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日米開戦



 日米開戦


 1940年の冬は、日竜軍にとって暖かな冬だった。

 もちろん、気温は氷点下10度を下回る日々が続いたが、ソ連軍の冬季攻勢が不発に終わったことが大きかった。

 日竜軍は失地回復を図ってソ連軍が冬季反撃を行うと予想していたのだが、ソ連軍は冬営陣地から出てこなかった。

 正確には、出てこれなかったというべきだった。

 日竜軍は、これについて2つの理由があると考えた。

 一つは、対ソ戦略爆撃である。

 対ソ戦略爆撃は、開戦初日から始まっており、主に九七式重爆が投入された。

 九七式重爆撃機は、日竜空軍初の本格的な戦略爆撃機であり、高速性能のためにエンジンナセル内に2つのエンジンを結合させ、1つのプロペラを回すという分かったような分からない設計を採用していた。

 そのため、初期にはエンジントラブルに悩まされたが、1940年には改良型のⅢ型が主力となっていた。

 主な改良点はエンジンの換装である。

 九七式重爆の設計時点で、要求性能(航続距離6,000km以上)を満たすためには3,000馬力級発動機が必要だと見込まれていたが、そのための発動機が存在しなかった。

 やむを得ず1,500馬力級エンジンを2基を結合して、1つのエンジンにすることで目標馬力を達成しようとしたが、それがトラブルの元になっていた。

 Ⅲ型は、漸く完成した3,500馬力級のターボプロップエンジンに換装することで、本来の要求性能を確保した機体といえる。

 日竜空軍の戦略爆撃機を集めた第8航空艦隊は、開戦初期からシベリア鉄道をターゲットに戦略爆撃を行った。

 特に激しく攻撃したのは、鉄道駅、貨物ターミナル、操車場、給水・給炭施設や機関車車庫だった。

 また、橋梁爆砕も重視された。

 シベリアには数多くの大河があり、橋梁は鉄道運行上のアキレス腱といえた。

 ただし、橋梁爆砕はピンポイント攻撃が必要であるため、攻撃難易度は極めて高い。

 そのため、新開発のテレビ誘導爆弾が投入された。

 初期の誘導爆弾は、母機から投下後に爆弾を爆撃照準器で目視して標的に誘導するという運用制約があった。そのためには母機を爆撃目標の上空にとどめる必要があった。

 そのため、投下後に母機が低速、直線飛行しなければならず、対空砲火や戦闘機の迎撃に対して極めて脆弱な状態となった。

 テレビ誘導爆弾は、それらの問題を爆弾にテレビカメラを搭載することで解決した第2世代型誘導爆弾だった。

 爆弾投下後、母機は電波の届く範囲内で回避運動が可能になり、爆弾誘導も母機のモニターを見ながら電送される映像を見て、目標まで爆弾を十字キーで誘導する形になった。

 この誘導技術は、戦後にテレビゲームの開発に使用された。

 映像記録に残されたテレビ誘導爆弾の爆撃誘導を見て、テレビゲームのようだと感想を述べる者がいるが、それは順序が逆といえる。

 日竜空軍の戦略爆撃に対して、ソ連空軍は大量の高射砲と高高度迎撃機(Migー3)で対応したが、シベリア鉄道の稼働率は3割まで低下した。

 それはそのまま前線で養える兵力の低下を意味しており、1940年の夏季攻勢において日竜軍に圧倒される原因となった。

 スターリンは大祖国戦争を宣言して、総兵力1,000万と推定される大動員を進めていたが、動員した兵力を運べなくなるという事態は想定していなかった。

 もう一つの要因は、イギリスの牽制だった。

 同盟国イギリスは、日ソ開戦時に即時参戦を回避したが、戦争準備そのものは急ピッチで進めており、1940年7月には大規模なイギリス海外派遣軍(BEF)が編成された。

 BEFの派遣先は、ポーランド、バルト三国、フィンランドだった。

 イギリスの狙いは、ソ連と国境を接する東欧、北欧諸国の国防を強化することで、欧露のソ連軍を拘束することだった。

 経済力の限界から、ソ連に対して著しく軍備が劣るバルト三国やフィンランドにとって、BEFの派遣は福音という他なかった。

 特にイギリスの優れた航空戦力は極めて重要だった。

 ポーランドには、イギリス空軍のボマーコマンドが展開した。

 ライセンス生産した日竜製のターボプロップエンジンを搭載したアブロ・マンチェスターは、ポーランド西部からモスクワを爆撃することができた。

 ソ連空軍はモスクワやウクライナ防空のために戦力を展開することとなり、対日戦に使える戦力を大きく制限された。

 BEFの展開は続き、40年9月にはギリシャ、ハンガリー、ルーマニアへと派遣が拡大した。イタリア軍も遠征軍に参加し、ルーマニアとハンガリーには主にイタリア軍が展開した。

