級ターボプロップエンジンを搭載して、16,000kmを飛行して東京から直接、モスクワを爆撃する計画だった。
エンジンにターボプロップエンジンを使用したのは、初期のターボジェットエンジンは燃費が悪く、航続距離の要求を満たせないと判断されたためである。
開発・設計は海援隊傘下のノースロップ社で行われ、1940年に制式採用された。
ただし、飛行安定性に問題があり、実戦配備は1942年まで待たなくてはならなかった。
全翼機は、空飛ぶものは須らく円盤型であるべしと考える竜宮人の嗜好にあった形式であったが、胴体や尾翼がないため安定性において不利だった。
初期の機体は安定性の不足から、墜落事故を起こしておりテストパイロット5人が殉職している。
そもそも制式採用したことが誤りだったとさえ言われたほどだった。
それでも実用化に向けて努力が続けられたのは、ノースロップ社創業者のジャック・ノースロップの執念と龍宮内親王からの全幅の支持があったからと言われている。
最終的に飛行安定性の問題は、重量1tもある操舵補助用アナログコンピューターの開発によって解決された。
このため、百式重爆は世界初の実用全翼式航空機にして、世界初のアナログ・フライ・バイ・ワイヤ機としてギネスブックに登録されることになった。
当然のことだが、重量1tもあるアナログ・コンピューターは、空中においては完全なデッド・ウェイトであり、通常形式の飛行機なら不要な装備だった。
それでも全翼機にこだわったのは、竜宮人の円盤型への拘りのなせる業といえる。
百式重爆の展開にあわせてアンカレッジ飛行場も急ピッチで整備された。
最終的にアンカレッジ飛行場は3,000m級滑走路3本と戦闘機用の1,500m滑走路2本を有する広大なものとなった。
21世紀現在はアンカレッジ国際空港として利用されている。
飛行場建設には空軍の施設課のみならず海軍設営隊や陸軍工兵隊も投入し、民間建設会社も動員された。
しかし、使用器材や資材揚陸の順番をめぐるトラブルがあり、陸海空軍のセクショナリズムによって、当初の工事は効率的とは言い難いものだった。
これは全体を統括する工事管理者が不在だったことが原因で、せっかく動員した民間建設会社は仕事にならない有様だった。
しかし、ある民間土木会社の社長が驚異的な調整力を発揮して、陸海空軍を対立を終息させ、当初の予定通りに基地建設を成し遂げた。
その民間土木会社の社長こそが、若干24歳の田中竜栄だった。
その働きが龍宮内親王の目に止まった竜栄は建設省に抜擢され、その優れた手腕から後に帝国建設総監に任ぜられた。
龍宮内親王の死後の後継者をめぐる政争を経て、頭角をあらわした竜栄がやがて摂政代行となるのだが、それはまた別の話である。
百式重爆による米本土爆撃は、1942年8月10日から始まった。
主なターゲットとなったのは西海岸の石油精油場や航空機工場、アルミ生産設備で、タコマにあったボーイング社の工場やエルウッド製油所などが爆撃された。
合衆国軍には高度12,000mを時速755kmで飛行する百式重爆に対して有効な反撃手段がなかった。
この速度は排気タービン装備のP-38よりも100km以上早く、戦闘機による迎撃は殆ど不可能だった。
対空砲も同様であり、合衆国陸軍標準の90mm高射砲では高度12,000mを飛行する百式重爆には対応できなかった。
ただし、日竜軍は中立国のカナダ上空を避けて飛行したため、東海岸は空襲を免れており、合衆国軍当局は工場の疎開で対応することができた。
また、北太平洋の夏は急速に過ぎ去りつつあり、厳しい冬が近づいていた。
冬になれば氷で閉ざされるアンカレッジでは、大規模な航空作戦は殆ど不可能になる。
冬まで時間を稼ぐことができれば、1943年以降は戦時生産の本格化により、物量で日竜軍を押し戻すことができると考えられた。
日竜軍も米ソとの二正面作戦で攻勢がとれるのは1942年までと認識していた。
対ソ戦は、1942年中は殆ど前進も後退もなかったが、ソ連軍の度重なる反攻で止まることがない出血が続いており、いずれはどこかで戦力均衡が破られ、撤退を強いられることは明らかだった。
