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宇宙人の日本史  作者: 甲殻類


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13/16

ノモンハンの夏、UFOの空



 ノモンハンの夏


 1939年8月、日ソの衛星国であるモンゴルと満州王国の国境で発生した小規模な武力衝突は、双方が越境攻撃を繰り返した結果、日ソの全面戦争へと発展した。

 戦争の前触れとなる小規模な国境紛争は、1937年頃から頻発していた。

 その大半は数日以内に自然休止するか、停戦協定が結ばれて沈静化した。

 しかし、1939年5-6月にかけて、ハルハ東端部(外蒙古)とフルンボイル平原南部の新バルガ(内蒙古)との境界を巡って発生した戦いは、双方が重装備を投入したことから、長期戦となった。

 5-6月にかけて発生した武力衝突は、第一次ノモンハン事件と呼ばれ、主役はモンゴル軍と満州王国軍で、日竜軍とソ連軍の参加戦力は少数だった。

 ただし、日ソ双方が自然休止期間を挟んで兵力の集中を図ったため、7月以降は日ソ両軍が精鋭部隊を投入した大規模戦闘となった。

 戦闘そのものは、日竜軍の圧勝だった。

 上海事変で既に能力には太鼓判が押されていた九七式中戦車を先頭に、陸軍第23師団、第7師団が機動戦でソ連軍を撃滅した。

 戦線突破時には、上海事変では間に合わなかった九七式重戦車も投入された。

 対戦車戦闘において重戦車はまさにモンスターという他なかった。

 100mm戦車砲でBTー7戦車を攻撃した場合、貫通力がありすぎてしばしば砲弾が突き抜けて撃破に至らない事例があったほどである。


「BT戦車の撃破率は200%、なぜなら1両目を貫通した砲弾が2両目を撃破するから」


 などという戯言をいう余裕さえあった。


挿絵(By みてみん)


 第7師団は、北鎮の精鋭と名高く、1939年時点では戦車師団に改変済だった。

 第23師団は自動車化歩兵師団で、第7師団の側面援護と歩兵掃討を担当した。

 突進する第7師団を上空から空軍が援護し、九七式戦闘機がIー16やIー15といった低性能なソ連軍機を一蹴して制空権を確保した。

 九七式戦闘機は水平飛行の時点で、200km/h以上の速度差がついており、Iー16との戦闘は殆ど一方的なものだった。

 制空権を確保した日竜空軍は、空中から目につくものを全て片端から吹き飛ばして回った。

 戦場は草原と砂漠だったことから、空爆は極めて有効であった。

 そのため、ソ連空軍は空中戦を回避し、戦闘機を飛行場攻撃に投入するようになり、越境攻撃が頻発した。

 越境攻撃に対して、日竜空軍も越境攻撃で対抗し、双方が飛行場爆撃を繰り返した。

 また、日竜軍の質的優位に対抗するため、ソ連軍は兵力の増強を繰り返して、物量作戦を展開したことから、日竜側も兵力増強で応じた。

 結果として、外交ルートでの停戦模索は、兵力増強の時間稼ぎに堕ちていった。

 最終的に龍宮内親王は、対ソ全面戦争を決意し、9月1日に総動員令を発した。

 御前会議で、慎重論を退けての開戦決定だった。


「今やらねば、人類は手遅れになる」


 開戦を決定した龍宮内親王は、大粛清でソ連軍が弱体化した今でなければ、勝機はないと考えており、早期開戦を主張した。

 昭和天皇は戦争に反対だったが、御前会議には摂政が代理で出席しており、最初から発言の機会が与えられなかった。

 現実政治から切り離され、皇居で詩作に没頭する昭和天皇の詠んだ詩は、いずれも戦争に反対するものであったことは広く知られている。

 総動員令に先だって、龍宮内親王はテレビ放送で1時間の演説を行った。

 こうしたスタイルはそれまでの日竜政治になかったことであり、欧州生活が長かった龍宮内親王らしい手法といえる。

 放送の中では、如何に共産主義が悪しき存在であるか繰り返し強調された。

 