 ルーマニアとハンガリーは、トランシルヴァニアをめぐる国境・民族紛争を抱えており、国内問題からどちらも軍国主義ファシスト政権となっていた。

 そのため、どちらにも顔がきくムッソリーニの出番だった。

 1940年9月27日には独仏が英伊の仲介によって、日英伊三国軍事同盟に参加した。

 独仏の確執という欧州の常識が覆った瞬間だった。

 フランスが第一次世界大戦に敗れたドイツに対して示した態度を考えれば、これはある種の奇跡という他なかった。

 パリのエリゼ宮殿で、フランス首相のポール・レノーとドイツ臨時大統領のエルンスト・レームがそろって同盟参加を表明し、仏独協力条約に調印した。

 仏独協力条約は、アルザス・ロレーヌ地方の帰属をめぐる問題の最終的解決と独仏の和解・経済協力を掲げた友好条約である。

 今日における欧州政府の基礎となった条約といっても過言ではない。

 仏独の和解と協力を受けて、間に挟まれた低地諸国も中立を捨てて、反共同盟に参加することとなり、スイスとスペインを除く欧州の大同団結が達成された。

 仏独の和解と欧州の大同団結という奇跡は、チャーチルとムッソリーニという当代随一の大政治家による緊密な連携なくしては考えられなかった。

 チャーチルとムッソリーニは、龍宮内親王という共通の友人で深く結びつけられており、日英伊の政治的な紐帯は、極めて強固なものだった。

 あまりにも仲がいいので、肉体関係があるのではないかと噂されたほどだった。

 こうしたゴシップに龍宮内親王が答えたことはないが、親しい友人に対して


「二人が私を女として見てくれたことは一度もなかった」

 