そのため、日竜軍はアンカレッジ飛行場整備を急ぎ、フィリピン攻略戦を終えた本間将軍率いる第14軍を再編成し、シアトル上陸作戦を強行することになった。
シアトル攻略を図った決号作戦は1942年10月1日に発動され、小沢機動部隊による空襲によって始まった。
第14軍は、小沢機動部隊の航空支援をもとに10万の兵力を一挙に上陸させた。
これは21世紀現在においても世界最大の上陸作戦として記録されている。
合衆国海軍は空母機動部隊は再建途中で、戦艦部隊は英海軍の嫌がらせで身動きがとれない状況であり、上陸阻止は航空戦力が頼みだった。
しかし、零戦隊の神通力は未だに有効で、ジェットエンジンの甲高い轟音が北米の空を制した。
この時、小沢機動部隊には、翔鶴、瑞鶴、千鶴、白鶴に零戦を満載して、7倍近い合衆国の基地航空部隊と互角の戦いをしている。
キルレシオは1対7で、この数値は概ね日竜軍が戦前に想定していたジェット機とレシプロ機の交換比率だった。
ちなみに対ソ戦ではこの比率が1対15まで拡大するので、合衆国軍機の性能とパイロットは極めて優秀だったといえる。
空対空戦闘においては、近接信管付きの空対空ロケット弾が爆撃機迎撃に威力を発揮した。
試作段階ではあったが、電波誘導式の艦対空誘導弾も投入され、誘導弾巡洋艦に改装された軽巡洋艦北上、大井が史上初の誘導弾艦隊防空戦闘を実施した。
甲板に多数の誘導弾発射器と誘導用電探を満載した大井と北上は、遠目には電探のアンテナのせいで雑木林か何かが動いているようにしか見えなかった。
しかし、揚陸船団に迫る多数のB-17やB-24を次々と撃墜し、新しい時代の防空戦闘のあり方を示すことになった。
合衆国陸軍は開戦から動員を進めて兵力増強に努めていたが、西海岸の全てを守るには兵力が不足しており、波打ち際で上陸を阻止することができなかった。
小沢機動部隊の航空支援を受けて、第14軍は橋頭保を確保すると最も近い港湾都市であるシアトルを包囲した。
シアトルには合衆国軍が武装市民と共に立てこもっており、その排除には多大な犠牲が予想された。
しかし、最終的にシアトル攻防戦は殆ど血を流すことなく終了した。
市街戦が本格化する前に、日竜軍が合衆国の中枢を叩き潰していたからだ。
シアトル上陸作戦は陽動だった。
第14軍が北米に上陸した10月3日、合衆国の耳目が西海岸に集中している隙をついてアンカレッジ飛行場から155機の百式重爆が離陸した。
100機以上の全翼式巨人爆機機がロケットブースターの補助を借りて急速発進する有様は、この世の終わりような景色だったと後に田中竜栄は述べている。
155機の大編隊は、途中でエンジン不調で引き返した21機の除いて、全機がカナダ領空を通過して東海岸に迫った。
これは完全な領空侵犯であり、後にカナダ政府から厳重な抗議を受けることになり、日竜政府は後に正式な謝罪を行っている。
しかし、合衆国の警戒網をすり抜けるためには必要な措置だった。
実際に合衆国は飛来する百式重爆に対してまるで無警戒で、国境を超えたあとも空襲警報を発令していなかった。
134機の百式重爆は3群に分かれて、ワシントンD.C.上空に侵入した。
攻撃機第一派を指揮した淵田美津雄空軍中佐は対空砲火がなかったことから、
「奇襲ニ成功セリ(トラ・トラ・トラ)」
という歴史に名高い電文を発して、誘導爆弾および通常爆弾を使用してワシントンD.C.の合衆国陸海軍省の施設や高射砲陣地を爆撃した。
攻撃隊第2派は、ワシントンD.C.周辺の飛行場を爆撃して航空戦力を封殺している。
そして、遅れて到着した本命の第3派は牽引してきた25機の大型グライダーを切り離し、義烈空挺隊が灰燼燻る合衆国首都にグライダー降下した。
降下に成功した空挺隊員は最終的に100名足らずだったと思われている。
思われているというのは、全員が未帰還となったことから正確な数字が不明なためである。
しかし、作戦そのものは完全に成功を収めたと判断された。
ペンシルベニア通り1600番地に建つ白亜の建築物は、その住民ごと地上から完全に消滅したためである。