「百合の間に挟まるのは何か、それは共産主義である!」


 という下りは、竜宮人とロシア人民の間に共産主義という異物があり、正常な関係が妨げられているという意味である。

 同時に百合を神聖視する竜宮人全般の感情に訴えることを狙っていた。

 百合とは、竜宮人にとって極めて神聖なものといえる。

 なぜならば、両性具有の竜宮人は、性的に雌雄どちらにも対応できるため、物理的に完全な百合に至ることができないのである。

 雄蕊をとってしまえば、完全な百合に至るが、精神的なハードルは極めて高い。

 同じ理由で、薔薇も竜宮人全般にとっては、希少なものと認識されていた。

 よって、百合や薔薇の間に挟まろうとする行為は、竜宮人にとっては禁忌事項である。

 筆者は竜宮人ではないためこの感覚を理解できないが、竜宮人の友人 (セフレではない)に尋ねたところ、


「高級懐石にデスソースをぶっかけて台無しにするような行為」


 という説明を受けて腑に落ちたところである。

 龍宮内親王は、百合に挟まる男の例えを用いることで、これから始まる大戦争が、ロシア人民解放のための聖戦であることを示したと言える。

 演説があった1939年9月1日を第二次世界大戦の開戦日とする歴史資料が多い。

 ただし、龍宮内親王は、宣戦布告は回避した。

 日ソ間で起きているのは戦争ではなく、事変であるとされた。

 ソ連の言い訳では、特別軍事作戦ということになる。

 日ソはそれぞれ総動員令を発しながらも、これは戦争ではありませんと叫んでいたのは滑稽という他ないが、現実の政治的な要請に従った結果でもある。

 何しろ侵略戦争は国際法上は違法であるからだ。

 故にお互いが自衛を主張しており、これは侵略戦争ではないと主張しながらお互いの領土への攻撃を行っていた。

 また、同盟国との兼ね合いもあった。

 イギリスは、戦争準備が整うまで1年の猶予を欲しており、対ソ即時参戦に待ったをかけていた。

 フランスの状態はさらに悪く、ドイツに至っては8月に再軍備を宣言したばかりだった。

 ドイツはヴェルサイユ条約で長年軍備を制限されており、産業界は急な軍拡に対応できる状況ではなく、フランスやイギリスに支援を要請する有様だった。

 ドイツに比べると相対的にイタリアの方がマシと言えるほどである。

 何しろ英仏にはドイツに援助できる戦車がないため、イタリアから軽戦車を輸入することになったからである。

 イタリアからの輸入だけでは足りなかったので、チェコスロバキアからも軽戦車を輸入した。

 イタリア製のL3やチェコ製の38tが届くまでは、ドイツ軍には戦車が一両もなかった。

 それどころか、軍部に共産主義が浸透しており、親ソ発言をした海軍中将が罷免されるような状態だった。

 ポーランドやバルト三国、フィンランドといったソ連と国境を接する東欧・北欧諸国はひとまず日ソ事変が始まったことで自国に矛先が向くことがなくなったことに安堵した。

 しかし、同時にこの戦いで日竜が敗れることになれば、次は自分の番であることを理解していたので、軍備増強を急いだ。

 ただし、武器(特に航空機)の国内生産は難しかった。

 例えば、ポーランドなどは大小あわせて400機の作戦機を保有していたが、大半が旧式の複葉機や練習機などで、近代的な戦闘機はなかった。

 前述のとおり英仏は自国向けで精一杯で、ドイツは論外、チェコスロバキアもキャパオーバーという状況だったので、自然と東欧各国は合衆国からの輸入に走った。

 東欧どころか、フランスさえも自国の軍事産業が、戦間期に腐り果てていたので、合衆国からの輸入が頼りだった。

 しかし、合衆国の動きは鈍かった。

 民生用の商用機の輸出は許可したものの、軍用機の輸出は中立を盾に頑なに拒否した。

 小火器や大砲、戦車といった武器の輸出についても同様だった。

 

「植民地人の悪い癖が出た」


 とチェンバレンは考えた。

 合衆国がモンロー主義に走ったと考えたのである。

 旧世界のトラブルから逃れるために新大陸で引きこもりを図るのは、合衆国外交の伝統のようなものと言えた。

 また、翌年に選挙を控えた合衆国の動きは慎重にならざる得ないという観測もあった。

 選挙が終われば風向きを変わるだろうとチェンバレンは楽観していたが、イタリアのムッソリーニはこれを意図的なサボタージュと見なした。

 ルーズベルト政権は以前から容共的な発言や、外交政策が目立っており、ソ連との密約があるという噂があった。

 合衆国の外交姿勢は欧州を意図的に無防備な状態にすることで、ソ連の対日戦争を側面から支援していると見なしたのである。

 龍宮内親王は、さらに直接的に合衆国の利敵行為を批判した。

 合衆国内で活動する海援隊企業に、合衆国が中立を盾に制裁を課したためである。

 主なターゲットになったのは、N.W.Iといった海援隊大手の自動車メーカーだった。

 N.W.Iは、日竜陸軍向けに様々な戦車や装甲車両、軍用トラックを生産していた。

 生産工場は満州や日竜本土にあるため、合衆国内で生産しているわけではなかったが、N.W.Iの活動は中立に違反しているとして、政府調達からの排除や政府系金融機関からの資金調達等を禁止した。