 と寂しそうに笑ったとされる。

 ちなみに竜宮人のパートナー(男性)に対するアンケート調査によると、性交において竜宮人の女性器と男性器を利用する割合はおおむね半々という結果が出ている。

 調査結果を踏まえると龍宮内親王の発言が、非常に倒錯した色彩を帯びることになるのだが、それはさておく。

 独仏が確執を乗り越えて手を結んだのは、チャーチルとムッソリーニの斡旋という要素もあったが、共産主義勢力に対する恐怖という要素も大きかった。

 特にドイツでは、1940年8月11日にドイツ共産党が武装蜂起して大混乱に陥った。

 所謂、ベルリン一揆である。

 ドイツ共産党に武器を流したのは、ドイツ軍内部の親ソ派将校たちだった。

 ドイツ軍はヴェルサイユ条約で課せられた軍備制限を逃れて兵器開発を行うために、ソ連と裏で手を組み、最新兵器の研究開発やテストをソ連領内で行っていた。

 英仏の目が届かないソ連領内の訓練施設提供の見返りに、ソ連はドイツの最新技術を手に入れた。

 敗戦国のドイツと共産主義国のソ連という世界の爪弾き者同士の連帯は、スペイン内戦勃発まで続いていたとされる。

 ソ連から帰国したドイツ軍将校は、実の祖国よりも心の祖国に忠実だった。

 まるで別人のようになってしまった人物も多く、


「ソ連で何かされたようだ」


 とささやかれたが、ドイツ政府の反応は鈍かった。

 プロイセン時代から国家の中枢にあった軍部が、祖国を裏切るなどとは思いもよらぬことだったからである。

 甘かったとしか言いようがない。

 親ソ派将校はドイツ共産党に武器庫の鍵を渡し、彼らと共にベルリンを占拠した。

 しかし、共産党の武装蜂起は、国民からの支持を欠いており、武装蜂起が地方へ波及することなかった。

 英空挺部隊の緊急展開や九死に一生を得たエルンスト・レームが率いる突撃隊の反撃によって、武装蜂起は3日で失敗に終わった。

 それでもパーペン大統領をはじめとする主要閣僚が死傷し、軍部が外患誘致に手を染めるという前代未聞のスキャンダルでドイツ国内は大混乱状態に陥った。

 無政府状態に陥ったと言っても差支えなかった。

 むしろそれが武装蜂起を指示したとされるコミンテルンの目的だったのではないかという説もあるほどである。

 なぜならば、大混乱に陥ったドイツでは再軍備が停滞し、第二次世界大戦においてドイツはほとんど存在感を発揮できない結果に終わったからである。

 中欧の大国であるドイツの再軍備が頓挫したことは、日竜にとって頭の痛い問題だった。

 エリゼ宮殿でレノー首相と握手を交わしたレームも、身分は臨時大統領というあいまいなものだった。選挙で大統領に選出されたわけではなく、ほかに混乱を収められる人物がいないからという理由だった。