ホワイハウス・ディストラクションと呼ばれる大爆発が発生したのは、トラ・トラ・トラの打電から57分後のことだった。
爆発の原因には所説があるが、公式採用されているのはホワイトハウス地下にたまった天然ガス溜まりが、銃火によって引火・誘爆したことが原因とされている。
当時、ホワイトハウスは、地下防空壕を含む東棟の建設工事を行っており、工事の際に発見された天然ガスのガス溜まりを抜きとる工事を行う予定だった。
義烈空挺隊が突入した時点で、抜き取り工事は完了しておらず、未完成の地下防空壕に立てこもったフランクリン・ルーズベルト大統領と護衛の海兵隊は天然ガスが充満した地下で火器を使用したことから、引火、誘爆に至ったと考えられている。
日竜軍が核分裂爆弾を使用したという説もあるが、放射性物質は検出されていない。
こうした誤解が生じたのは、ホワイトハウス・ディストラクションの爆発規模がTNT爆薬換算で5,000t(5キロトン)分という巨大なものだったためである。
これは低出力核分裂爆弾に匹敵する爆発規模だった。
そのため、日竜軍が核分裂爆弾を使用したというデマが広がった。
そのほかの陰謀論としてはホワイトハウスの地下には異星人のUFO基地があり、敗北を悟った異星人が自爆したという珍説もある。
また、ホワイトハウスそのものがUFOの偽装であり、ルーズベルト大統領に擬態したエイリアンがUFOで逃亡を図って爆死したという説や、異星人同士の争いを裁定する銀色の巨人が降着して合衆国政府を操る異星人を成敗したというサイエンス・フィクション未満の暴論などもある。
こうしたオカルトな陰謀論の根拠となったのは、爆発の巨大なキノコ雲が生じる前に、光の柱のようなものが見えたという証言が多数あるためである。
光の柱がいかなる光学的原因によって生じたものかは現在も不明だが、爆発の衝撃波が何らかの光学的現象を引き起こしたと考えられている。
ともあれワシントンD.C.奇襲攻撃で、合衆国中枢は完全に崩壊することとなった。
日竜軍はホワイトハウスが大爆発するところまでは予期しておらず、ルーズベルト大統領や政府閣僚を捕虜にすることで、有利な停戦交渉を行う腹積もりだった。
しかし、その予定は完全に狂うことになった。
ホワイトハウス・ディストラクションからほどなくして、合衆国全土がパニック状態となり、大都市部では暴動が発生して無政府状態になってしまったためである。
まるで、糸が切れた凧のような無軌道な暴走ぶりだった。
暴徒が国境に押し寄せたため、カナダ軍が出動して慌てて国境を封鎖したが、暴徒による発砲・略奪が続いたため、自衛のために実力行使に至ったほどである。
当時の合衆国世論は戦時の緊張によって、ある種の催眠状態に近いものであり、首都壊滅というショックで催眠が解除されて、遮断されていた情報が一度に押し寄せてパニックを引き起こしたという説が有力である。
無政府状態となった合衆国は、東海岸を停戦監視を名目に進駐したカナダ・イギリス軍によって占領され、西海岸は日竜軍が制圧することになった。
南部は、自力で混乱を脱したが南部連合として合衆国から離脱を宣言し、戦争から足抜けを図った。
1942年12月8日、戦争開始からちょうど1年目のサンフランシスコで、抵抗していた最後の合衆国軍が停戦に応じ、合衆国崩壊によって北太平洋戦争は終わった。
合衆国が戦争が脱落した後も日ソ戦争は続いたが、合衆国からの支援を失ったソ連は1943年夏にノヴォシビルスクを失って、戦争の峠はすぎることになる。
1944年6月には、欧州連合軍が参戦し、両面作戦を強いられたソ連は各地で大敗を重ね、3か月後の9月11日にモスクワは陥落した。
スターリンは、モスクワから脱出した後、消息不明となった。
部下の裏切りにあって処刑されたという説が有力だが、コーカサス山脈に潜伏して再起を伺ってると信じられていた。
爆破処理されたクレムリンは実はダミーで、たまねぎ型UFOに変形して、月の裏側にある宇宙基地に逃亡したという珍説もあるが、それは割愛する。
1944年12月までに全てのソ連軍が降伏し、第二次世界大戦は終わった。