 海援隊傘下の金融機関(ドラグーン・バンクやハスターフィナンシャル)も制裁の対象となった。

 海援隊はこれを不服として、連邦政府相手に集団企業訴訟を起こした。

 合衆国政府による海援隊企業への制裁は、明らかに不公平なものだった。

 なぜならば、制裁の対象となったのは海援隊企業のみで、日竜軍に軍需品を卸す英国企業は制裁の対象外だったからである。

 また、中立を謳うなら、ソ連国内で活動する合衆国企業を引き上げるのが筋だろう。

 合衆国企業は、1936年頃からソ連海軍再建計画に関与している疑惑があったから猶更である。

 そうでないのならば、日竜を狙う撃ちにした経済制裁という他なかった。

 これは事実上の対日経済制裁の始まりだった。

 不審な行動が目立つ合衆国に注意を払いつつ、日竜軍は当面の目標として、ソ連沿海州の占領を目指した。

 1939年9月11日には、三軍合同作戦であるウ号作戦が始まる。

 ウ号作戦の目標は、ウラジオストク、ハバロフスク、さらに沿海州の占領だった。

 作戦に参加したのは15個師団で、第2方面軍が投入された。

 1939年9月時点では、日竜陸軍の総師団数は全48個師団だったから、陸軍の3分の1が投入された計算になる。

 空軍も2個航空艦隊約2,000機を動員し、さらに強襲上陸作戦を行うため連合艦隊主力が投入された。

 日竜軍がウラジオストクと沿海州占領を急いだのは、ソ連海軍太平洋艦隊の封殺と本土爆撃阻止のためだった。

 実際には、ソ連空軍は洋上飛行能力に問題があり、本土を爆撃できる体制ではなかった。

 下手に洋上飛行などを教えようものなら、パイロットが国外へ亡命しかねないためである。

 同じ理由で、ソ連空軍の対艦攻撃能力は極めて低かった。

 そのため、戦艦4隻、空母4隻を主力とする小沢機動部隊は、容易に沿海州を荒らしまわることができた。

 小沢機動部隊は、連合艦隊の各艦隊から艦艇を抽出して編制した臨時編成艦隊で、空母蒼龍、飛龍を基幹とする第1航空戦隊を率いる小沢竜三郎少将が指揮をとった。

 小沢少将は、日竜海軍きっての航空戦の専門家であり、空母航空戦力の集中運用を訴え、ウ号作戦にてそれを実現させた。

 日竜海軍上層部は、海軍の主力は潜水艦だと考えていたが、水上艦隊の主力については何に重きを置くべきか判断に迷っていた。

 海軍に3割しかいない日本人は、戦艦こそ水上艦隊の主力だと信じていた。

 あるいは、対艦誘導弾を搭載した水雷戦隊こそ主力だとする意見もあった。

 それに対して小沢提督は、早期から航空機を運用する空母こそ、水上艦隊の主力であると主張してきた人物だった。

 およそ250機の航空機を満載した空母4隻を基幹とする艦隊は、ウラジオストク強襲を見事に成功させた。

 ウラジオストクにはド級戦艦の主砲を転用した12インチ砲台などがあったが、空爆には無力だった。

 陸軍3個師団の敵前上陸援護においても、空母艦載機による制空権確保と近接航空支援は極めて有用だった。

 空母機動部隊に配置された戦艦4隻(金剛・霧島・榛名・比叡)は艦砲射撃ぐらいしか出番がなく、海上戦闘の主役交代を印象づけただけだった。


挿絵(By みてみん)

小沢竜三郎提督のポートレート。「空母機動部隊で米太平洋艦隊を殲滅するのです!」というのが提督の口癖だった。国民的に人気のある人物だったが、部下からは「小沢提督はあざとい」と言われていた。