 ちなみにエルンスト・レームは、欧州のファシスト政治家の多くがそうであるように、欧州亡命時代から龍宮内親王と親交があった。

 龍宮内親王は、同性愛者を公言するレームを尊敬し、使用人を使わず自らアイスティーを給仕するほどだった。

 戦傷により猛々しい容貌のレームに対して、


「ドイツの野獣」


 という賛辞も送っている。

 両性具有であるがゆえに、完全な百合や薔薇に至ることができない竜宮人は、同性愛を神聖視していた。

 龍宮内親王も例外ではなかった。

 ちなみにチャーチルとムッソリーニにはその気はなく、レームから来たサウナルームへの誘いを丁重にお断りした。

 それはさておき、陸のソ連包囲網構築にあわせて、英海軍は対ソ海上封鎖に踏み切った。

 ソ連の海上交通は、主に地中海~黒海を通過する南ルート、北海~バルト海ルート、ノルウェー海~バレンツ海を通過する北ルートがある。

 いずれも英海軍の主要な海軍基地の鼻先を通過するルートであり、容易に制圧可能だった。

 海上封鎖には伊海軍も参加し、10月からは仏独海軍も加わって、ソ連の海上交通は完全に閉塞されると思われた。

 しかし、アメリカ合衆国が海上封鎖に猛反発し、


「合衆国は大陸封鎖令に参加しない」


 と宣言し、ソ連との貿易を継続した。

 病死したチェンバレンに代わって挙国一致内閣を率いることになったウィンストン・チャーチルは、衝突回避のために合衆国商船を封鎖の対象から外した。

 ただし、海上臨検は実施して、武器輸出の有無は確認した。

 ルーズベルト政権は主権侵害と反発したが、チャーチルは戦時国際法による中立義務を盾に臨検を断行した。

 結果として、米国製の武器弾薬がぞろぞろと発見されることとなった。

 ルーズベルト政権は、ならず者による密輸品と説明したが、イギリスを含めて欧州世論の反発は大きなものとなった。

 ソ連に対する不透明な肩入れの実態が明るみになったからである。

 さらに、合衆国はモンロー宣言を欧州各国が求める武器輸出も拒否していたことから、これは二重の意味で背信行為だった。

 一部のアナリストは、大統領選挙の怪しげな動きとあわせてソ連への武器密輸がルーズベルト政権にとって致命傷となり、弾劾もありえると考えた。

 しかし、なぜか合衆国内の世論は盛り上がらなかった。

 大手マスコミが武器密輸を取り上げることは殆どなく、ラジオ局からも無視された。

 一部の極右雑誌や新聞などは、反共の立場から武器密輸を大きく取り上げたが、世論の注意を引くことができなかった。

 世論の支持がないため、共和党の追及も精彩に欠くことになった。

 合衆国大手マスコミの不感症的な態度については、


「報道しない自由」


 と各国から揶揄された。

 不感症的な態度どころか、海上封鎖を主導するイギリスや同盟国の日竜に対して反感をあおるような報道を連発していたのだから、事態はより深刻だったと言える。

 この時期の合衆国世論は、ある種の被害妄想か、集団ヒステリーに近い状態だった。

 1941年3月に発生した集団薬害事件などは、その最たるものといえる。

 事件の発端となったのは、ボストンの民放ラジオ放送だった。

 ラジオ司会者が読者からの投稿を読み上げる形で、ゼイリブ製薬製の風邪薬にまつわる噂話を紹介したところ、それを試してパニック状態になるものを続出した。

 投稿の内容は、ゼイリブ製薬の風邪薬には、青いカプセルと赤いカプセルがあり、赤いカプセルの薬を飲むと隠された世界の真実の姿を見ることができるというものである。

 実際の風邪薬は、全て青いカプセルであるため、これはデマだった。

 しかし、数千人の人々が赤いカプセルを見たと証言し、実際に飲んだところ、幻覚を見て病院に担ぎ込まれた。

 病院に搬送された人物の証言では、会社の上司や警察官、マスコミ関係者、役人、教会の神父や政治家などが銀色の肌をした化け物に見えるということだった。

 ルーズベルト大統領もその一人だった。

 FBIによる捜査も行われたが、事の発端となったラジオ放送局が、そもそも存在しないことが明らかになった。

 つまり、全てはデマ、噂話に過ぎなかったのである。

 噂話を真に受けた人々が、集団心理からパニックを起こすことは珍しいことではない。

 しかし、赤いカプセルを飲んで錯乱状態になった人々によって乱射事件や爆弾テロ事件がおきるなど、合衆国世論は騒然とした状態となった。

 逮捕された犯人はマスコミに合衆国を異星人エイリアンから解放すると主張して、世論の不安をさらに煽った。

 合衆国政府は、一連の騒動が日竜の情報機関による攪乱工作であると発表した。

 当然、日竜政府は事実無根と反論したが、合衆国政府は治安維持を名目に国内の日竜人を拘束して、アリゾナ州の強制収容所に送るという暴挙に出た。

 日米関係悪化を受けて、多くの日竜人が帰国するかカナダに脱出するなどしていたが、これよって合衆国内における海援隊等の竜宮人コミュニティは完全に壊滅することになった。

 デマや噂話が意図せず増幅して、集団パニックを引き起こすことは、人類の歴史には珍しいことではなく、宗教の神秘体験などは多くの場合、集団幻覚、集団パニックの一種であるとさえ言える。

 しかし、それを外国の諜報機関になすりつけるというのは明らかに異常である。

 また、憲法に定めれらた手続きを無視し、自国民を拘束して収容するなどは、法治主義の崩壊という他ない。

 一部の陰謀論者は、赤いカプセルの散布は本当に日竜の情報機関による特殊工作で、合衆国の中枢が侵略的外星人によって支配されていることを暴露するものだったと主張したが、勿論、そのような事実はなかった。

 現代から振り返ると当時の合衆国は、モンロー宣言によって孤立した状況にあり、日英のみならず欧州との関係が希薄化していた。

 1941年8月12日には、日英伊仏独の指導者がインド洋上に集まり、インド洋憲章を発表するなど、国際的な連帯を示したのに対して合衆国は孤立した状態だった。

 自由で開かれたインド・太平洋を謳いあげたインド洋憲章は、戦後世界を規定することになった国際的声明であり、そこに合衆国の姿がないことは外交上の敗北という他なかった。

 さらに戦争によるサプライチェーンの寸断もあって、インフレーションで国内経済の停滞は深刻な状態にあり、世論は不安定化し、集団ヒステリーが発生しやすい状態となっていたと思われる。