 なお、空爆でつぶされるのは目に見えていたので、ウラジオストク強襲前にソ連は在泊艦艇を脱出させていた。

 そのため、強襲で仕留められた艦艇はごくわずかなものだった。

 しかし、根拠地を失った艦艇は根無し草も同じであり、ほかの拠点も台風のように沿海州を荒らしまわった小沢機動部隊の空爆から逃れることは不可能だった。

 結果、ソ連太平洋艦隊は開戦から3週間でほぼ無力化した。

 しかし、その後もソ連海軍の潜水艦は思い出したかのように本土沿岸に出没し、日竜の沿岸航路を脅かした。

 その大半は、襲撃で居場所を暴露するとすぐにマイクロ波電探装備の対潜哨戒機や駆潜艇に捕捉されて撃沈されている。

 それでも季節外れの蚊や虻のように現れては海底送りになるソ連潜水艦は絶えず、日竜海軍を大いに苛立たせた。

 どこかにソ連潜水艦の基地が隠されていることは明らかで、日竜艦隊はありとあらゆる手段を投じて、ソ連の秘密潜水艦基地を探すことになった。

 それでも見つからないソ連の秘密基地をめぐって、日竜はある疑惑を確信へと変えていくことになるのだが、それについては後述する。

 沿岸からの強襲上陸と満ソ国境から雪崩れ込んだ戦車部隊の電撃戦で、ウ号作戦は作戦開始から3週間で所定の目標を達成した。

 ウラジオストクやハバロフスクも死守命令を受けた守備隊とともに完全包囲された。

 ただし、大変だったのはここからで、ウラジオストクなどは立てこもった守備隊によって都市要塞化しており、都市区画ごとに一つ一つ制圧していくしかなかった。

 日竜軍は損害を減らすために降伏勧告を積極的に行ったのだが、まったく効果がなかった。

 死守命令を受けたNKVD部隊や督戦隊によって監視されたソ連軍は、文字通り最後の一人が死に絶えるまで戦い続けた。

 特に狂信的なスターリニストを集まったNKVD部隊の戦いぶりはすさまじいものだった。

 銃火器などの武器がなくなったあとは死んだふりをして、不用意に近づいた日竜兵を巻き込んで自爆するなど、正しく狂信者の戦いぶりを示していた。

 死んだふりをしていたのではなく、最初から死んでいて電気信号で操られた死体ゾンビ兵との意見もあるが、それはさておく。

 ウラジオストク市街戦は、包囲成功から1か月に渡って続き、市街地が完全に制圧されたのは、1939年11月3日だった。

 既にシベリアには雪が舞っており、厳しい冬の訪れに伴って戦線は膠着状態に陥った。

 元より年単位の長期戦を想定していた日竜軍は、冬ごもりの準備もぬかりはなく、シベリアの土が凍り付く前に塹壕や地下壕を掘り終わっていた。

 そのため、ソ連軍の冬季反撃は失敗に終わった。

 一部の前線部隊が包囲されることがあったものの、駆け付けた戦車中心の機動防御部隊に叩きのめされて撃退された。

 ソ連の冬季攻勢を先鋒したのは、BT-7やT-26などの軽戦車だった。さらに少数だったが新鋭のKV-1重戦車も投じられた。

 ソ連軍幹部は重装甲のKVー1に大きな期待を寄せていた。

 確かに、KV-1は角度によっては九七式中戦車の75mm砲(56口径)を弾くこともあった。

 しかし、側面は耐えられないうえに、歩兵を伴わず突出することが多かったので、歩兵携帯対戦車火器に側背をつかれて容易に撃破された。

 日竜陸軍が歩兵部隊に配備した九八式九糎噴進砲は、HEAT弾頭をもつ対戦車ロケット弾発射器で、正撃した場合120mmの装甲を貫徹した。

 また、噴進砲以外にも少数が実験的に投入された有線誘導式対戦車誘導弾ミサイルが猛威を示した。

 試製百式対戦車誘導弾は、発射機とミサイル本体を合わせても総重量が10kgしかなく、既存の対戦車砲(75mm砲)などに比べて圧倒的に軽量だった。

 しかも、小型であるためで地形のわずかな起伏に隠れることが可能で、障害物の少ない平原の戦場でも効果的だった。

 対戦車誘導弾の有効射程は最大3kmだったが、その距離では命中は期待できず、おおむね有効射程は1km以内程度だった。

 それでも、歩兵にとっては革新的な長距離誘導兵器だったといえる。

 もちろん、最初期の対戦車誘導兵器だけあって、機械的信頼性の不足は深刻な水準といえた。

 飛翔しないだけならまだマシな方で、発射後の制御不能になり、発射器に向かって戻ってくることもあった。

 それでも日竜軍が既存の対戦車火器から置き換えを全力で進めたのは、誘導兵器のもつメリットが圧倒的に勝っていたからといえる。

 本来ならば、視界の悪い戦車は歩兵の援護を受けて戦うものだが、ソ連の戦車隊は通信機器が未装備な車両が多く、歩兵との連携を欠いていた。

 しかも大粛清の影響でまともな高級将校が払底しており、指揮能力が極度に低下していた。

 代わりに配置された”新”将校は、上からの指示がなければ何もできないようなイエスマンばかりだった。

 しかも、戦場の変化をまるで認識していないかのような態度をとり、上からの無意味な命令を墨守しようとするなど、将校として根本的に不適格な人物が多かった。

 日竜軍は、こうしたソ連軍の将校を人間ロボットと揶揄した。

 まさか本当に人間をロボット化して、毒電波で操っているわけがないので、これは比喩表現というものである。

 それはさておき、ソ連の冬季反撃を跳ね返した日竜軍は、総動員で膨れ上がった兵力で夏季攻勢を計画した。

 春季攻勢ではないのは、シベリアの春は雪解け水による泥濘の季節だからである。

 ロシアの大地は、スプーン一杯の水がバケツ一杯の泥を作るという世界で、雪解けの季節はありとあらゆる場所が泥の海に沈むことになった。

 道路も例外ではなく、無限軌道をもつ走行車両でさえしばしば立往生した。

 そのため、雪解けの春と雨が多い秋は悪路の季節と呼ばれた。

 大量輸送が可能なのは鉄道だけで、日ソ両軍の大軍が展開できるのは鉄道沿線の限られた地域だけだった。

 鉄道駅から離れた地域に展開した場合、必然的に輸送はトラックに頼ることになるが、日ソ両軍ともに生産できるトラックの数には限りがあった。

 トラックだけでなく、馬匹も大量に動員されたが、それでも輸送力が両軍の需要を満たすことは最初から最後まで一度もなかった。

 よって、展開できる戦力の絶対数が鉄道の輸送力によって限定された。

 その輸送力も様々な要素によって拘束された。

 何しろシベリアには自給自足可能な農地がなく、武器弾薬のみならず燃料や食料も全て後方から送るしかなかったからである。

 日竜軍は、総動員体制を整えて1940年末までに戦時100個師団(総兵力300万体制)を確立しようとしていたが、前線展開した兵力は多く見積もっても20個師団だった。

 それ以上の兵力展開は、シベリア鉄道の輸送限界を超えてしまうためである。

 事情はソ連軍も同じであり、日ソ両軍は似たような兵力で戦うことになった。

 夏季攻勢に間に合うように日竜軍は指揮系統の整理を図り、シベリア軍集団を設置した。

 軍集団司令官には山下奉文陸軍大将が着任した。

 山下大将は、龍宮内親王のお気に入りの将軍の一人で、この人事は必然だった。

 日竜軍の夏季攻勢”イ号作戦”は、1940年6月21日に攻勢を開始し、2個戦車軍がバイカル湖、イルクーツクへ向けて突進を開始した。

 地上攻勢に先だって激しい航空撃滅戦が行われており、日竜空軍がソ連空軍を圧倒して制空権を確保した。

 この時、実戦投入されたのが世界初の艦上ジェット戦闘機となる零式艦上戦闘機だった。

 零式艦上戦闘機は、推力1.2tのネ20ターボジェットエンジン2基を搭載した双発円盤翼ジェット機で、レシプロ機主体のソ連空軍を圧倒した。

 九六式艦上戦闘機をそのままジェット化した零戦は、プロペラがなくなった分だけ完全な円盤型に近づいたことから、多くの海軍将校を狂喜乱舞させた。

 あまりにも零戦が完璧に円盤型であるため、海軍航空行政は後継機も円盤型にしようとして迷走し、海軍航空隊は大戦を通じて零戦で戦い続けることになるほどの円盤型だった。

 幸いなことに大戦中に零戦を超える性能をもつジェット機を敵対勢力が投入することはなかったため、零戦は無敵伝説を作り上げることになった。

 零戦は速度が乗った状態であれば、既存のいかなるレシプロ機よりも高速(時速900km)で、圧倒的な速度性能を生かして一方的な攻撃と離脱が可能だった。

 空軍の航空支援のもと、2個戦車軍(6個師団)は快進撃を続け、2か月で1,200km前進して、9月末までに攻略目標のイルクーツクを攻略した。

 イルクーツクは、ロシア極東地域とウラル・中央アジアをつなぐシベリア東部経済、交通の要衝である。

 そのため、ソ連軍6個師団が市街地に立てこもって頑強な抵抗を示した。

 ここでも狂信的なスターリニスト集団であるNKVD部隊が文字通り死兵となって戦ったため、日竜軍に大きな犠牲が出た。

 そのため、日竜軍は市街戦対策として、様々な新装備の開発や戦術の改良に取り組むことになるが、政治的なアプローチも試みられた。

 トロツキー率いるロシア解放軍などがそれにあたる。

 スターリンとの政争に敗れて国を追われたトロツキーは、個人的に交流関係(主に文通仲間)があった龍宮内親王を頼り、日ソ開戦前から満州王国を拠点に反スターリン活動を行っていた。