 当然のことながら、日米関係は極度に悪化し、ワシントンで続いていた日米交渉は完全に暗礁へと乗り上げることになった。

 国際的に孤立した合衆国は、反日、反英世論の盛り上がりを背景に、1941年6月から合衆国商船への駆逐艦護衛に踏み切った。

 合衆国との対決を回避したいイギリスは海上臨検を中止したため、1941年夏からは大っぴらにソ連へと合衆国製の武器が輸出されることになった。

 そのため、1941年の日竜夏季攻勢”ノ号作戦”で、日竜軍は合衆国製の武器で武装したソ連軍と戦うことになった。

 陸では、M3軽戦車やM3中戦車、空においてはP-40やP-39、さらに新鋭機のP-38も迎撃機として投入された。

 M3中戦車は、九七式中戦車チハの敵ではなく、ソ連兵からも散々な評価だったが、歩兵支援戦車としては侮れない存在だった。

 これまでの戦いから、どのような性能であっても、対戦車火器を持たない歩兵にとって戦車は脅威であることが明らかになっていた。

 さらにソ連は、新鋭戦車のT-34を戦線に投入した。

 T-34は傾斜装甲を採用し、76mm砲を搭載したバランスのとれた中型戦車だった。

 BT戦車を圧倒したチハであってもT-34は危険な相手で、接近戦では正面装甲を破られることもあった。

 武器輸出の拡大も脅威だったが、より深刻だったのは蒸気機関車や貨車、トラックなどの輸送器材の輸出だった。

 合衆国製の高性能な蒸気機関車の輸出は、爆撃によって多数の機関車を失っていたソ連にとって極めて重要だった。

 トラックの輸出も同様である。

 さらに多数の輸送機がソ連に納入され、航空輸送力も強化された。

 広大なソ連の領土において、航空輸送は極めて重要だったが、ソ連空軍の空輸力は全く不十分だった。

 そこに合衆国製の各種航空器材が持ち込まれて、ソ連空軍を下支えすることになった。

 ノヴォシビルスク攻略を目指したノ号作戦が、強力な抵抗に遭遇したのは、合衆国からの兵器供給なくしては考えられなかった。

 シベリア上空では、伝説をつくる勢いでジェット零戦がソ連軍機をたたき落とし、殆ど絶対的な制空権を確保していたが、粘り強く後退・防御戦闘を行うソ連軍に対して息切れ状態となり、秋雨の訪れと共に攻勢を停止した。

 戦前から懸念されていた輸送力の限界が、ついに顕在化したと言える。

 輸送システムそのものが大量の燃料や物資を消費してしまうため、前線の消費に補給が追いつかなくなりつつあった。

 戦前に計画された日竜の対ソ戦計画は、モスクワまでの進撃を計算にいれていたが、合衆国からの無限に近い武器貸与という要素は入っていなかった。

 共産主義国ソビエト資本主義国アメリカが手を組むなどという異常事態を想定する方が難しかった。

 ノヴォシビルスクは、新しいシベリアの街という名にふさわしく、人口が20万人を超えるシベリアの中心都市で五か年計画で重工業化が図られた重要都市だった。

 既に重要な工場は疎開した後だったが、それでもシベリアの中心都市という地位は揺らいでおらず、日ソ戦争における一大焦点となった。

 また、モスクワと東京間における中間地点に位置し、日ソ戦争の分水嶺といえた。

 スターリンは、ノヴォシビルスクを失うことは、シベリアそのものを失うことであるとして、死守命令を出していた。

 命令だけではなく戦力の増強も著しく、ノヴォシビルスクを囲むように何重にも野戦築城が行われ、都市そのものが要塞化していた。

 龍宮内親王も、ノヴォシビルスクの戦いが日ソ戦争の天王山と認識していた。

 しかし、合衆国からの武器供与が止まらない限り、前進は困難だった。

 そのため、海軍を中心に対米開戦も止む無しという意見がでるのは必然だった。

 対ソ武器貸与のみならず合衆国は、日英をターゲットに両洋艦隊構想を発表し、日英海軍合計した2倍以上の艦艇建造という野放図な海軍拡張を行っていた。

 諜報活動によってつかんだ情報によれば、艦隊型空母だけで30隻以上新規建造という空前絶後の計画で、60,000t以上の超大型戦艦(モンタナ級)も6隻以上建造することになっていた。

 日竜海軍も1937年からマル3,マル4計画に基づき航空母艦6隻(翔鶴型装甲空母)などを建造していた。

 装甲空母6隻建造+補助艦102隻を作るマル3、マル4計画は十分に強大な艦隊拡張計画だったが、合衆国のそれに比べればつつましいものと言わざるを得ない。

 また、対ソ戦で陸空軍備が優先され、艦艇建造は中止や遅延が増えており、このまま合衆国海軍の拡張が続けば、1945年までに対米2割以下まで戦力が低下し、国防が不可能になると見込まれた。