 日ソ開戦後は、日竜軍が獲得した捕虜を迎え入れて、ロシア解放軍を結成し、40年夏ごろから前線戦闘にも参加していた。

 龍宮内親王は、領土的な野心がないことを示すために占領地の行政権なども積極的にロシア解放軍に委ねる方針だった。

 あっさりと占領地をロシア解放軍に引き渡したことは国内右派から強い不満が出たが、それは誤解というもので、実際は占領軍司令部による間接統治体制だった。

 占領軍司令部を率いたのは、21世紀現在に至るまで仁将として名高い今村均陸軍大将である。

 今村将軍の占領統治は今日においても極めて人道的なものだったと評価が高い。

 ロシアの歴史上、最も慈悲深いツァーリという表現さえあるほどである。

 シベリア各地には今村将軍にちなんだ記念碑や地名が数多く残されているが、そうした有形なものよりも大きな形なき足跡を今村将軍はシベリアに残した。

 それが、事実上のユーラシア大陸共通言語となっている美桜語である。

 別名、シベリア日本語スラヴィック・ジャパニーズとも言う。

 占領地においてシベリア日本語の普及に尽力したのは、美桜南兀陸軍中佐である。

 美桜中佐は、日竜陸軍きってのロシア通で、しかも言語学の博士号をもつ日竜陸軍の逸材だった。

 占領軍司令部の行政を主導した東方プロジェクト会議の主要なメンバーでもある。

 東方プロジェクト会議とは、シベリア生存圏獲得を図る龍宮内親王の意を受けて活動した政府・軍部にまたがるインナーサークルで、占領行政に多大な影響を及ぼした。

 会議のメンバーには、えりすぐりの人材が集められ、甘詰留多、琴義弓彦、山文京田といった後に各省庁の次官に栄達した者や政界に転出して代議士になったものが多い。

 美桜中佐は、竜宮人とロシア人(スラブ語族)との融和を図るためには、言語教育がもっとも重要と考え、スラブ語話者でも容易に取得できる新日本語を考案した。

 人工的に改良されたスラブ語風日本語の特徴は、発音を容易にするため、舌足らずになることで、だ行はもれなくら行にかわり、さ行も基本的にしゃ行になる。

 悪い言い方をすれば、幼児退行的といえるかもしれない。

 さらに語尾が長くなり、巻き舌によって濁ることや極端な長さのために、内地の日本人には理解できない事すらあるほどである。

 筆者の友人 (セフレではない)は、今では内地日本語を話すようになっているが、大陸出身であるため、感情的になると美桜語がでる。

 そういう時の美桜語は非常に早口で、巻き舌の発音になることから、筆者にはほとんど聞き取ることができない。

 しかし、なぜか意味が通じるという特徴があり、美桜語はコミュニケーションツールとしては極めて優秀である。

 話がそれたが、あくまで日竜の戦争目標は共産主義スターリンの排除であって、トロツキー優遇はロシア人と日竜人の戦争という構図にフォーカスさせない意図があった。

 スターリンが、日ソ戦争が勃発するとすぐに大祖国戦争を叫んで、ロシアの民族主義に訴えたことを考えれば、対抗プロパガンダとしてトロツキーのロシア解放軍は極めて重要だった。

 また、日竜軍は極東シベリア各地に点在していたソ連の強制収容所を積極的に解放して回っていた。

 スターリンは、政治犯からソ連の実態が漏れることを恐れて、収容所の移転や政治犯の”処分”を進めていたが、大粛清で大量の政治犯が発生していたこともあって、全ての証拠を処分することはできなかった。

 龍宮内親王は、戦争の正義が日竜にあることを示すために、解放した強制収容所を西欧のマスコミへ公開した。

 コルィマ鉱山などは、囚人の平均寿命が3週間という劣悪な環境で強制労働が行われていたこともあって、鉱山周辺の永久凍土に打ち捨てられた死体は膨大な数にのぼった。

 NKVDは、ソ連最大の金鉱山が日竜の手に渡ることを回避するため、鉱山を爆破して囚人を生き埋めしようとしていた。

 実際に、鉱山の一部は爆破されたが、爆薬の量が不足していたことや処分されることを悟った囚人が反乱を起こしたこと、さらに日竜空挺部隊の迅速な展開によって鉱山の完全破壊は阻止された。

 ソ連の強制収容所の実態が写真付きで報道されると国際世論はソ連への批判を強め、日竜支持に大きく傾くことになる。

 西欧の、特にドイツの共産主義勢力は日竜の情報公開で大打撃を受けた。

 各国の左翼運動家は、日ソ戦争を日竜による侵略と定義して、口撃を繰り替えしていたが、ソ連の悪行が暴露されると沈黙するか、自己弁護に終始することになった。

 日竜国内世論も、強制収容所の実態が明らかになるとロシア人への同情を深め、悪しき共産主義勢力撲滅に決意を新たにすることとなった。

 以後、日竜軍は進軍先で次々と強制収容所を解放して回ることとなり、基本的にそれらの成果はマスコミに向けて公開された。

 ただし、ソ連の先進的な兵器研究を行っていた一部の強制収容所は、非公開とされた。

 スターリンの大粛清では、愚かしいことに一流のエンジニアさえも、いらぬ嫌疑をかけられ強制収容所へと送られ、収容所の中で兵器開発を行っていた。

 破壊や処分を免れたそれらのデータはエンジニアごと日竜軍に接収された。

 そうしたソ連の秘密研究施設については、21世紀現在でも情報公開の対象外となっており、多くの好事家の興味関心を引いている。

 2000年代にインターネットに流出した資料から、Xナンバーと呼ばれることになったソ連の秘密研究所では、常軌を逸した研究が行われていたことが示唆された。

 X18と呼ばれる地下施設では、軍事兵器と人間の死体を融合させた兵器人間の開発・製造が行われたとされる。

 X18で撮影された機密写真は、腹部から機関銃が突き出した改造中の死体や、口や手足がドリルになった死体、頭部をレシプロエンジンに換装した死体といったフランケンシュタイン博士も裸足で逃げだすようなおぞましい代物と捉えていた。

 また、培養液プールに浮かぶ10m以上ある巨大な人間の頭部と思われる写真や人間の遺伝的な形質を備えた怪生物を捉えたものもある。


挿絵(By みてみん)

Ⅹ研究所で撮影されたとされる写真。人型の不明生物が映り込んでいる。


 こうした写真はいずれも後世の創作、合成写真であることが明らかにされたが、ソ連が人間を原材料にした兵器開発を行っているという噂は戦時中から既に存在していた。

 ゲイリン伍長という戦場フォークロアである。

 ゲイリン伍長とは、アントノフ・ゲイリンという狂信的なスターリニストのことである。

 それだけなら、ソ連ではありふれた氏名・プロフィールなのだが、ゲイリン伍長は複数存在していることが特異だった。

 すなわち、NKVDの1個小隊や1個中隊、それどころか1個大隊が全員、ゲイリン伍長ということである。

 日竜軍がNKVD部隊を殲滅すると同一人物としか思えない死体が大量に発見されたことから、ソ連が人間を複製しているのではないかという噂話が生じた。

 また、突撃の際、


「ハハッ!ゲイリンー!!」


 と哄笑したというバリエーションもある。

 もちろん、そのような事実は存在せず、日本人ではスラブ人の見分けがつかないことから生じた戦場怪談である。

 おそらく、兵士が畑でとれると揶揄されるほど消耗を顧みない人海戦術を多用したソ連軍に苦しめられた陸軍の古参兵が思いついたホラ話であろう。

 まさか本当に兵士が畑か、工場で生産していることなどあろうはずもない。

 話がそれたが、イルクーツク攻防戦は頑強な抵抗を続けるNKVDに手を焼きながらも、ロシア解放軍の手引きもあって、戦意喪失したソ連兵の投降が相次いだことから9月末までには全市街地を日竜軍が掌握した。