 世界の10年先を行くと自負する技術優位を用いても、覆しがたい戦力が洋上に現れる前に、先制攻撃すべきという意見が湧き上がるのは当然の結論だった。

 また、合衆国はフィリピンの海軍基地を拡張し、多数の潜水艦を配置するなど、日本の生命線となっている日英貿易航路の遮断を意図しているように思われた。

 マニラ周辺の航空基地も整備され、長距離爆撃機(B-17)の配備も進んでいた。

 潜水艦と長距離爆撃機を使った通商破壊戦が行われた場合、日竜の戦争経済が窒息し、日ソ戦争の敗北もありえた。

 対ソ戦の敗北は、そのまま亡国に直結していた。

 1941年8月に開かれたインド洋会談においても、対米開戦は主要な議題だった。

 巡洋艦六甲(日)、戦艦プリンセス・オブ・ウェールズ(英)、巡洋艦ザーラ(伊)、戦艦ダンケルク(仏)、巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペー(独)が、各国首脳をのせてインド洋アッドゥ環礁に集まり、国際会議がひらかれた。

 龍宮内親王は、対ソ参戦、対米開戦を各国に求めたが、反応は芳しいものではなかった。

 同盟国の英伊でさえ、対米開戦には否定的だった。

 英連邦の主要な構成国カナダをかかえるイギリスとしては、国土カナダを戦場にしかねない対米戦争は承服しかねるものだった。

 イタリアは国力の問題から、対米戦どころか対ソ戦参戦も否定的だった。

 仏独については論ずるまでもなかった。

 インド洋会談は、人種の平等、民族自決や領土要求の否定、国際連盟改革、自由貿易体制の再構築など自由で開かれたインド・太平洋を謳いあげたインド洋憲章という声明を発表して終わり、日竜の参戦要求は否定された。

 人種平等は、国際連盟創設の際に求めて拒絶された竜宮人の悲願であり、それを欧州各国に認めさせたのは大きな前進だったが、当座の問題解決にはならなかった。

 龍宮内親王は、当初は日英による両洋からの対合衆国挟撃を構想していた。

 しかし、インド洋会談の結果を受けて、単独での対米先制攻撃を決意した。

 日竜は対米戦に向けて動き出したが、海軍や陸軍の一部には対米開戦は無謀とする意見があった。

 連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将などがその急先鋒だった。

 山本大将はアクの強い性格から龍宮内親王と折り合いが悪く、対米開戦を聞かされると辞表をちらつかせて、


「ぜひやれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となればまったく確信は持てない」


 と詰め寄り戦争回避を求めた。

 それに対して龍宮内親王は、


「戦争はこの1年で決着がつく」


 と答えたとされる。

 山本大将が、


「1年で決着がつかなければどうなさいますか?」


 と意地悪く追及したところ、


「その時は、これをチャーチルのところへもっていけ」


 と言って自分の首筋に手刀をあてるジェスチャーをしたため、さしものGF長官も毒気を抜かれて対米戦争に同意したと言われている。

 1941年11月には日竜陸海空軍の戦力が、フィリピン攻略のため台湾に集結し、日米開戦は不可避の情勢となった。

 佐世保に集結した小沢機動部隊は、新鋭装甲空母の翔鶴と瑞鶴を迎え、空母6隻が集中配置された。

 翔鶴と瑞鶴は、第二次ロンドン条約の制限一杯の基準排水量23,000tの艦隊型空母で、500kg爆弾に耐える装甲防御が飛行甲板に施されていた。

 また、建造当初からジェット機運用を考慮した構造となっており、飛行甲板には耐熱処理や後方噴流遮蔽板ブラスト・ディフレクターが供えられていた。

 足りないのは、アングルドデッキとスチームカタパルトだけで、その二つも5番艦以降には装備された。

 艦影が、同じ制限を受けて建造された英海軍のイラストリアス級と似ているのは偶然ではなく、翔鶴型は英海軍からの図面提供を受けて建造されたためである。

 異母姉妹の関係といえなくもない。

 ただし、日竜海軍では原型となったイラストリアス級の艦載機の収容が少なすぎること(最大36機)を問題とし、設計を変更して格納庫を2段式にして倍の81機に増やしている。