 日竜軍は、1940年の夏季攻勢を成功と判定した。

 ただし、死傷者18万人という数字は大きく、依然としてソ連野戦軍が健在であることを考えると先行きを楽観することはできなかった。

 東京からイルクーツクまで既に3,400kmも離れており、モスクワはさらに遥かかなたにあるからである。

 また、合衆国の動向も大きな懸念事項だった。

 ルーズベルト政権は、中立法の厳格化を進めて、日本への戦略物資の禁輸措置を拡大していたからである。

 特に自動車関連部品の輸出禁止は、日竜国内のサプライチェーンを大きく混乱させた。

 日竜企業は仕入れ先変更や、カナダ経由の迂回貿易に切り替えて対応したが、今後はさらに禁輸措置が拡大するという観測が大多数だった。

 特に原油や石油製品の輸出禁止は必定だと思われた。

 日竜軍が様々な機械的なトラブルを甘受してでも航空戦力のジェット化を進めていたのは、ハイオクタンガソリンなどの軍需物資の禁輸に備えるためでもあった。

 そのため、日竜の政府関係者は1940年の大統領選挙では共和党候補のウェンデル・L・ウィルキーに大きな期待を寄せた。

 共和党が勝利すれば、日竜側での参戦はないにせよ、反共戦争に一定の理解が得られると思われたからである。

 実際に合衆国国内では、日ソ戦争について共産主義勢力と資本主義の決戦とする見方もあり、資本家や企業経営者、銀行家などは日竜に好意的だった。

 資本家層は、ロシア革命の際にボルシェビキ政権が合衆国の在露資産を没収したことを忘れていなかった。

 そのため、ウィルキーが反共を掲げると多くの選挙資金が彼の手元に集まった。

 さらにルーズベルトが合衆国大統領の慣例であった3選禁止を破って立候補すると世論は共和党に傾いた。

 さらにウィルキーは、合衆国海軍の内部告発という武器を手にしていた。

 合衆国海軍の良識ある提督の告発によれば、アリューシャン列島の某所でソ連潜水艦に対して合衆国海軍が秘密裡に武器弾薬・燃料などを提供していた。

 これが事実なら政権を吹き飛ばす核爆弾に等しい代物だった。

 当然、ルーズベルトは事実無根と全否定した。

 しかし、日竜海軍が撃沈したソ連潜水艦から、合衆国製の食料品や衣料品の残骸などを回収、公開して合衆国に質問状を送付するなどしたため、疑惑はさらに深まった。

 内部告発と日竜の質問状があまりにもタイミングよく出てきたため、ウィルキー陣営と日竜の政治的共謀が疑われたが、真相は闇の中である。

 後年になって、MI6の退職者が日竜海軍の資料をウィルキーに提供したことを暴露する本を出版したが日竜政府はノーコメントを貫いている。

 ルーズベルトは全ての証拠を捏造・陰謀であると跳ね除け、議会においても事実無根であると明言したが、次々に新しい証拠が出てきて答弁に窮することになった。

 このスキャンダルを受けて世論調査でも、ウィルキー優勢が確定することとになり、共和党は開票前から楽観的なムードが漂い、久しぶりの政権奪還に祝杯をあげた。

 しかし、投票箱のふたを開けてみると選挙は、僅差でルーズベルトの勝利に終わった。

 多くの州で早々とウィルキーの勝利が確定したが、フロリダ州など選挙人の多い州でルーズベルトが勝利したため、選挙人の数でルーズベルトが勝り、逆転勝利となった。

 ちなみにフロリダ州では、327票の差でルーズベルトが勝利した。

 票差が少ない場合、合衆国の選挙管理法では公正を期すため数えなおしが行われるが、なぜかこの時は数えなおし前に投票結果が確定した。

 こうした事案は、ほかの選挙人が多い州でも発生した。

 そのため、ウィルキーは再集計を求める訴訟を起こした。

 連邦最高裁判所がこの訴えを棄却したことでルーズベルトの勝利が確定したが、棄却に至る意思決定については非公開とされた。

 フロリダ州の集票作業についても、投票箱を紛失したり、集計表を誤って廃棄処分した選挙管理委員会の責任者が失踪するなどしたため、FBIの捜査も行われた。

 FBIの捜査は、失踪した責任者が記憶喪失状態で発見されたため中止されたが、フーバーFBI長官の圧力が噂された。

 収集された捜査資料は非公開資料(Xファイル)となった。

 ルーズベルトはFBIの捜査の終了をもって選挙戦の勝利を宣言した。

 しかし、当時としてもかなりの数の人々が、その勝利に疑いのまなざしを向けた。

 ウィルキーはルーズベルトの勝利を認めず、


「選挙を盗まれた」


 と訴えたが、大勢を覆すには至らなかった。





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― 新着の感想 ―
[一言] 東方プロジェクトのくせに中身R18やないか!
[良い点] 小沢提督のポートレート、指の数大杉だと思ったけど、竜宮人だからこれで正確なんですねわかります(AI並感) [気になる点] 草鹿竜之介(多分この字ですよね)が出てこなかったけど、対米戦からの…
[良い点] 「黄色はあざとい」これ世界の真理w [気になる点] 反共主義者のフーバーもナニかサレテしまったのか? 奇襲されるのは真珠湾か横須賀か?
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