 英海軍が格納庫を1段式としたのは、飛行甲板を装甲化したことによるトップヘビーを避けるためであった。

 これに対して日竜海軍は側面装甲を削ることと格納庫の天井を低くすることで対応した。

 結果として、零戦のような平べったい円盤翼機ならともかく、通常形式の航空機が搭載不能となり、さらに艦載機の大型化にも対応できないという欠陥構造を抱えることになったのだが、1941年時点では特に問題視されていなかった。

 ちなみにイラストリアス級は、後期型では格納庫を2段式にして搭載機を翔鶴型と同じレベルまで増加させる措置をとったが、同じ理由ですぐに誤りであることが判明した。

 翔鶴型は逆に5番艦の雲鶴以降は格納庫を1段式に戻して天井の高さを稼ぎ、船体をストレッチして格納庫面積を稼いで艦載機数の減少に対応した。

 後期イラストリアス級や翔鶴、瑞鶴が戦後すぐに退役したのに対して、前期イラストリアス級や後期翔鶴型の雲鶴や猟鶴が70年代まで活躍したことを考えると格納庫の天井の高さが空母にとっていかに重要な要素であるかが分かるだろう。

 話がそれたが、日竜が単独で対米開戦に向けて動いていることに気が付いたチャーチルは、慌ててイーデン外相を派遣して日米の調停を図った。

 チャーチルはインド洋会談で、対米開戦が各国によって否定されたことから、日竜は交渉妥結に向けて動いていると思い込んでいたのである。

 そもそも既にソ連と戦争をしている日竜が、さらに合衆国に喧嘩を売るなど、常識的に考えてあえりえない話だった。

 ただし、これはチャーチルの手落ちと言えなくもなかった。

 何しろ相手は竜宮人であり、彼らが変なのが常であり、むしろ欧州的な常識が通用すると考えていたことが誤りと言えるからである。


「HENTAIはベッドの中だけで十分だ!」


 と焦ったチャーチルが叫んだかどうかは定かではない。

 ムッソリーニは何も語らなかったが、愛人の家に引きこもったと言われている。

 各国は英国の調停に一縷の望みをかけた。

 それに対して合衆国のコーデル・ハル米国務長官が提示したのが合衆国及日本国間協定ノ基礎概略、いわゆるハル・ノートとなる。

 内容は、日ソの即時停戦と占領地から無条件撤退、ロシア解放軍(トロツキー政権)の否認、日英伊三国同盟の破棄だった。

 一応、合衆国政府の公式見解ではなく、国務長官の覚書メモという体裁をとっていたが、日竜のみならず兄弟国の英国に示す以上はホワイトハウスの総意と見るべきものだった。

 ハルノートは日竜の対外活動の全面否定というほかなく、仮にも文明国が他の主権国家に示す外交要求としては非常識極まりないもので、駐米日本大使の野村吉三郎と共に文書を受け取ったイーデン外相さえも驚愕させた。

 この時の様子をイーデンは、


「同じ英語を話しているはずなのに、まるで話が通じなかった。宇宙人と話しているような気分だった」


 と振り返っている。

 一部の陰謀論者は、この発言を切り取って合衆国の中枢はルーズベルト大統領を含めて人類に擬態した侵略的外星人グレイにすり替わっており、合衆国は国家ごと乗っ取られていたと主張している。

 もちろん、そのような事実はないのだが、3枚舌で有名な英国外交でさえ匙を投げ出すような状況だったことは確かである。

 ハルノートの提示以前から、龍宮内親王は開戦の決意を固めていたが、意趣返しに最後通牒を兼ねて返書を作成した。

 主な内容は、対ソ武器供与の即時停止や日米修好通商条約の回復、在米資産の凍結解除や米国系竜宮人の解放だったが、最後に地球からの即時退去という悪戯書きがあった。

 最後通牒のような重要な外交文書に、このような悪戯書きをするのは珍しいことであり、前述の陰謀論を逞しくする原因にもなっている。

 日竜の最後通牒に対して合衆国からの回答がなく、日米は1941年12月8日に戦争状態に突入した。

 




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― 新着の感想 ―
[一言] ……宇宙人の代理戦争だけども、是非ともタコに勝ってほしい 地球人としてグレイは容認できん
[気になる点] ゼイリブ製薬 このネタ判るのって昭和生まれじゃないですか? それもかなりコアなところ…
[一言] ›自らアイスティーを給仕するほどだった ›「ドイツの野獣」 あっ…(察し)ふーん
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